47
家にいる毎日は、まるで変わり映えないように通り過ぎていき、今年最後の日を迎えていた。
ベランダに出ると、陽光の眩しさに目を眇めた。
ここのところ晴天が続き、今日も朝から冬らしい柔らかな水色の空が広がっている。
手すりに自分の布団を干すと、ちらりと隣の部屋の窓を見た。
――雪乃の部屋は、今日もカーテンが閉められたままだ。
雪乃が携帯電話を変えてから、また一時、無言電話が頻繁になった。
非通知電話も通じないと知った相手は、公衆電話でかけてきて。
それも受け付けない設定にすると、今度は携帯電話の番号を通知したままかけてきたのだ。
その番号を受け付けない設定にして、今ようやく無言電話は収まっているけれど……。
一日に何度も鳴る電話に、雪乃もさすがに気付いたようだった。
そのせいで、今まで以上に部屋から出てこなくなり、家族に対しての口数も少なくなった。
とりあえず無言電話が収まったことで、警察には届け出てはいない。
けれど父も母も、雪乃の態度に、相手が誰かを察しているのではないだろうか。
これ以上また先生の行動がエスカレートするなら、警察に届け出なくてはならないけれど、雪乃の気持ちを考えると、そんなことは出来る限りしたくなかった。
気分とは正反対の冬の陽だまりの心地良さに、干した布団の上に両手を付いて身体を預ける。
長い溜息を吐いてから、あたしは部屋へと戻った。
キッチンへ入ると、母は忙しそうに手を動かしていた。
茹でたさつま芋に、栗の甘露煮。
大きなボウルには水に浸かった昆布と干し椎茸。
ダイニングテーブルの上には、所狭しとお節料理の具材が並んでいる。
鍋の中からは、黒豆の煮える甘い匂いが漂っていた。
「手伝うよ」
「あら花音、ありがと。
じゃあ、そこの茹でたさつま芋の皮をむいて、潰して裏ごししてくれる?」
「了解。
栗きんとんって、美味しいけど作るの大変だよね」
「そうね。でもウチは娘がいるから、こうやって手伝って貰えるだけいいのかも」
ふふっと笑う母の横で手を洗うと、エプロンを着けた。
ほかほかのさつま芋の欠片を手にして、するっと皮をむき、傍らのボウルに入れていく。
「あたしもいい歳だし、こういうの色々覚えなきゃなぁ。
料理は普通にできると思うけど、さすがにおせち料理は作ったことないし」
「もう花音も24歳になったんだもんね。結婚も近いのかな、なんて森さんのときは思ってたけど……。
でもほら、今の彼は年下よね?」
「えっ……あ、うん」
「若そうだし、まだまだこれからだもんね。お母さんにとっては淋しくなくていいかも」
「そ、そうだね……」
微笑む母に、無理矢理笑顔を作って返す。
それ以上言葉が出てこなくて、黙ったまま皮むきを続けた。
今、雪乃との問題もあるけれど、零との年齢差――も、あたしには大きな問題だ。
あたしにとって、河西くんが気持ちに気付いてくれたことは、とても大きかった。
ずっと張っていた力がほんの少しだけ緩んだ気がして。
だってやっぱり零と雪乃の友達だし。
現状も、あたしの気持ちも、理解してくれているから。
それに河西くんの気持ちに気付いたことも、あたしにとってはとても大きなことだった。
今あんな状態の雪乃を心配して、無条件に助けてくれるし、そういうあたたかい気持ちって――誰かに大切に想われることって、雪乃にとっては救いになると思う。
それに、いつか雪乃と河西くんが上手くいってくれればいいな、なんて。
そう思うことはやっぱりズルイことなのかな……。
ボウルの中に、綺麗な黄金色が積み上がっていく。
皮むきが全て終わると、母が手を止めたままあたしを見ていることに気が付いた。
「どうかした?」
「うん、ちょっと……」
そう言って、ふうっと息を漏らすと、母はあたしの向かいの椅子に腰掛けた。
「ねえ花音、あの無言電話、どう思う?」
「えっ……」
「やっぱり、あのひとなのかしら……」
どきりとする。
やっぱり気付いてるんだ……。
「あのひとって?」
どうしようかと思案したのち、知らない振りをした。
母は眉根を寄せたまま、あたしをみつめる。
「坂井先生よ。だから雪乃の様子がおかしいんでしょ?
