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確かに、今日帰ってくる予定とは言ってたけど……。
でも急に前触れもなく、こんなふうに目の前に現れるなんて。
「帰ってきてたの……?」
驚いて見上げるあたしに、零はふっと柔らかく微笑んだ。
久し振りに目に映る笑顔に、甘くどこかあたたかい感情が込み上げてくる。
「ん。こっちに着いたばっかりなんだ。バタバタしてたから、あとでゆっくり連絡入れようと思ってたんだけど。
それに帰ってきたら、なんでかコイツ、家の前にいるし」
零は顎で河西くんを指し、眉をひそめて見せた。
河西くんも負けずに顔を顰めて返す。
「だってお前、昼過ぎには帰ってくるって言ってたろ? 話あったし」
「話? 話なんかしてねーじゃん。
つーか、オレ、マジで帰ってきたばっかなんだけど?」
「何だよ。オレのおかげでこーやって花音さんに会えたんだろ。感謝しろっつーの」
茶化すように言った河西くんの言葉に、一瞬ドキッとする。
「ウルセーよ」
「あっれ? 零、顔赤くね?」
「赤くねーっつの」
ふたりが傍で言い合うのを聞いていると、あたしのほうが顔が赤くなってくる。
そっか。
河西くんは零の気持ち知ってるから、雪乃がいないときなら隠さなくてもいいんだ。
……って、雪乃は?
「ねぇ、雪乃は?」
迎えに行ったはずなのに一緒にいないなんて。
一緒にいることが当然だと思っていたあたしは、河西くんにそう尋ねた。
「え、雪乃? なんだよ、トイレかなんか行ってるんじゃねーの?」
きょとんとした顔で、河西くんが答える。
今度はあたしがきょとんとする。
「トイレ? 行ってるの?」
「え……違うんすか?」
「ちょっと待って……ふたりとも、雪乃に会ったんじゃないの?」
「会ってないっすよ。電話で大鳥居のところにいるって言ってたから、そこで待ってろよって言って……」
「え? 雪乃、河西くんを迎えに行くって入り口に向かったんだけど……。
待ち合わせしたんじゃなかったの?」
「迎えに……? いや、待ってろって言って、待ち合わせしてないから……」
それ以上の言葉を詰め、互いに顔を見合った。
――まさか、先生が……?
嫌な予感が過ぎり、さあっと血の気が引いていく。
零と河西くんもあたしと同じことを考えたのか、顔つきが一気に険しくなった。
「そんな……来る途中も会わなかったの?」
「ああ、会ってない」
零が答え、河西くんの方を見た。
雪乃が戻って行ったこの南参道は、原宿駅まで出るにはまっすぐ進めばいいだけ。
迷うなんてあるはずがない。
「何だよ、アイツ、いついなくなったんだよ!?」
河西くんは血相を変えてあたしの腕を掴んだ。
ぐっと力の入った手から、彼の心配の深さが滲み出る。
「河西くんとの電話切ってすぐだよ……どうしよう」
「人が多いから、すれ違ったのに気付かなかったのかもしれないけど……。
でも、会えなかったなら電話があってもおかしくないな……」
「電話! 取りあえず雪乃に電話だ!」
零の言葉に被せるようにして、河西くんが緊迫した声で言った。
「う、うん」
すぐにバッグの中に手を入れて携帯を探る。なのにこういうときに限って、なかなか見つからない。
この間あんなことがあったばっかりなのに。
無言電話だってきてたのに。
何であたしはこんなに不用心なのよ!
不安はますます募っていき、携帯が見つかって操作するけれど、手つきが覚束ない。
どうにかアドレスから雪乃の電話番号を出して、通話ボタンを押す。
耳元で呼び出し音が響き出したけれど、回数だけが増えていく。
お願いだから出て!
