44

家へ入ると、静かだった。
物音ひとつしない。

二階に上がり、雪乃の部屋の前に立つ。


「雪乃」


ノックをせずに、小さく名前を呼んだ。

すぐに返事は返ってこなかった。
雪乃の中の葛藤があるのだろうか。

少しのあいだ待ち、それでもない反応に、あたしはもう一度雪乃の名を呼ぶと。


「……入って」


一拍だけ置いて、梢が風に揺られた音のような不安定な雪乃の声が、ドアの向こうからそう言った。

そっとドアを開ける。

広がった暗がりの中に、雪乃の姿はあった。
ベッドの上で、いつもはしゃんとした背中を怯えた犬のように丸めて。
気力ない瞳は、あたしが部屋に足を踏み入れても伏せたままだった。
訊かずとも雪乃の悲痛と苦しみが一瞬にして感じ取れて、あたしの胸にも苦しみが湧いた。そんなのきっと、雪乃の何分の一ほどのものなのだろうけど……。


「あかり、点けるね」


壁のスイッチを押すと一気に視界が明るくなり、雪乃は今にも泣き出しそうな赤く縁どられた目を、眩しそうに眇めた。

あたしは扉を閉めて、雪乃へと近づく。

ベッドに腰掛け、雪乃の髪にそっと触れた。
子供をあやすように優しく、頭を撫でてゆく。


「話してくれる……?」


雪乃はその言葉に伏せたままの瞳を揺らせて、唇をきゅっと噛んだ。


「先生と会ったんでしょ……? 何があったの?」


あたしの問いに答えたくないように、雪乃は口をへの字にした。目も伏せたままだ。


「あたしは何があっても雪乃の味方だから。
あたしには、話して欲しい」


もう一度訊ねると、雪乃は吐息を零した。
ゆっくりと瞬きをして、目線を上げ、あたしの顔をようやく見た。


「お父さんとお母さんには、言わないで欲しいの……」


折れてしまいそうなほどか細い声で言った雪乃に、あたしは頷く。


「うん。雪乃がそうして欲しいなら、言わないよ」

「お姉ちゃんにも、言わないつもりだったの……。もう、あの時みたく心配かけるのも迷惑かけるのも嫌で……」

「心配はしたけど、迷惑だなんて思ってないよ」


雪乃は左右に大きく頭を振った。


「かけたよ。中坊のあたしが……あんなこと。お父さんとお母さんはショックだったろうし、大ごとになって、恥ずかしい思いもさせ……た……」


声を掠れさせ、雪乃の瞳はみるみる涙を膨れ上がらせてゆく。
布団を掴む拳は、これ以上ないくらい固く握られ、震えていた。

小刻みだけれど激しく動く手に、あたしは自分の掌を重ねると、それは凍えたように冷たくて。
少しでもあたたまるように、そしてあたしは味方だと伝わるように、ぎゅっと包み込んだ。


「雪乃は、一生懸命ひとを好きになった。それは恥ずかしいことじゃないよ。
裏切ったのはあのひとで、雪乃が悪いことは何もない」

「……っ」

「それに、あたしにまで遠慮することないよ。力になるから、なりたいから……だから何でも話して」


涙をぽろぽろと零し、蛍光灯を白く反射させた雪乃の濡れた瞳は、助けを乞うようにあたしをみつめた。

あたしもしっかりと雪乃の滲んだ瞳を見据え、包む掌に力をこめた。

雪乃は唇を曲げ、苦しげに顔を歪める。
そして瞳をまた伏せて、身体を起した。
ぎしりと、ベッドが軋む音が、重い空気を割って響いた。


「あの、写真……」


いつもよりずっと静かで細い雪乃の声が語り出す。


「玄関の前に置いてあったっていう写真……付き合ってたときに、先生の部屋で撮ったものなの……」


見てすぐに分かった、と言った雪乃に、あたしは頷いた。


やっぱり、あの写真は先生が持って来たんだ。


「普段写真なんて二人で撮ったりすることなかったのに、あの日、急に写真を撮ろうって、先生が言い出したの。
あの日のこと、よく覚えてる……忘れられるはず……ないもん……あた……あたし……」


雪乃の瞳からまた涙が溢れ出して、頬を伝わり滴り落ちてゆく。
途切れた言葉は、それ以上なかなか出てこない。

雪乃の身体を抱きしめた。
腕の中の妹は、壊れてしまいそうに繊細に震え、苦しげな嗚咽を漏らしながら崩れるようにあたしの肩に顔を埋めた。

小刻みに揺れる背を落ち着かせるように撫でてやると、あの日、と、雪乃は涙声で続きを話し始めた。


「……あたし、あの日……先生と初めて……したの……。
雪乃のこと好きだって、愛してるって、大切にするって、ずっと一緒にいようって――言ってくれたの。
あたしも、好きだったの……。先生が大好きだったの。……怖かったけど、先生ならって、そう思ったの」

