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「お姉ちゃん、初詣行かない?」

「えっ?」


デスクでデザイン画を描いていたあたしは、ドアが開かれた途端の発言に驚いて、思わず手の中からペンを落した。
振り返り、部屋に入ってきた雪乃を見上げる。


「行く!
でも急にどうしたの?」

「明日から学校だし、始まっちゃうともう行かなさそうだから」


雪乃はそう答えて、あたしのベッドに勢いよく座り、笑みを見せた。

新年を迎えてから、無言電話はなくなっていた。
なにもない平穏な日々を過ごすうちに、雪乃の気持ちも少しずつ落ち着いてきたのか、食欲も随分戻ってきたし、リビングに顔を出す回数も増えた。
それでも家にはずっといて、外に出ることはなかったから、心配だったのだ。

出かける気になってくれたことがとにかく嬉しくて、あたしは描きかけのデザイン画をそのままに、雪乃の隣に腰掛けた。


「あたしも、行きたいなとか思ってたんだ。面接も近いし」

「ならちょうどよかった。
あ、デザイン画の方どうなの? 描けてる?」

「うん、まあボチボチね。
見てみる?」

「いいの!? 見たい!」


そう瞳を輝かせる雪乃に、あたしは目を細める。
こんなに明るい雪乃を見るのも久しぶりだ。

すぐに立ち上がり、完成しているデザイン画を取り出して雪乃に手渡した。
ここ数日で描き上げたデザイン画は、三十枚ほどになっていた。

雪乃は興味深そうに、ケント紙に描かれたアクセサリーを眺める。


「すごーい! 可愛い!
……ていうか、お姉ちゃんにこんな才能があったなんてビックリだよ!」

「さ、才能って……そんな凄いものじゃないよ」

「えー、ほんとに凄いって。これ、あたしめちゃ好きなデザインだよ。
あっ、こっちも可愛い!」

「そう言ってもらえると、嬉しいけど……」

「これもいいなー。ね、この白い石は何?」

「それはね、ムーンストーン」

「ムーンストーンかぁ。あー、あたし、コレ欲しいなぁ」


一枚ずつ丁寧にデザイン画を見つめる雪乃は、まるで宝物を見つけた子供みたいに可愛い笑顔ではしゃいでいる。


こんな笑顔が自然と出来るようになってよかった。
……少し元気が出たみたい。

いくら今落ち着いているからといって、不安は拭えない。
明日から学校も始まるし、この先も何ごともなければいいけど……。

久し振りの外出は、雪乃にとっていい気分転換になるだろうな。








原宿駅を降りると、休日の今日は人で溢れ返っていた。
あたしたちと同じように、初詣に明治神宮に向かう人、それから竹下通りや表参道へと買い物に向かう人、と。とにかく凄い人だ。
学生は冬休み最終日だから余計なのかもしれない。

人波の上には、ケヤキの細い枝々が冬の青空に悠々と伸びて、北風に揺れていた。

表参道口から見る景色に、あのときを思い出す。
零が迎えに来てくれたときのことを。


今日帰ってくる予定って言ってたけど、連絡もないし、帰ってこられないのかな……。


ぼんやりとそんなことを考えていると、自分の歩調が緩まっていたことに気付く。
慌てて隣を見ると、雪乃の方は足が止まっていた。
切ないような表情で、視線を表参道に向けている。


「どうかした?」


不思議に思って声をかけると、雪乃はハッとしたようにこちらに顔を戻す。


「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

「……そう? 大丈夫?」

「うん。行こ」


雪乃はすっとあたしの腕を取って、明治神宮の方へ歩くように促す。
そして、それっきり黙ったまま、少し俯きがちに歩き始めた。


檜の鳥居が悠然と構えられ、古木の深い味わいが更に神秘性を増していた。
その鳥居を潜り抜け南参道の入り口に入ると、都心にいるとは思えないくらいの緑が溢れ、複雑に犇めく雑踏の街並みの景色から、厳かで静かな雰囲気に一変する。

本殿へ向かう人々に倣うように、玉砂利が敷き詰められた長くまっすぐ続く道を歩いていると、不意に雪乃が口を開いた。


「クリスマスイブにね、零と歩いたんだ……表参道」


どきりとして、勢いよく雪乃の方へと振り向いた。


つばきが、表参道で雪乃と零を見かけたって言ってたときのこと――?


急にされた話に驚いた顔をしているあたしへ、雪乃はどこか哀しそうに微笑んだ。


「河西くんと零んちに迎えに行ったときは既に家にいなくて。
で、零、パーティーにも来なくて……。結局、夜に家まで押しかけたんだ」


雪乃が零の家まで行ったの……?