なかなか電話に出ないもどかしさに、祈りを乞うよう携帯を握りしめ、瞼をぎゅっと瞑る。
コール音が増えるたびに、不安も増していく。
先生と一緒なんじゃないか――。
その考えが、どんどん大きくなってくる。
長いコール音。
留守番電話にさえ切り替わらず、電子音は繰り返された。
「どうしよう……出ない……」
耳から離した携帯からもコール音は鳴り止まない。
その冷たい機械音が、雪乃になにかあったと告げているようにも思えてくる。
どうしよう、と再度呟いた瞬間、河西くんは南参道に向かって走り出した。
「河西!」
零が大声で呼び止めたけれど、河西くんは振り返らずまっすぐに走り、すぐに人波に消えてしまう。
「アイツ……」
「零……、雪乃に先生から何度も電話があって……それ以外にも家にも無言電話があったの。
だから……もしかしたら、先生とまた何かあったのかもしれない……」
あたしの言葉を聞いて、零は驚いた表情を見せたあと、苦しそうにぎゅっと一度目を閉じた。
そして目を開くと、あたしを見る。
「とにかく探しに行こう、花音さん」
「う、うん……!」
答えると同時に手をぐっと掴まれて、あたしたちは南参道へと走り出した。
「まさか……こっちには行ってないよな……?」
南参道の途中から伸びる御苑への道。
あたしたちはそこで一度足を止めた。
「ここって参拝料かかるよね? だから道を間違えて入るってことはないよね……」
あたしは上がった息を少し整えながら答えた。
冷たい冬の空気が、上下した肺に刺さる。
明治神宮内にある代々木御苑は、江戸初期以来、加藤家、井伊家の下屋敷の庭園だった。
明治時代に宮内省所管となった、海外にも有名な美しい庭園だ。
「だけどさ、横道に入れるのって、ここか、入口近くの西参道に向かう外回りの道だけじゃん?
入口に近いならオレたちと会っててもおかしくなくねぇ?」
そう言われると、そうかもしれない。
南参道から分かれる道は、御苑への入り口のこの場所と、南参道の入口に近い場所にある御苑の外側を回る西参道へと続く道しかない。
だけどもし、御苑の中に入っているのだとしたら、それはやっぱり雪乃に何かあったということを示しているのだ。
御苑の中は、複雑に道が絡み合っている。
中に入ってしまったらそれこそ見つけにくい。
「どうしよう……中にいるのかな……先生が雪乃を連れ去ってて……。
もし雪乃に何かあったら……あたしが一人で行かせたから……」
不安が大きくなる。
考えれば考えるほど、途轍もないものに飲み込まれてしまうように。
どうしようもなく底から湧く不安に苦しくなったとき、ぎゅうっと、掌が握られた。
見上げていた顔が、あたしと同じ目線になる。
「見つかるよ」
そう力強い瞳で、目の前の零が言った。
握られた手からも、あたしを安心させるような優しさが伝わってくる。
少しだけ、力が抜ける。
零がそう言うと、本当にそんな気がしてくれる。
「自分のせいにするなよ。
中に入ってみよう。河西はまっすぐ行ったと思うし。
別の道を探した方が効率がいい」
「……うん」
御苑の中は広葉樹が広がり、どこか森の中にいるかと錯覚させられるような景観だった。
人口で作られたとは思い難いほどの緑が鬱蒼と生い茂り清閑さを保っていて、その重厚な雰囲気と空気が、更に不安を煽りつける。
「雪乃ーっ」
周辺を見回しながら、声を絞り出して叫ぶ。
通りすがる人は、度々何ごとかと舐め回すようにあたしたちを見ていくけれど、今は気にもならない。
雪乃の名を呼び続けながら先へと急ぐと、大きな池が見えてきた。
濁って底の見えない色が、深間に入り込んで出られないような錯覚を感じさせ、身震いがしてあたしは足を止めた。
「どこにいるんだよ……っ」
苛立ちをぶつけるように零が吐き捨てた。
ざあっと、梢を揺さぶる風が吹き抜け、その声を攫っていく。
「雪乃……」
あたしも思わず名前を漏らした――そのときだった。
微かに、雪乃の声が聞こえた気がした。
「雪乃……?」
顔を上げ、周辺を見回しながら耳を澄ます。
けれど、葉擦れの音が辺りの音を消し去ってしまう。
「花音さん?」
「今、雪乃の声が聞こえた気がして――」
