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二日酔いだと言っていたのに、奈緒子はわざわざ夕方に、家まで私の荷物を届けてくれた。

そのままブライダルの本を買いに行くと言った奈緒子と、ジュエリーデザインの参考になる本や雑誌を買いたかったあたしは、一緒に新宿まで足を延ばした。

奈緒子は小さなダイヤモンドを細い指の上でキラキラと光らせながら、棚に並ぶブライダルの本を手にする。
そのダイヤモンドに負けないくらい眩しい笑顔で。

そんな奈緒子が羨ましくもあるけれど、それよりもホッとさせられた。

奈緒子の婚約の話を聞いたときは、正直羨ましさと自分に対しての惨めな気持ちが大きかったけど……。
今はこうして相談してもらえることが嬉しいと感じる。

分厚いページの中に、たくさんの幸せを詰め込んだブライダル誌。
二人で覗き込みながら、胸がときめいた。

優美で清廉な白いウエディングドレス。
それに合わせたティアラやチョーカー、ネックレスにリング。

一番幸せな瞬間に着ける選ばれたドレスにアクセサリーは、やっぱり女の子にとって憧れで。
もちろん、デザインの勉強にもなるけれど、単純にその華やかな夢の世界に魅了されてしまう。


その後には、あたしのデザイン画を描くのに必要な画材を買いに、大手の文具店へと移動した。

久し振りに見る専門的な画材は、高校で選択していた美術の授業以来。
水彩絵の具やクレパスが、綺麗なグラデーションになって並べられているのを目にすると、気持ちが高鳴った。
よく似た隣の色だって、比べてみると全然違う。色の個性があるのだ。

宝石だって、そう。
似ていても、同じ種類でも、石ひとつひとつが異なる。
形も色も輝き方も。
どれをとっても同じものなんて無い。

そんなたったひとつの自分らしさを作り上げたい。

――あたしの新たな夢。





「何よ、アンタ達って上手くいってたんじゃなかったの?」


奈緒子は食後のコーヒーを飲みかけて手を止めると、目をまん丸くさせて信じられないといった表情をする。
カップに口づけることなく、そのままソーサーの上に戻した。

週末の夕食時のレストランは混雑していて、奈緒子の大きい声でも目立たないほど賑やかだった。


「色々あって……」


あたしは奈緒子の様子を覗うように少し上目遣いで言う。
昨日協力してもらったことに、申し訳なさも込み上げた。


「信じらんない。さっき、零くんと会えたか訊いたら、うんって言ってたのに!」

「だ、だから……ちゃんと会えたには会えたから……」

「いやいや、会ったらなら、必然的に上手くいったのかと思うでしょ!」

「別に、上手くいってないとかじゃなくて……色々あって、付き合うまでいってないだけだよ」

「似たようなものだし……」


はあ、と、奈緒子は呆れたように溜息を吐いて頭を垂らす。
そうかと思うと、またすぐに私の顔を直視する。


「色々ってなに?」

「え……」

「それって雪乃ちゃんのことで、なんでしょ?」

「……」

「やっぱそうなのか……」


答えずにいたけれど、奈緒子はしっかり肯定と取っていた。
テーブルの上で両手を組んで、真剣な眼差しをあたしに向けてくる。


「花音は零くんが好きなんだよね?」

「……うん」

「その気持ちに変わりはないよね?」

「ないよ」


あたしはまっすぐ奈緒子の目を見て答えた。
だって、それはあたしの中でもう、揺るぎない。


「それならいいんだけど」


奈緒子は私を見ながら小さく頷いて。
表情を変えずに訊いてきた。


「じゃあ、森さんのことは?」

「……え、啓人?」

「もう、ちゃんと吹っ切れてるよね?
花音のこと、裏切ったんだし」

「う、ん……」


答えながら、胸がずきりと痛んだ。

もちろん、啓人に対しての恋愛感情はもうない。
それでも、結婚まで考えた好きなひとで――本当は、啓人があたしを裏切ったわけじゃない。
彼の本心を知らずに、すぐに別のひとを好きになったあたしの方が、よっぽど裏切り行為に思える。