「行ったんだけど、家には誰もいなくて。
イブに夜遅くまで出かけてるってことは、女のトコロだよなって想像出来て……。
だけど帰る気になんてなれなくて。ずっと、家の前で待ってたの、零が帰ってくるの」

「……ずっと?」

「うん、ずっと。
馬鹿でしょ? あたしもね、自分で馬鹿だなーって思った」


ははっと、雪乃は苦い顔つきで声を上げて笑った。

本当の感情を押し殺している雪乃を見て、ずきりと胸が痛んだ。


寒い中、零が帰ってくるの待ってたの?
家の前で?
ずっと?

あたしと零が会ってるときに……。


「イブに女の人と会ってて、帰ってくるわけないじゃん……って」

「……」

「家の前にね、座り込んで……携帯の時計と睨めっこしながら、零と同じ恋愛のお守り握り締めてさ。
手も足も冷え切ってて、寒いより痛いの。身体も心も、めちゃめちゃ痛いの……。
零といる誰かもわからない女のひとを想像して、苦しくて……。
だけど……もし、帰ってきてくれたら、あたしの気持ちが叶う気さえしてきて……」


雪乃は、ふうっと一呼吸置くように小さく息を吐いて、続ける。


「時計が0時に変わって……もう駄目だな、帰ろうって、そう思ったんだけど……。
でもそこから動けなくて……立ち上がることもできなくて……。
握り締めてたお守りみつめて……お願い返ってきてって……。
そしたら、向うから車のライトが光ってるのが見えて。帰ってきたんだ、零が」


思わず雪乃をみつめる。

雪乃は前を向いたまま少し微笑んで、顔の前で手を合わせていた。
細く長い指先を組み遠くを見る雪乃は、冬の陽に照らされて綺麗だった。


「信じられなくて……でも嬉しくって。心臓が壊れそうなくらいドキドキして。
これって奇跡なんじゃないかって思ったの。
ね、お姉ちゃんもそう思わない?」


雪乃は相槌を求めるようにあたしを覗き込んできた。


「うん……そうだね」


どうにか笑顔を作ってそう答えたけど。
内心は複雑な気持ちが絡み合っていて、苦しい。


こんなふうに、本当に何も言えないままでいいの……?。


雪乃の顔を見ているのが辛くなって、今度はあたしが俯いた。

ゆっくりと歩む長く続く神聖な道。
足を進めるたび、薄いパンプスの底に砂利の感触を強く感じた。


「それで……一緒に少し歩きたいってお願いして、表参道を歩いたんだ」

「……うん」

「でも、上手くはいかないんだよね」


ふーっと雪乃は長い息を漏らし、そこからの言葉は続かなかった。
黙り込んでしまった雪乃の横顔を、あたしはそっと覗いた。

視線の先には、眉を顰め苦しそうに唇を噛む雪乃がいた。

あたしも黙ったまま足を前へと動かしていると、雪乃は一度空を眺めて。
それから続きを話しだした。


「イブに会った人、だもん……零にとってどんな存在か想像はついたけど……。
彼女? って聞いたんだ。そしたら、違うって」

「……」

「だけどね、オレの好きなひとって……」

「そ、う……」


それしか答えられなかった。
雪乃の口から発せられる言葉たちに、どうしようもない気持ちが込み上げてくる。


「零が大事にしてた恋愛のお守り……同じのを握り締めてたから、あたしの願いが叶ったんじゃないかって、そんな気さえしたから。
だからなんだか、零がそのひとから貰ったとかだったら嫌で……。
ホントはとっくに想像ついてたけどハッキリしたくて、その好きなひとが零にお守りくれたひとなのか訊いたの」


雪乃の大きな瞳が揺れて微かに滲む。


「そうだよって、言われたの……」


まっすぐ前を向いていた視線は、足もとに落された。
きゅっと一文字に引き結ばれた唇が、本当は泣きたいのを我慢しているんだと感じた。

罪悪感でいっぱいになって、雪乃の顔が見られなくなり、下を向いて言った。


「そっか……」

「うん……誰と会ってたかも察しなんてついてたのに。
だけどあんなふうに会えたから……なんだかそれを自分で消化することが出来なくって……。
だけど……救いだったのは『好きなひと』で、『彼女』じゃないこと。
だからね、訊いたんだ。そのひとは零のこと好きじゃないの? って」

「……う、ん」

「そしたらね、その人には忘れられないひとがいるからって……」


違う。
本当はそうじゃないのに。
本当は零が好きなのに……。


ぎゅうっと胸が締め付けられた。
胸の痛みと一緒に、握りしめたてのひらにもぐっと力がこもる。


「だけどね」と、雪乃は溜息に似た息を吐く。


「零ね、だからって諦められないから。諦め方なんてわかんねぇ、だって」


え……?