ねぇ、花音、あなた何か知らないの?」
本当は、きちんと両親には話して協力してもらったほうがいいのは判っている。
けれど今の雪乃の気持ちは、尊重してあげたい。
なにより、これ以上気持ちを閉ざすようなことはさせたくないし……。
もう少し様子を見て、本人と相談もして、それから両親に話そう。
「そうかもしれないって、あたしも思う。
でも、はっきりわからないし、今はまだ雪乃に言わない方がいいんじゃないかな」
「そうねぇ……」
母はテーブルに肘を乗せて心配そうに言ったあと、また小さな溜息を漏らした。
夕食だと呼びにいって、ようやく雪乃は家族の前に顔を出した。
蛍光灯の下で見る雪乃は血色も悪く、元々細い身体はさらに痩せたようだった。
我が家では大晦日の恒例として、紅白を見ながら蕎麦を食べる。
家族で夕食に蕎麦を食べたあとに、あたしも雪乃も毎年初詣やカウントダウンに出掛けるのだ。
だけど今年は、あたしも雪乃も出掛ける予定はなかった。
点けっぱなしのテレビにも殆ど目を向けず、食べやすい蕎麦でさえ、雪乃の口にはなかなか入っていかなかった。
「ご馳走さま」
「えっ、雪乃もう食べないの?」
「なんだ、まだ食欲出ないのか?」
箸を置いた雪乃に母と父が心配そうに声をかける。
けれど雪乃はすっと立ち上がって、自分の食器を片付け始めた。
「……うん、もうおなかいっぱいだから」
「ねえ、雪乃、なにかあったの?」
母も立ち上がって、雪乃の背中を追う。
雪乃は食器を手にしたまま振り向いて、困ったような笑顔を見せた。
「なにか、って?」
「だって、ずっと食欲ないし、部屋にこもってばかりだし……。
なにかあったのかなって、普通は思うでしょ?」
「別に……大したことじゃないよ。
今、友達とごちゃごちゃしてて。それでちょっと悩んでるっていうのは確かにあるけど、そんな凄いことじゃないし。女同士なんてそういうのよくあることでしょ」
雪乃の嘘に、小さく心臓が音を立てる。
母も父も、真意を推し量るように雪乃を見た。
昼間の母との会話を考えれば、両親は雪乃の言っていることを信じないかもしれない。
「友達と……?」
「そうだよ」
問い返す母に、雪乃はきっぱりと言い切った。
「友達とのことを親に言うほど、あたしも子供じゃないってば。心配しなくても、自分でどうにかするから。それが普通でしょ。別にいじめられてるとか、そういう深刻なことじゃないんだから」
「けど……」
「お母さん」
思わず、口を挟んだ。
どうにか誤魔化そうとする雪乃の姿にも、心配する両親の姿にも、胸が痛い。
「このくらいの年齢って、友達のこととか恋愛とか、悩むこといっぱいあるから。
どうしても助けて欲しいときは、雪乃だって言ってくるよ」
母を窘めながらも、こんなふうに誤魔化すことがいいのかどうかわからない。
先生のことも、本当に黙っていていいのかどうか――。
あたしの言葉に、母は渋々自分の席に戻った。
「そう……」
「ホントに平気だから」
雪乃はそう言うと、身体の向きを反転させ、流しへと食器を運んでいった。
その姿を、あたしは黙って見守った。
雪乃はそのまま足早にキッチンを出ていった。
あたしも何となく父と母と一緒にテレビを見ていることが出来なくて、食事が終わるとすぐに自室に戻った。
除夜の鐘が聞こえ始めたかと思っていたら、あっと言う間に新しい年を祝う船の汽笛が遠くで鳴った。
ベッドの上でファッション誌を捲っていると、携帯電話が部屋中に着信音を響かせた。
起き上って手に取ると、ディスプレイには『通知不可能』の文字が浮かんでいた。
誰?
まさか……先生?
雪乃や自宅の電話が繋がらないから、あたしの電話番号を調べたとか……?
