46
部屋に戻ったあたしは、デスクの上に今日買った雑誌と画材を広げた。
面接日まで、余裕があると言える日数は残されていない。
絵を描くのは元々好きだし、どちらかといえば得意な方だ。
けれど、もう随分描いていないし、ましてやデザイン画なんて描いたことなんてない。
とにかくたくさん描いて、絵の感覚を掴むことから始めないとならない。
真っ白なケント紙を目の前にすると、湧いてくる意欲とは別に、心許なさもあった。
今のあたしにはもう何もなくなって、本当にデザイナーとしてやっていけるのか……。
さくらの会社だけでなく、他の会社に入社できるかさえもわからないのだ。
ただもう、あたしは何もない道を選んでしまった。
ここから先は、自分の力で切り開いて行くしかない。
紙の白さはあたしの未来と一緒だ。
どんな未来の色にも染められて描くことができる。
――あたし次第なのだ。
その白さを覗うかのように紙をじっと見つめていると、ふと視界の端の赤とピンクに気が付いた。
――零から貰ったジュエリーケース。
思わず手を伸ばし、蓋を開くと、軽やかなカノンの曲が流れ始めた。
ケースの奥に眠るように置かれた透明のガラス細工――元気が出るお守りを、あたしはそっと取り出した。
そして掌に載せ、ぎゅっと握りしめる。
――うん。
頑張るよ。
頑張れるよ、あたし。
ふと目を転じた窓の外には、昨日零と一緒にいたときと変わらない形の月が、繊細な光を輝かせていた。
眩しさを感じて、重い瞼を押し上げた。
デザイン画を描いているうちに、いつの間にか寝ていたらしい。
ブラインドの隙間から細く洩れた陽光が部屋を薄明るくしていて、もう太陽が高く上がっていることを教えていた。
ふーっと息を吐き出しながら伸びをする。
起き上がってブラインドの紐を引くと、まばゆい明るさが一気に部屋中に広がった。
机の上には、水彩絵の具で薄く色付けされたデザイン画が三枚。
時間も忘れて描いた産物を、あたしは順に手に取って眺める。
夏に相応しいように、どれも透き通るような涼やかさを出した。
メレダイヤをオープンハートにあしらった中に、大粒のハート型アクアマリンをメインに合わせたネックレス。
雫に模った銀色の柔らかいラインから、ダイヤモンドの光が三つ零れるようなペンダントトップ。
ピンクトルマリンの花に、小さな蝶が羽を休ませるゴールドのリング。
初めて描いてみて……出来がいいのか悪いのかもわからない。
けど……楽しかった。
出来上がったそのデザイン画を見ると、達成感のような充実した感覚があった。
「……もっと速く、たくさん描けるようにならないとね」
頭の中には、幾つものイメージが湧いてくる。
想像する輝く世界を形にしたくて、心が躍った。
「……って、もうこんな時間だったんだ!」
随分寝ていたのか、時計を見ればもう10時を過ぎていた。
あたしは慌ててクローゼットから着替えの服を取り出し、洗面所へと向かった。
シャワーを浴びてすっきりすると、今度はお昼と兼用の朝ご飯を食べにキッチンへ行く。
簡単に済ませようと、ベーコンエッグとトーストにコーヒーを用意していると、きちんと化粧をした母が入ってきた。
「あれ? どこか出かけるの?」
「うん、年末だからね、買い物たくさんあって」
「お父さんと?」
「お父さんは用事があって、とっくにいないわよ」
「そっか。あたしもあとで雪乃と出かけてくる」
そう言うと、母は少し驚いたような顔をする。
「雪乃、今日も調子悪そうだったけど……大丈夫なの?」
「え……あ、うん。雪乃があたしに付き合ってって言ってきたから、大丈夫じゃないかな」
あたしは顔色を変えずに答える。
両親に心配をかけなたくないと言っていた雪乃。
些細なことかもしれないけれど、少しでもフォローをしておかないと……。
「まぁ、花音が一緒だったら、何かあっても安心だしね」
「……うん。
あ、そうそう、非通知の電話が鳴らないように、昨日のうちに設定しておいたよ」
ふと思い出して母に告げたときだった――。
リビングで、電話の音が高らかに鳴りだした。
途端に空気が張り詰め、母と顔を見合わせる。
「……やだ、また電話……」
眉を寄せ、怯えたように口許に手を当てて母が呟く。
無言電話は、家にいる母が殆ど取っているのだ。過敏になってしまうのは無理もない。
あたしは母を安心させるように、微かに口許を和らげる。
「きちんと設定したから、無言電話じゃないと思うよ」
「たしかに、今日はかかってきてないけど……」
「でしょ?
