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あたしは――何をやっているんだろう。
空回りばかりしている気がする。
啓人のことも。
彼女のことも。
雪乃のことも
そして零のことも。
家に帰って、ただ部屋で待つしかなかった。
雪乃の元へ駆けつけたい衝動と焦燥と、心配と不安が綯交ぜになっているのに、じっと待つしか。
ひとりぼっちの部屋で、何度も何度も時計の針を確認する。
過ぎゆくたった数十秒でも、あたしにとっては長さを感じる。
雪乃は今、泣いているんだろうか――。
あの着信は――雪乃のSOSだった?
それとも、先生に会いに行くのが不安で、相談の電話だった?
もしかして、怖くて一緒にいて欲しかった?
先生は?
田舎に帰ったはずなのに、また東京に戻ってきたの?
戻ってきて、雪乃に急に会いたくなったの?
雪乃に会うことが、こっちに来た目的?
雪乃は……どうして彼に会いにいったんだろう……。
あんな酷い目に合わされたのに……。
大好きだったひと――中学生の雪乃が全てをかけられるくらい、好きだったひと。
そして、そのまっすぐな気持ちを裏切ったひと。
溜息を吐き出す。
それからまた時計を見た。
そろそろ午前零時を回るところだった。
両親はふたりとも30分程前に床に就いている。
物音ひとつしないことから、既に眠っていることは間違いないだろう。
雪乃が帰ってきて、先生の暴力にもし顔が腫れていたとしても、取り敢えずは両親と顔を合わせさせずに済む。
もう一度息を吐き出し、今度は窓の方を見たときだった。
遠くから車が近づいてくる音が聞こえた。
――雪乃!?
反射的に立ち上がり、窓の外を覗く。
向うの道から走ってきた車は、家の前で停まった。
零の車だとすぐに判り、あたしは急いで部屋を出て、けれどなるべく音を立てないよう階段を駆け下りた。
裸足のまま三和土に降り、玄関の扉に手を伸ばして――そこで躊躇した。
ゆっくりと、手を身体に引き戻す。
雪乃に何があったか、あたしは知らないことになっている。
それなのに、いきなり迎え出たら、変に思われる。
慌てて上がり框まで戻ったとき、施錠が外れる音がして。そのあとすぐに玄関扉が開いた。
「お姉ちゃん……」
振り返ると、雪乃は驚いた顔をしていた。
雪乃のすぐ後ろには、零と、おそらく河西くんであろう男の子が立っている。
あたしは、できるだけ何でもないような素振りで雪乃に言った。
「お帰り。遅かったから、心配してたの」
「……ああ、うん……ごめん……」
雪乃はあたしから目線を逸らし、俯いた。
伏せた目許は、そうしても泣き腫らしたあとが窺え、頬も殴られたせいなのかやや赤い。
目にした痛々しい姿に、胸へ痛みが走る。
けれど、それについて声をかけていいものかも戸惑っていると、零と河西くんがあたしに向かいぺこりと頭を下げた。
さっき一緒にいたのに……。そんな零の姿に物凄く他人行儀な気分にさせられた。
あたしも同様に軽く頭を下げると、雪乃は顔を上げ、無理に作った笑顔でことさら明るい声を出して言った。
「お姉ちゃん、零と河西くんが送ってくれたの」
至って普通の姿を繕う雪乃のその様は、如何にも誤魔化すような感じだ。
起こった出来事を訊かれたくないというように。
やっぱりあたしにも話したくないの……?