「……」

「だから――信じられなかった、先生があたしを裏切ったなんて。
……裏切られたのは事実だし、死にたいくらい傷付いたのに」


震える声が、それでも言った。
なのに、好きで好きで、会いたくてしかたなかった、と。


「あたしの他にも女の子に手を出してたのが学校にばれたあのときから、先生には会わせてもらえなくなって、ちゃんとふたりで話もできなかった。
先生から、本心を訊きたかった。直接訊きたいこと、いっぱいあったのに……」

「雪乃……」


雪乃の抱えていた想い――そんな想いを抱えていたことなんて、あたしたち大人は全く気付いていなかった。
まだ中学生の教え子に手を出した男なんかに、もう二度と会わせるものかと、護ることだけしか考えていなかった。


「……今はもう、忘れたいことだよ。思い出したくもないこと。
けど、あの写真をみて、たくさんのことを思い出した……。
悩んで、苦しくて――そんなとき、電話があったの……」

「先生から?」


雪乃はあたしを見ないまま頷いた。


「……家にも……何度か電話してきてたみたい……。
こっちに来てるって。雪乃に会って、話がしたいって。あのとき話せなかった話を、きちんとしたいからって……」

「雪乃はそれで先生に会いたくなったの?」


あたしの問いに、雪乃は数秒黙ったあとに小さく頷いた。
ずずっと鼻を啜り、涙を指で拭う。


「最初は断ったんだけど……でも、何度も電話があったの。繰り返し、お願いだから会って話がしたいって言われて……。
初めはムカついて仕方無かった。何で今更って……。
それなのに、一度思い出したら止まらなくなって……今、恋愛感情が残ってるわけじゃないのに、たくさんのことを思い出しちゃうの。
自分で自分が、おかしいとも思った。……でも、あたしも話を、したいと思ったの。
あたしの中で、しこりみたいのがずっと残ってたから。だから……」


雪乃は顔を上げて、叱られた子供のような表情で上目遣いにあたしを見た。


「でも……一人で会うのは怖くなって……」

「……っ、それであたしに電話くれたの?」

「うん……」

「ごめん……っ、送別会で気付かなくって……!
本当にごめん! あたしが気付いてれば――」


雪乃は、首を振った。


「お姉ちゃんが出なかったから、次に、零に電話したの……。けど、零も今日は無理って……。
あたし、馬鹿だよね……元彼に会うのに、好きなひとに電話するなんてどうかしてる。
だけど、もう、どうしていいか解らなくなってて……あのひとに、また会ったりしたら駄目だって、信用もしちゃ駄目だって、わかってるのに……」


雪乃の瞳が苦しげに細まり、溢れる涙がぽたぽたとふたりの間に落ちる。


「話ができないまま、別れさせられて……きちんと話をしたら、あたしももっと前に進める気がしたの。
いつまでもこんな風に引き摺ってるんじゃなくて……」

「ごめんね、雪乃。あたし、何にも解ってなかった」


泣きながらかぶりを振る雪乃を、もう一度ぎゅっと抱きしめる。


どうしてあのときもっと、雪乃当人の気持ちを汲んであげなかったんだろう。

あたしは、雪乃を想っていたつもりで、解ってあげられなかった。
今日会いに行った理由も、全く解ってなかった。

確かにあのときは、両親や他の先生たちや被害者の親たち――色んな人物が入りすぎて、当人同士で話をさせられる状況じゃなかった。
あんなことをされて、顔を合わせて話し合いをさせるなんてとんでもないと思うのがふつうだろう。

でも雪乃は、本当はきちんと最後に話し合いたかったんだ。

それは、この間、啓人とのことで、あたしも感じたことだ。


「それで、先生と話は出来たの……?」


雪乃は眉根を寄せる。
否定も肯定もしない。


「会って――最初は、普通に話をしたの。先生、車で来てたから、車の中で。先生の田舎の話とか、当たり障りのない世間話。
先生は、優しかった。笑顔で迎えてくれて、昔と変わらなくて。大人だなって思うような、エスコートをしてくれた。
外見は少しだけ変わってた。痩せたっていうか、疲れてやつれた感じだった。でも、笑顔が昔のままで……。
会うのは確かに怖かったけど、でも実際会ったら、どこかホッとして懐かしかった。
あたしも、徐々に口数が増えたの……。学校の話とか、訊かれたことには素直に答えた。
話があるって言ってたのに、先生から話してくれなかったから、あたしから切り出したの。
先生はあのとき、あたしのこと、本当はどう思ってたの? ゆっこや亜美や瑠奈のことはどう思ってたの? どうして何も言ってくれなかったの――って」