あたしが出てくるから、お母さんは心配しないで出かけてきていいよ」
母にそう言うと、あたしはキッチンを出てリビングへと赴く。
本心は電話に出る恐怖があり、心臓がばくばくとしていた。
もし、先生だったとしたら、何と一声を発していいのかもわからない。
それでも、毅然とした態度を取らなければ。
喧しく音を出す電話の前で、気持ちを落ち着けるように一度深呼吸をして受話器を上げた。
「……はい」
苗字を名乗らず、電話を受ける。
緊張で、声が震えそうだ。
「長瀬さんのお宅ですか?」
聞こえてきたのは、ぶっきらぼうな若い男の子の声で、先生ではないことは明らかだった。
一気に緊張が解けて息を漏らしたくなったけれど、それを我慢しながら答えた。
「……はい、そうです」
「おねーさん?」
「……は?」
次に問いに、あたしは驚いて変な声を上げてしまった。
「あー、すんません。雪乃のおねーさんですよね?」
「そ、そうですけど……」
だ、誰……!?
警戒するも、受話器の向こうの男性は、まったく気にしてない様子で名乗った。
「河西です」
「あっ……河西くん!」
「雪乃、どーっすか?
何度か電話したんすけど、繋がらなくて……」
そうだ。昨日から電源を切ってるから――。
これ以上の電話の内容を母に聞かれるとまずいと思い、あたしは河西くんに言って一度保留にしてもらった。
河西くんと零には、今の雪乃の現状を隠さず、本当のことを話しておいたほうがいいだろう。
キッチンで落ち着かなくしている母に、友達からだったから大丈夫だと告げると、ようやく安心した母は「行ってくる」と安堵して出かけていった。
玄関に向かう母を確認してから、あたしは再度受話器を取る。
「河西くんごめんね、待たせて」
「いいえ。
……で、もしかして、何かあったんですか?」
「うん、それが……元彼から雪乃の携帯に何度も着信があって、それで電源を切ってたの」
「えっ!?」
河西くんは驚きの声を上げた次に、怒りを滲ませ低く呟いた。
「マジで……。いや、ありえないことじゃないけど……」
「……それで、雪乃も電話番号を変える気になって、あとで一緒に新しい携帯を買いに行くことになってるの」
「それ、オレも行きます」
すぐきっぱり提案されて、こちらの方が戸惑った。
「……え?」
「昨日あんなことがあったのに、女ふたりだけで出かけるなんて心配だし」
確かに、男性の河西くんがいてくれれば、そのほうが安心だけど。
「いいの?」
「もちろん。つーか、そうさせて欲しい。
出かけて、もしアイツと会って、雪乃に何かあったら……」
尻つぼみになっていく低い声に、河西くんの雪乃への気持ちが窺えた。
もしかして河西くんは、雪乃のことを……。
クリスマスの日のこと。
一昨日もすぐに迎えに行ってくれて。
それに、零とあたしに怒ったときの表情も思い出す。
だからきっと――。
河西くんは、雪乃のことをとても大事に思ってくれている。
それは、あたしでもひしひしと感じる。
あたしは受話器を握り、今見えない相手なのに頭を下げた。
「……じゃあ、お願いします」
「はい」
しっかりとした返事に、あたしは微かに頬が緩んだ。
「じゃあ、昼過ぎにでも……」