奈緒子は詳しい事情も知らないし、そんな風に言うことはわかるけど……。


「ちゃんと、吹っ切れてるよ」


あたしは内側を見せないように、普通の顔をして奈緒子に言った。


「うん。だから言うけど」

「何?」

「昨日さ、花音が帰ってから、ある噂話で盛り上がっちゃって」

「……噂?」

「まぁ、噂よ、噂。ホントかどうかも分かんないんだけどね」


奈緒子はそう言って苦笑いする。
それからコーヒーを持ち上げて、ひとくち口に含んでから続けた。


「この間、花音が専務に呼び出されたでしょ?
あの日、森さんと藤下優香が揉めたって噂」

「え?」

「婚約解消だ――とか、森さんが辞表出した――とか。
何かそんな噂があるって、中村くんたちがね、騒いでて」


心臓が、厭な音を立てた。
ざわざわと、胸も騒めく。


あのあとってこと?
嘘でしょ――?


「噂って……何でそんな噂が立ってるの?」

「うん、なんでもさ、あの日専務室で、専務と藤下優香と森さんで言い争ってるのを誰かが聞いたって」

「誰かが聞いた……?」

「どうも、そのときの声が大きかったらしくて。上役の部屋が並ぶ階なんて、誰が行くんだろって感じだけどさー。まぁ、行けば確かに人がいなくて静かだから、漏れた声も聞こえるのかもね。
それに、あの日以来、藤下優香ってずっと会社に来てないでしょ? それが原因だって言われてる」


奈緒子は本当にただの噂話のようにそう言った。
でもあたしは、それをするりと聞き流して笑うことなんで出来なかった。


婚約解消ってどういうこと?

それは――あたしのことが原因なの?

あのとき、泣いていた彼女。
あたしの存在があるだけで、疑心暗鬼になっていた――。

それに、啓人が辞表を出すなんて……最終的に、会社と彼女を選んだのは啓人だし、それが本当なら、お母さんはどうなるの?

あのあとのことなんて――そんなことがあったなんて、考えてもみなかった……。


「やだ、花音。そんな顔しないでよ」


強張っているあたしの顔を見て、奈緒子は少し慌てたように言う。


「花音が今更気にすることじゃないでしょ?
それに、あのふたりが上手くなんていくはずないよ。元々、森さんの恋愛感情があの子にあったわけじゃないんだから」

「……」


返答できずにいると、奈緒子は短く息を吐く。


「ざまみろ、って思えないところが花音か……。
言っとくけど、ホントかどうかわからない噂だからね」

「う、ん……」


でも、噂が本当なら?
あたしはどうしたらいいの?

どうしたら、なんて……おこがましい。
どうにもすることなんて、あたしに出来やしない。
何も出来ないだけでなく、二人のことに口出しなんてしたら駄目だ。

啓人……何で?

あたしと別れたのも、彼女と婚約したのも、ほんの数週間前のこと。
そんなに簡単に覆せるような判断じゃなかったことだって、あたしじゃなくてもわかる。

わかんないよ。
どうしてよ。
あのあと、何があったの?
本当に噂だけなの?

真実は……?


喉の奥はカラカラになって、舌が口の中に貼り付くくらい息苦しい。
あたしはひとくちも口にしていなかったコーヒーを、ようやく喉に流し込んだ。

だけど少し冷めたコーヒーは、苦い味が広がるのを感じさせるだけだった。







「ただいま」


キッチンに入ると、レンジ前に立っていた母は、お帰りも言わずに振り返って溜息を吐いた。


「ねえ花音、聞いてよ」

「どうしたの?」

「無言電話、酷くなってるの。今日、花音が出かけてから五回もあったのよ。
……やっぱりおかしいわよね」

「えっ!?」


母の言葉に驚いて、あたしはコートを脱ぐ動作もそこで止めて思わず声上げた。
背筋に冷たいものが走り、一瞬ぶるりと身体が震える。


「その電話、誰が出たの?」

「一回目と二回目は私。そのあとに鳴った電話はもう気味が悪くて……お父さんにお願いしたわ」

「……そう。雪乃には、無言電話があったこと言った?」


脱ぎかけだったコートを脱いで、あたしは怪しまれないようなトーンで母に訊く。
母は眉を寄せて首を振った。


「ううん。なんだか雪乃、ここのところ調子悪そうだし、そんなときに心配かけるのも、って思って言ってないわ。
あの子、今日も部屋にずっといたし……気付いてないんじゃないかしら」