少し遠い目をして語る雪乃の話を、あたしは黙って続きを待つ。
雪乃は小さな吐息を吐いて言った。


「……雪乃が好きだって、先生は言った」

「……え?」

「昔も今も、雪乃が好きだって」

「え、待って、今もって――」

「じゃあ、どうして、って――!」


雪乃の強い声があたしの声に重なった。


「じゃあどうして他の子に手を出したのって言ったら、先生は答えてくれなかった!
答えないで、いきなり、キ――キス、されて――押し倒されて、胸、触られて、やめてって抵抗して――」


雪乃はぽろぽろと涙を流しながら口許を掌で抑える。
あたしは驚いて、目を見開いた。


「何それ……」

「す、好きなひとがいるのって――言って。やめて嫌だって――逃れようとしたら、ふざけんなって、殴られて――」

「なっ――!」

「ホテルに連れ込まれそうになって、車が停まったときに、必死で逃げて……っ」

「……っ!」


頭にカッと血が上る。
だけど、出そうになった言葉は唇を噛んで呑み込んだ。
嗚咽を漏らしてそれ以上何も言えなくなった雪乃を、ぎゅっと抱き寄せ腕に閉じ込める。


……酷い。
酷過ぎるよ。


小刻みに震える雪乃にかける言葉がなかなか見つからない。


雪乃からの電話に気が付いてれば……こんなことにはならなかったかもしれないのに。


自分の不甲斐無さも腹立たしかった。
怒りと、どうにもならないやるせなさが内側でせめぎ合う。


「雪乃……」

「……」

「もう先生と、会っちゃ駄目だよ」

「……」

「何かあったら必ず相談して。
ひとりで全部抱え込まないで……」


身体を少し離して、雪乃の顔を見つめた。

辛そうな、悲しみを含んだ瞳の色。
溢れている涙でその色も滲む。


「……」


雪乃は小さく頷いた。









少しひとりにさせてと言った雪乃を部屋に残し、あたしは一階に降りキッチンへ向かった。
階段の灯りを頼りに、電気のスイッチを探る。
真っ暗だったキッチンはパッと蛍光灯で明るくなり、眩しさに目を細めた。
そのまま瞼を閉じて天井を仰ぎ、長い息を吐き出すけれど、それでも瞼裏が眩しく感じてぎゅっと強く閉じる。


雪乃は……おそらく眠れない夜を過ごすんだろう。

きちんと本当は先生と話したかったと言っていた雪乃。
それなのにまた裏切られるなんて――。

それに無言電話や写真も気になる。

このままもう、終わってくれるの?
それとも……。


身震いがした。
足元から不安が突き上げてくる。


だめだ、私がそんなふうじゃ。


目を開け、首を振った。
拳を握りしめると、テーブルに近づいた。
そこに置いてある、零から貰ったケーキの箱を見た。


「雪乃と食べて、か……」


思わず小さな声を漏らした。

椅子を引くと、静かな部屋に足が床と擦れる音が耳障りに響いた。
あたしはそこに座って、箱に手を伸ばした。

側面から開けて、そっと中のケーキを取り出す。
真っ白にデコレートされた生クリームのケーキは、あの雪の日の時間を思い出させた。

胸の奥の極柔らかいところを握り潰されたように、ぎりぎりと痛くて苦しくて息ができなくなる。

ぼんやり眺めるそれは、あのときと一緒に見えてくる。
ふたりで作った不格好な、真っ白なケーキ。
でも、いっぱいに心はこもっていて――。


一緒に食べるはずだった。


……今、一緒になんて、食べられる状態じゃない。
そんなことを考えてる場合でもない。

雪乃にこんなことがあって、何とかしてあげたいし、守ってあげたい。
あたしにとっては大切な妹。

だからこそ、今の状態で零のことを話すわけにはいかない。
でも、このままずっと話さないのは、雪乃にも零にも自分にも嘘を吐き続けることになる。


あたしは何をしてあげられる?

どの選択が一番正しくて、何が誠実なんだろう?
いつになったら、みんなが幸せになれるんだろう?

それとも、みんなの幸せを望むことは、贅沢で無茶なことなのだろうか。


見えない先に目を凝らすように、あたしは零から貰ったケーキをみつめた。

update : 2007.09.21(改2014.04.19)