「テキトーな時間に伺います」
「よろしくね。
あっ、雪乃に電話変わ――」
言いかけたとき、「おねーさん」と、途中で言葉を切られた。
「その前に、おねーさんと約束したいことが」
「え……?」
訊き返すより先に、河西くんが訊いてきた。
「雪乃、今部屋にいるんっすか?」
「……そうだけど」
「オレ、おねーさんと話がしたいんですケド」
「え……あたしと?」
「電話じゃなくて、あとで直接」
河西くんの声色に、あまりいい話ではない予感がして、ごくりと固唾を飲んだ。
「……それは構わないけど」
「えーと、じゃあ、13時に雪乃に気付かれないように、家を出てくれますか?」
「家を?」
「そっち行くんで、家の前で落ち合いませんか」
雪乃には聞かせたくない話と同時に、知られたくもない話だということもわかった。
あたしは了承したのち、雪乃を呼んで河西くんとの電話を交代した。
「ちょっとコンビニ行ってくるね」
洗面所で出かける支度をしている雪乃に、あたしは声をかけた。
雪乃は髪をブラシで梳きながら振り向いた。
「あ、うん。
なんかごめんね、お姉ちゃん。携帯買うの付き合ってって言ったのあたしなのに」
「ううん、河西くんが一緒に行ってくれる方が、やっぱり男の子だから安心だし。
あ、じゃあちょっと行ってくる。すぐ帰ってくるから」
あたしは洗面所を出て玄関に向かう。
河西くんの電話を雪乃に変わったあと、ふたりで携帯を買いに行くことになったらしい。
あたしがいなくても、河西くんが付いていてくれるなら大丈夫だろう。
それにしても、あれだけ男のひとが苦手だった雪乃が、男の子とふたりきりで出かけるなんて。
よっぽど河西くんのことを信頼しているんだな……。
考えながら玄関を出て、門を開けると向う側から歩いてくる河西くんの姿を見つけた。
こちらに気が付き軽い会釈をしてくる彼へと、あたしは笑顔を作って駆け寄る。
けれど彼の方は、表情を緩める欠片もなかった。
「どーも……。すみません、わざわざ」
固く鋭い瞳であたしを見る河西くんに緊張する。
「あ……ううん、雪乃のことでありがとう。
わざわざ迎えにまで来てもらっちゃって、こちらのがすみません」
答えながら、なんとなく、彼の話というのが想像できた。
「いや、全然。当然のことっすから」
「……いえ、本当に助かるよ。
雪乃は河西くんのこと、すごく信頼してるみたいだから」
「……ならいいんですけど」
「ほんとに。あの子がこんなふうに男の子と仲良くなるなんて、あたしにとっては結構信じられないくらいのことで。
だから、河西くんにも零くんにも、すごく感謝してるの」
「そーっすか」
「今日も携帯買いに行くの、ふたりで行くって聞いたけど。それもありがとうね。河西くんが一緒なら、安心だよ」
笑顔で言葉を繋いでいく。
本当にそう思っているし、お礼を言うのは当然のことなのに、つらつらと口から衝いて出るのは、どこか『話』を怖がっているせいかもしれない。
それがわかっているからなのか、河西くんの表情は変わらず厳しいままだ。
「……いーえ、そんなの、ほんと全然」
河西くんは、ちらっと私の方を見る。
それから両手をポケットに入れて、浅く息を吐いた。
「近くに公園ありますよね?