「そっか」


母の言葉に胸を撫で下ろした。
雪乃がこのことを知ったら、更に落ち込ませてしまう。
気付いてないなら、そのほうがいい。


「それにしてもねぇ……。花音、心当たりある?」


尋ねられて、ぎくりとする。

相手は、先生しか考えられなかった。
だけど今、それを母に言うわけにはいかない。


「電話の拒否設定ってできなかったけ?
非通知でかかってくるなら、できるんじゃないかな。あたし、あとで見てみるよ」

「私もお父さんも、そういうのよくわからなくて……。
じゃあ花音、ちょっとやってくれる?」

「うん」


笑顔を作ってみせて、頷く。
機械ものは、あたしも苦手だ。
でも、それくらいは何とかやらなくちゃ。

内心は不安で堪らない。

写真に、無言電話に、昨日の雪乃への仕打ち。
そして今日またかかってきた無言電話。


簡単に終わってくれる気がしない……。


考え込んでいると、階段を下りてくる足音が聞こえた。
すぐにキッチンの扉が外から開いて、雪乃が顔を覗かせる。


「雪乃」

「……お姉ちゃん。おかえり」


薄暗い廊下を背に、雪乃は青白い顔をしていた。


「あ……ただいま」


雪乃は無表情のままだった。
扉を閉めると冷蔵庫へと向かい、中からケーキの箱を取り出して、あたしへと見せるように顔の高さへと上げてみせる。


「ケーキ、一緒に食べない?」


そう問われて、罪悪感のようなものが湧き上がった。
零から貰ったケーキは、本来なら、あたしと零のふたりで食べるものだった。

今、自分に表情が消えていることにハッとして、あたしは慌てて唇の端を上げた。


「う、うん。せっかくだから食べようかな」

「お母さんはこんな時間だからいいわ。先にお風呂入ってきちゃうわね」


母は、あたしと雪乃の様子に気を留めることもなく、にっこりと笑ってからキッチンを出て行った。

雪乃は変わらず沈んだ空気を纏っていて、ふたりきりになってしまったキッチンは妙に静かに感じる。


「食欲出たの?」


尋ねると、雪乃は首を振って、箱をテーブルに置いた。
それか蓋を開け、中のケーキを丁寧に出す。


「……ないけど。でも、零がくれたから。
捨てるわけにはいかないし、食べなきゃ。
なんだか、こういうの見越して生ものくれたみたいだよね、アイツってば」

「……そうだね」


小さな痛みが胸に走ったのを誤魔化すように、あたしは雪乃に背を向け、戸棚の扉を開けた。
そこから皿とフォーク、ティーカップを順に取り、テーブルに用意していく。
カチャカチャと陶器の雑音がキッチンに響いた。

雪乃は流し下の扉の内側から包丁を出してきた。
ケーキにゆっくりと刃を入れる横で、あたしは紅茶を淹れる。
ふわりと、あたたかで良い香りが立ち込めた。


「せっかくだから、全部食べなきゃね」

「……うん。でも、こんな大きなホールケーキ、食べ切るの大変だよね」


ふっと、雪乃はケーキに目を落としたまま笑った。
雪乃が笑ったのを見るなんて、あの日以来だ。

あの、クリスマスの日。
お父さんが、零をあたしの彼氏と勘違いして――そのことを雪乃に「後で聞かせて」って、言われたんだった……。


雪乃は大きめにふたつカットすると、それをひとつずつ皿に移した。
すっと、そのひとつをあたしに差し出す。
交換こでもするように、あたしはケーキを受け取る代わりに紅茶を雪乃に差し出した。


「いただきます」


ふたり同時に手を合わせ、ケーキを口に運んだ。

柔らかく滑らかな甘さが、口いっぱいに広がる。
いつもなら幸せに感じるその味は、とても切ない。

甘い。
甘い甘い、ケーキ。

あたしも雪乃も、黙ったまま静かにケーキを食べた。
雪乃は半分ほど食べたところで紅茶を手にして、ひとくち飲んでから短い息を吐いた。
そしてこちらを見る雪乃に、あたしも食べる手を止めた。