この間も嘘を吐いた雪乃。暫く部屋に籠もって、何も話してくれなくて――。
「雪乃」
河西くんが、まるで咎めるように名前を読んだ。
雪乃はぴくりと肩を揺らし、笑顔を消失させ、また俯いた。
「お姉さん」
次に呼んだ声は零のものだった。
あたしを見る零と、目が合う。
「すみません、ちょっといいですか?」
くい、と、立てた親指を外の方に向け、ちょっと外でという仕草をした零が言った。
――オネエサン
あたりまえじゃない。
いつものように、名前であたしのことを呼べるわけなんてないのに。
それなのに、しかもこんなときに、どうして傷付いた気分になっちゃうんだろう……。
はい、と、答えて、あたしはサンダルに足を突っ掛けると、雪乃の脇をすり抜け、零のあとについて外に出た。
河西くんが雪乃に何か言っていたのが目の端に見えたけれど、あたしはそのまま玄関のドアを閉めた。
無言の零に続き、門を出て、彼の車の前でふたり足を止めた。
傍に立つ電柱から注がれる白い灯りが、そこだけ切り取ったように照らす。
青白く映し出された零の顔を、あたしはみつめた。
見上げるあたしの視線と、見下ろす零の視線が絡まる。
僅かに流れた沈黙ののち、零が口を開いた。
「雪乃……さ、以前のことで家族には心配も迷惑もたくさんかけたから、もうこれ以上心配かけたくないって。だから親には絶対に話したくないって言ってた」
「そっか……」
「うん、だからせめてお姉さんには相談しろって言っておいた。
ある程度のことは聞いたけど、雪乃、オレにもあまり詳しく話したがらないんだ、昔のこと。
今回の件も、殴られたってことは言ってたけど、会いに行った理由も殴られた理由もちゃんと話さないんだよ」
「そう……」
「だから後で話聞いてあげてよ。昔の事情を知ってる花音さんになら、話してくれると思うし」
「……うん。ゴメンね、零。色々ありがとう」
「ゴメンねとか、言うなよ……」
そう言った零の顔が辛そうに歪んだ。
「そんな風に言われるのって……何か、さ……」
そう言いかけた零は、あたしから一度視線を外して。
口籠ったかと思うと、再度あたしをみつめ直す。
「いや、何でもない、ゴメン。
花音さん、解ってる? オレと雪乃は友達だから。オレにとって、雪乃は大事な友達。
だから放ってはおけない。だけど――」
「オイ、零!」
零が言いかけているそれを、河西くんの声で遮られた。
家から出てきた河西くんは、あたしたちの目の前で止まって、ふたりを順に見た。
「何なんだよ、どーゆーコトだよ? お前ら知り合いなわけ?」
低い声で言い、今度は零を睨み据える。
「解ってるのかよ、今の状況。お前……雪乃の気持ち知ってるんだろ?
お前、何にも話さねーから解んねーよ」
怒気を帯びた声で、河西くんは零に言い放った。
静まり返った夜の闇の中にその声が響いた。
雪乃の気持ちを知ってるって――。
零は気付いてたの?
それとも雪乃が告白したの?
緊迫した空気が流れ、三人とも押し黙る。
零がそれを破るかのように、小さく溜息を吐いた。
「河西、声、デカイし」
「オマエなぁ……」
「雪乃は?」
「……自分の部屋に戻った」
「そっか……」
零はそうひとつ頷くと、またあたしに辛そうな顔を向けた。
「帰って来たら連絡するから。
雪乃のこと、よろしく頼むね」
「……うん」
返事をすると、河西くんは「どーも」と、怪訝そうな顔つきであたしに頭を下げて、零の背中を押し、車に乗るように促した。
河西くんにあまり良く思われていないのは一目瞭然だ。
零は無言で運転席のドアを開けると、そのままそこに座らず、後部座席へと上半身をねじ込んだ。
そこから取り出したのは――ケーキの箱だった。
そして、あたしに向き直り、それを差し出した。
「結局、また一緒には食べれなかったね。雪乃と食べてよ」
「……」
あたしは零のことを見上げた。
言葉が出てこない。
あたしたち……こんな風にずっと平行線なのかな……?
小さな約束を果たすことも、好きだと伝えることもできず……。
そんな不安が過って、胸が押し潰されそうに痛くなった。
雪乃がこんなときに、そんなことを考えるなんて……。
あたし、最低だ。
だけど、零が見せた辛そうな顔も、今こうして微笑む顔も、どこか無理がある表情で。
それを見たら、不安が大きな波のように押し寄せて――。
明日から、零はアメリカに行く。
暫くまた会えない。
落ち込んでいると言っていたのに、話さえ聞いてあげられなかった。
『……帰ってきたら、話、ちゃんとしたい。オレの話、ちゃんと聞いてくれる?』
――さっきの、車の中での約束。
その約束も、きちんと果たすことができるの……?
「花音さん?」
考え込んでしまったあたしに、零は不思議そうに首を傾げた。
あたしは顔を上げ、笑顔を見せる。
「ありがとう」
零と二人で食べる筈だったケーキ。
礼を告げ、彼から箱を受け取る。
それから、車の助手席に座り黙って待つ河西くんの方へと行き、サイドガラスをコンコンと叩いた。
「あの、河西くん、雪乃のためにありがとう。迷惑かけて……すみませんでした」
頭を下げると、河西くんは不愛想な表情のままかぶりを振った。
恐らく、あたしの気持ちも零の気持ちも、彼は察しているのだろう。
「ごめんね、花音さん。アイツ感じ悪くてさ」
零は苦笑いしながらそう言って、開いたままにしてあった運転席のドアから車に乗り込んだ。
「雪乃のこと、頼むね」
「うん、気を付けて。本当に、色々ありがとう」
零は薄い微笑みで首を振ったあと、車を発車させた。
あたしは、その場で走り去る車を見送る。
寝静まった住宅街の闇に、吸い込まれるよう、車の音も姿も消えていった。
しん、と、冬の冷たい空気が張り詰めていて、北側から吹き付けた風の音がひゅうっと耳元で鳴った。
煽られた髪が、はらはらと頬に落ちて戻る。
手から下げるケーキの箱の取っ手を握りしめて、あたしはその場でしばらく立ち尽くした。