気のせいかもしれないとも思ったけれど、少しの可能性も見逃したくなくて、あたしは大きな声を上げた。
「雪乃っ!」
心からの叫びに応えるかのように、雪乃の声が聞こえた。
――お姉ちゃん、と。
「雪乃の声だ……!」
零に頷き返してから、ふたりで必死になって辺りに目を凝らす。
「いた……!」
「えっ……!?」
零の指差した池の向うを見ると、雪乃と先生の姿があった。
遠目から見ても、先生が雪乃を背後から抱きしめているのがわかった。
「雪乃!」
零と同時に声を上げ、雪乃の元へと走りだした。
先生は逃げる気はないようで、あたしたちが向かってもそこから動かなかった。
雪乃に逃れられないよう羽交い絞めにしているわけではなく、傍から見ればカップルに見えるであろうように、雪乃の腰に手を回して前で手を組み、肩に顔を寄せていた。
「坂井先生、なんで……」
雪乃と先生の元に辿り着くと、上がる息のまま先生を見て問う。
三年前のあのときよりも、先生は不健康そうな肌の色で痩せているというよりはやつれていた。
整えられていない黒髪に、不精ひげ。清白だった昔のイメージとは掛け離れ、奇態な強い眼光を持っていて、薄気味悪さを感じた。
「なんでって……雪乃に会いに来たんだよ」
「オイ、雪乃から手ぇ放せよ」
零が前に出て、強い口調で言った。
けれど全く聞く耳を持たずに、先生はにやりと笑った。
「放さないよ。せっかく会えたのに」
「何でお前が雪乃といるんだよ?」
「電話にも出てくれないからさ、家から後をつけてきたんだ」
先生はそう言うとまた口の端を歪めながら笑った。
「家からつけてきた……?」
ゾッと、背中に冷たいものが走る。
そんなことにも気付かないで雪乃をひとりにさせたなんて。
雪乃がひとりになるのを狙ってたんだ。
「先生……もうやめて……」
雪乃は苦しそうに小声を零す。
けれど先生は、ふっと笑んで雪乃の髪にキスをする。
「……っ! なにやってんだよ!
とにかく雪乃を放せ!」
零が苛立ったように更に大きな声で言い放つと、先生はくすくすと肩を揺らした。
「あのな、雪乃は自分でついてきたんだよ」
「違っ……痛っ!」
雪乃が反論したところで、先生は雪乃の腕を後ろ手にねじり上げた。
雪乃の顔が苦痛に歪んで、その瞬間、あたしのすぐ前にあった背中が消えた。
そう思ったときには、零は先生の胸ぐらを掴んでいた。
「零!」
「てめぇ、ふざけんな。放せ」
低い声に、一瞬先生は怯んだ顔をして、雪乃の腕を解放した。
雪乃がその勢いでよろめき、あたしは駆け寄って雪乃を抱き寄せた。
腕の中の雪乃の身体は震え、恐怖にバクバクと脈打っているのが伝わってくる。
雪乃が自由になったのに、零は先生の胸ぐらを掴んだまま放さず、ぐっと捻じり上げた。
「雪乃にもう近付くんじゃねーよ!」
零のその言葉と同時に、ざあっと砂利が擦れる音が立ち、先生はそこに倒れ込んだ。
何事かと、池の近くにいる参拝客の注目を一斉に浴びる。
「零、 止めて……平気だから……」
あたしの手を解き、雪乃が力無い声で言った。
そして倒れ込んだままの先生の前に、踏み締めた砂利の音を響かせ、ゆっくりと歩み寄った。
「雪乃?」
雪乃のその姿に、心臓が不穏に鳴る。
雪乃は先生をまっすぐに見据え――あたしと零は、ただその様を見ていた。
「先生、もうこんなこと止めて。
あたし、先生にはもう恋愛感情ないの。もう、会えないの」
雪乃が上から視線を落とし、ハッキリと言った。
先生は一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに不気味に高い笑い声を上げた。
「はっ……ははっ、なに言ってるんだ。そんなの信じられない。
大体、その男は何だよ? お前はそんな女か?」
「あのなぁ、お前……」
零が呆れた声を出すと、雪乃は困ったような顔で首を振った。
そしてすぐに先生をみつめ直し、そうだよと言った。
「あたしの彼氏だから。
だからもう、先生とは会えないの」
雪乃の声が響く。
悲しさを帯びた大きな瞳は零へと移り――あたしの目の前で雪乃の右手が大きな掌を取った。
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