話、そっちに向かいながら、歩きながらでもいーっすか?」
真剣な瞳にドキッとする。
「……う、うん」
答えると、河西くんは小さく頷き、歩き出す。
あたしもそれを追うようにして歩き始めた。
よく晴れて陽射しがあるのに寒い。
ひとの少ない住宅街の道に、靴音が妙に響いている気がした。
お互いに黙ったまま足だけ動かし、曲がり角を曲がったところで、河西くんが口を開いた。
「零から話は聞きました」
「えっ……」
「アイツ、花音さんが好きだって、そう言ってた」
「……」
話の内容の予測はついていた。こういう話だって。
なのに、いきなり切り出されてどう返答していいのかわからなくて、あたしは口を噤んで俯いた。
傍から小さく息を零す音が聞こえた。
「アイツは――今までちゃんとした恋愛ができなかったヤツなんですよ」
河西くんの言葉に思い出す。
つばきもそう言っていたことを。
「だから、好きなひとができたんだったら、それは友達として嬉しいっつーか。応援してやりてぇ。
でも、雪乃が零のこと好きだから。スゲー好きなの知ってるから。
それ、おねーさんも知ってるんでしょ?」
隣を歩く河西くんが、あたしへと顔を向け問う。
あたしは拳を握りしめると、顔を上げて頷いた。
「……うん」
「雪乃は零に好きな人がいるっつーのは知ってるみたいだけど、それがおねーさんだって知らないし。
あんなことがあったばっかで、それを知ったらどれだけショックか」
「わかってる」
「単刀直入に言うけど、おねーさんも零のことが好きなんでしょ?」
「え……」
質問に、心臓が波打つ。
はっきりと言っていいものなのか、迷う。
覗うように見る河西くんの顔は、もうわかっていると言っていて、あたしは観念した。
「……うん」
やっぱりねと言うように、河西くんは瞳を細めた。
「この間のふたりの雰囲気、普通じゃなかった。
すげー、切ない顔してたよ。
だからオレ、あのときふたりが付き合ってるのかと思ったんだ」
「……」
「雪乃も零も、おねーさんの気持ちに気付いてないけど」
「……」
「……だから、勝手だって承知で言わせてもらう」
河西くんの足が止まった。
あたしも足を止めると、まっすぐすぎるくらいの瞳に捉えられる。
「今は待ってください」
はっきりとした言葉に、ぎゅっと唇を結ぶ。
これも、最初から予想していた通りだ。
「うん、わかってる。言わないよ」
河西くんに、あたしもはっきりと告げた。
今はこの気持ちをしまっておく。
雪乃にも零にも本当のことを言えないままなのは嫌だけど、言ってしまったら余計に傷付けてしまうから。
「大丈夫、心配しないで」
そう、笑って言った。
だけど次の瞬間、河西くんの言葉に、あたしは堪えきれなくなった。
「我慢させてゴメン」
低く辛そうな声に、塞き止めていた壁が決壊して、内側から溢れる何かに涙が押し上げられた。
我慢させてゴメンなんて、そんなふうに言われたら……。
これは我慢なんかじゃないと、おそらく自分では思ってたから。
だけど頭で思ってることと感情は、まったく別物。
河西くんの言う通り、本当は我慢なんだよね……。
だってあたしは零のことが好きで、一緒にいたいと思うから。
雪乃のことは大切。
だけど、それでもこの気持ちが溢れてきてしまう。
指で涙を拭ってから、俯いていた顔を上げ、もう一度河西くんを見た。
「河西くんも……雪乃のこと、好きなんだね」
河西くんは、一瞬瞳を見開く。
そして、険しい表情を消して、おどけたように肩を竦めた。
「オレの場合は、おねーさんと違って片思いだけどね。
どっちも辛いっすね。
だけど、みんな幸せになって欲しいとは思ってるんですよ。
オレは自分の気持ちが報われなくても、雪乃には笑ってて欲しいと思う」
そう言った河西くんは、少しだけ眉を顰めて笑った。
あたしは微笑み返すことは出来なかったけれど、頷いた。
「……そうだね」
「あの……」
「あ、うん?」
「……すいません。オレ、ハンカチとか持ってなくて……」
すまなさそうに、河西くんは視線を下に落とした。
自分が泣かせてしまったかのようにバツが悪そうな河西くんの様子に、あたしの緊張も少し緩んだ。
「あ……ごめんね、大丈夫だから。
ほんと、ごめんね、こんな道端で泣くなんて……」
「いや……オレのほうが……」
「ハンカチも持ってるから……」
あたしはバッグを開いて、ハンカチを取り出した。
そのとき、薄暗いバッグの中でチカチカとした小さな光に気が付いた。
そういえば、携帯……昨日から入れっぱなしだった。
涙をハンカチで拭いてから、携帯を取り出した。
「あ、ちょっとごめんね……電話かメールがあったみたいで」
河西くんに断りを入れ、携帯を開く。
メールを開けた途端目に飛び込んだ文字に、どきりと心臓が跳ねた。
――零。
『電話したけど出なかったよ。残念。
声聞きたかったな。
今から行ってくる。
帰るの待ってて。
Rei』
胸がきゅうっと締め付けられる。
昨日、出発前に電話くれたの?
帰るの待ってて、なんて――。
嬉しい気持ちと辛い気持ちがせめぎ合う。
今、河西くんの前でも約束したばかりなのに。
あたしはそっと携帯を閉じて、想いを封じ込めるように握り締めた。