「……今日、ね」

「うん?」

「また先生から電話があった」

「えっ!?」


驚いて、思わずフォークを皿の上に落としてしまった。
雪乃は表情を変えないままカップを置いて、そこに目を落とす。


「……何回も鳴ってた」

「何回もって……出て、ないよね?」

「うん、出てない。
でも怖くて……布団に包んだ」

「電源切らなかったの?」


あたしの問いに雪乃は顔を上げて。眉を寄せ、ひとこと言う。


「切れなかった」


――切れなかった。

それは、トラウマからなるものなのかな……。


雪乃の言葉に何も言えずにいると、雪乃は続けた。



「夕方、気分が悪くなって、トイレに駆け込んだ」

「具合悪くなったの?」

「うん、気持ち悪くて吐いた……」

「えっ……」

「それから部屋に戻ったら、また鳴ってて……怖かったけど、携帯を布団から出したんだ。
そしたら、ディスプレイに零の名前が出てて……びっくりしたの」


――零の。


「今から飛行機乗るところだ、って。雪乃は大丈夫か、って」

「そう……なんだ。零くんでよかったね」


言いながら胸の奥が、ぎりっと痛くなった。

零が雪乃のことを心配するのは当然のことなのに。

嫌だ。
こんな気持ちになるの。
こんなことで胸が痛くなるなんて、嫌……。
電話の相手が零で良かったって、本当に思うのに。


雪乃は、どうにか薄笑みを浮かべるあたしを見て、その瞳に零の顔を映しているように微笑んだ。


「……零の声を聞いたらね、急に身体の力が抜けたっていうか……なんだか、電話ひとつ貰えただけで凄くホッとしたの。
ほんの少し、怖いって気持ちも薄れて……不思議だよね」

「……うん」

「零に勇気を貰った気がして……そのあと、携帯の電源落としたんだけど。
ずっと変えられなかった携帯の番号……あたし、変えたいって思ったの。
だから明日、お姉ちゃん、携帯買いに行くの付き合ってくれないかな?」

「それはもちろん付き合うけど……携帯の番号って……。
じゃあ、今まで番号変えなかったのは、先生の連絡を待ってたってこと?」


驚くあたしに、雪乃はこくりと頷いた。


「……そうだね、待ってたってことに、なるんだよね。変えられなかったんだから。
変えたら、本当に途切れちゃう気がして……。あんなことがあったって、先生のこと嫌いにはなれなかったし。
馬鹿だとは思う。恋愛感情はなくなっても、こんなふうにずっと引き摺ってるの」


自嘲する雪乃に、改めてまた今まで本心を解ってあげられていなかったと思い知らされる。
テーブルの上で拳を握りながら、あたしは雪乃をまっすぐみつめた。


「……なかなか忘れられないのは解る。でも、少しずつでも忘れて行こう?
過去は過去で、雪乃はもう新しい人生を歩んでる。先生とは違う道を。
今の雪乃の人生と気持ちを大事にして」


あたしの言葉に、雪乃は微笑んだ。


「うん……ありがとう」


それはとても柔らかい笑みだった。
あの写真を見たときから、張詰めた顔つきで笑顔を見せることのなかった雪乃。
泣いて崩れて、部屋に閉じこもって……。

雪乃を笑顔にさせられるのは、やっぱり零なんだね。
零からの電話一本が、雪乃の気持ちを軽くも強くもさせる。


雪乃は皿の上に置いていたフォークをまた手に取って、ケーキを食べ始めた。
そこからすぐに笑顔はなくなったけれど、昨日より少しだけ緊張が解けたような表情だ。

嬉しいのとともに、不安が黒く渦巻く。
せっかく少し浮上した雪乃の気持ちが、また潰されてしまうような気がして――。

今日の無言電話は、夕方あたしが出かけてからだと母は言った。
雪乃が携帯の電源を切ったのは夕方だから――そのあとは家に電話がかかってきたと考えれば、無言電話の犯人はやっぱり先生だということだ。

先生は雪乃に何を求めてるの?
雪乃にまた絡むつもりなの?

今持つ不安が、杞憂ならいい。
ただそれを願うしかない。


ケーキを食べ終わり、雪乃が先に部屋に戻るのを待ってから、あたしはリビングの電話を操作し、非通知は受け付けない設定をどうにか施した。

 

update : 2007.10.03(改2014.05.03)