そう考え出したら急に緊張して、心臓が騒がしく鳴り始めた。
出ない方がいいかもしれないという思いを持ちつつも、まさかという気持ちで、警戒しながら通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
探るような声色で電話に出る。
だけどその緊張を一気に解き放つ声が、次の瞬間あたしの耳に届いた。
「花音さん?」
あたしの名前を呼ぶ声――。
一瞬で誰だかわかるその声が、耳元からすうっと身体中に甘く響いた。
「零……?」
「あけましておめでとう!」
「ええっ!?
あっ、おめでとうっ」
「びっくりした?」
「び、びっくりしたよっ」
心臓はバクバクと暴れまわっている。
「いきなりこんなふうに海外から電話くれたら驚くよ!
ディスプレイに通知も出なかったから……!」
「ごめんごめん。あー、よかった、電話出てくれて。
こっちはまだ31日の真昼間なんだけどさ、そっちはちょうど新年迎えたでしょ?
この間も電話しても出なかったし、一言だけでもおめでとうって言いたかったんだ。花音さんに、まっ先に」
心臓のどきどきと一緒に、胸がきゅうっとした。
痛いくらいなのに、なんでこんなに心地良いんだろう。
「花音さん」
「うん?」
「声、聞きたかった」
「……うん」
「聞けてよかった」
あたしも。
そう言いたい。
だけど今は、それ以上が言えないよ。
そんな短い言葉さえ口にできなくて歯痒い。
それ以外になんて言えば自然なのかさえ、わからなくなっている。
締めつけられる胸の痛さに、力が抜けるようにその場に座り込んだ。
冷たいフローリングの感触がそこから伝わるのに、身体は熱いなにかに覆われているようだ。
「去年は……色々とお世話になりました」
結局、口から出たのはそんなものだった。
月並みかな?
でも。
本当に零に出逢って零がいてくれたから、こうやって今のあたしが在るんだ。
「こちらこそ。お世話になりました。
良い年になるといいね。オレにとっても、花音さんにとっても」
「そうだね」
「まあ、去年もオレにとっては特別に良い年だったけど」
「そうなの?」
「だって、花音さんと逢えたし」
またそんなふうに言う……。
どうやって答えていいのかわからないよ。
この込み上げてくる気持ちをどうしたらいいの?
きゅっと唇を噛み、携帯を強く握った。
それから、電話の向こうの、遠くにいる彼へと告げる。
「待ってるね」
「え?」
「帰ってくるの、待ってるね」
それは期待させてしまうような言葉だろうか?
零はほんの少し間をあけて、落ち着いた声で答える。
「……うん。
多分、8日に帰ることになると思う。冬休みの最終日」
「そっか」
「親と色々あって、まだハッキリはしてないんだけど。
つーか、今もゴタゴタしてて長電話は出来ないんだけど。ゴメン」
「ううん。ご両親とって……大丈夫なの?」
「花音さんの声聞いたら、ちょっと元気出た」
ははっと、零の笑う声があたしの耳を擽った。
零のいつもの笑顔が思い出されて、あたしも自然と頬が綻ぶ。
今、とても遠くにいるはずなのに、すぐ近くにいてくれるみたいで、心があたたかくなった。
「電話、ありがとう。嬉しかった」
「うん。
あー、ゴメン。ほんっとイイトコなのに、もう行かなきゃ。呼ばれてる」
電話の向こうで『零』と呼ぶ男の人の声が微かに聞こえた。
お父さんだろうか?
ゴタゴタしていると言ってたけど……。
以前、言葉を濁された家族の話。
零の家庭の深い事情は――まだ知らないままだ。
……知りたいと、思う。
零のことを、全て知りたい。
目を閉じて、そう願いながら、あたしは零に電話を終える言葉を告げる。
「ううん、いってらっしゃい。
向うで身体に気を付けてね」
「ありがと。じゃあまた」
ぷつりと、そこで切れる電話。
だけど、電話が切れても耳の奥に零の声が残っている。
今、大変な状況の中でも、電話をくれるなんて。
不安に思っていた気持ちが、すうっと流れ落ちていく気がする。
胸の内側から湧く甘い痛みに、あたしは携帯を握りしめて冷たい床にごろんと寝ころんだ。