また胸が締め付けられる。
だけど数秒前のものとは違う締め付け方だ。


「あたしもね、諦め方、わかんないやーって。
そう言われちゃったら告白なんて出来なかったし、零もあたしの気持ちに気付いてるからそんなふうに言ったのかもしれないけど。
だけど、あたしも諦めたくないな、って、そう思ったの」


そう雪乃は、泣き出しそうだった顔にふっと笑みを浮かべた。

凛としたまっすぐな横顔。

この神聖な場所に相応しい顔つきに、何も言えない自分の汚さが浮き彫りになったみたいだった。


雪乃の口から零の気持ちを聞かされるなんて――。


足の裏に感じる玉砂利の感覚が、ことさら身体に響いた。







日本一と謳われる大鳥居が見えてくる。
樹齢1500年を超えるという檜材のその大鳥居は、入口の鳥居とは愕然たる違いを見せつけるかのように立ち誇っていた。
左右に取り巻く大きな緑の木々も、その景色の一部として清らかで森厳に目に映る。

南参道と、代々木口から続く北参道との出会い口のこの場所は、参拝客が溢れていた。


大鳥居を見上げて、「凄いね」と思わず呟くと同時くらいに、雪乃の携帯が鳴りだした。


「河西くんだ……」


雪乃はダウンのポケットから取り出してディスプレイを確認すると、あたしに目配せしてから電話に出た。


「もしもし?
うん、今ね、お姉ちゃんと明治神宮に初詣に来てるんだ」


笑顔で受け答えする雪乃を見てホッとした。
河西くんは……雪乃の支えになってくれている。


電話の内容を傍で聞いているのも悪くて、少し離れていようと鳥居の柱の方へ移動すると、「お姉ちゃん」とすぐに雪乃に呼び止められた。

振り返って戻ると、雪乃が携帯を持ったまま走り寄ってきた。


「なに?」

「河西くん、近くにいるんだって。今から来るって言うんだけど、いい?」

「そうなの? 近くにいるなんて偶然だね。
もちろんいいよ」

「ありがと」


雪乃はにっこりと微笑むと、また携帯を耳に当てて話し始めた。

あたしはそこから少しだけ距離を取ると、手持無沙汰に大鳥居を見上げた。
厳格に聳える神域へ入り口は、ひっきりなしに参拝客が潜り抜けていく。
人々のざわめきの中には鳥のさえずりが聞こえてきて、緑を茂らせる大木と厳かな大鳥居の風景は美しくて心に沁み入る。

趣深い光景に見惚れていると、後ろから元気な声で雪乃に呼ばれた。


「お姉ちゃん!」

「あ、電話終わった?」

「うん。ねえ、あたし河西くんのこと、途中まで迎えに行くから。
お姉ちゃんはここで待ってて」

「えっ? 迎えに行くなら一緒に行くよ」

「ダメダメ。入口まで遠いし、いいからここで待ってて」


雪乃はパタパタと顔の前で手を左右に振った。


「何で? ひとりで行かせるの心配なんだけど」

「ヤダな。河西くんも心配症だけど、お姉ちゃんも心配性だな。
それくらい大丈夫だよ」

「だって――」

「いいから、絶対ここにいて?」


雪乃はそう言うと、来た道を駆けだした。


「ちょ、ちょっと待って! あっ!」


雪乃を追いかけようと足を踏み出したところで、身体に大きな衝撃を受けた。
横切ろうとした男性にぶつかって、あたしは弾き飛ばされたのだ。
それだけでなく、持っていたバッグを落とし、無残にも地面の上に中身がぶちまけられた。


「うわーっ、すみませんっ」


男性は慌ててあたしのバッグの中身を拾い始める。


「いえ、こっちこそ、すみませんっ」


あたしもすぐに屈んで自分のものを拾い集め、バッグに入れていく。


雪乃は――?


急いで南参道の方を向いたけれど、行き交う人々の中に雪乃の姿は見えなかった。


しょうがないな……。


あたしは仕方なく待つことを決めて、荷物を全て拾うと、通りの端に移動した。








――20分。
雪乃が行ってしまってからそのくらいの時間が経とうとしていた。

南参道の入り口までは10分くらいだから、もうそろそろ戻ってきてもおかしくないはず。

道の端にいたあたしは、すっぽり木々の影に包まれていたために、ただ立って待つには身体が冷えてしまった。
北風が時折吹きつけてきて、足元から芯まで熱を奪っていく。

腕を擦りながら、生い茂る葉の間から見える青空を見上げた。
薄く白い掠れた雲が風で流され、空の景色を変えていく。


あたしはひとり待ちながら、さっきの雪乃の言葉を思い返していた。

零に好きな人がいると聞いても諦めたくないと言った雪乃。

零が帰ってきて、話しをして――。

あたしは一体、どういうふうに応えたらいいのかな……。


目に映った雲のように、色んな想いが交錯し、流れていく。

答えはひとつなのに。

だけどそのひとつがなかなか見出せないでいる。


考えてもまとまらず、ただ想いを巡らせていると、あたしを呼ぶ声がどこからか聞こえた。


「花音さん!」


一瞬、空耳かとも思った。


だって、こんなところにいるはずがない。


だけど声が聞こえた方に顔を向けると、そこにはやっぱりそのひとがいた。

update : 2007.11.03(改2014.06.05)