42
定時になると、部長が皆を呼び寄せた。
毎年、終業日には、部署で終礼をやるのは恒例だ。
その恒例もこれが最後なのかと思うと、胸の奥が軋んだ。
ううん、終礼だけじゃない。この空間も、こうして皆の揃った顔を見るのも、今日限り。
毎日何気なく瞳に映していた光景は、明日からはもう見ることができない。
あたしは、この会社を辞めるのだ。
どうしようもない寂しさが、喉元を熱く苦しくさせた。
息苦しいまま、あたしは部長に呼ばれ、皆の前で最後の挨拶をする。
上手く、言葉が出てこなかった。
今までの、大変だったことも辛かったことも、その上での達成感も喜びも、皆との出会いと縁と楽しかったことも、全部一緒くたにせり上がってきて。
言いたいことや伝えたいことはたくさんあるのに。
たくさんたくさん、言い切れないほどあるはずなのに。
口から言葉が出てきてくれないどころか、涙までもが邪魔をして――。
腰かけ――だろうって、ひとから見れば、そう思われても仕方なかったかもしれない。
辞めるときは寿退社だろうって、そんな考えがあったことは否定なんてできないし、その響きに僅かな憧れもなかったなんて言えない。
だけど、あたしなりに、頑張ってきた。
ここで色んなことを学んで、吸収したものを生かすために必死にもなった。
今も、一人前とは言えないのかもしれないけれど、世間を知らない半人前のあたしがここまで成長することができたのは、この会社のお蔭。
長い人生の中の、ほんの数年間。
でもそれは――かけがえのないもの。
腕時計に目を落とす。
その途端、ふわりと甘く上品な香りが鼻先を掠めた。部の皆から貰った花束と、さっき送別会で貰った花束のふたつが腕の中にあるから。
時刻は零との約束の5分前。送別会の最中、本当に奈緒子が皆に上手く言ってくれて、あたしを先に上がらせてくれた。
アルコールが入って火照った頬を、冷たい風が撫でてゆく。奈緒子が常に隣にいてくれて、「花音に飲ませ過ぎちゃダメ」と、皆にセーブしてくれたから、思ったよりも飲まされることはなかったけれど、それでもほんの少しの酔いはある。
まだ耳の奥にも、皆の楽しそうな声がじんわりと残っている気もする。
あたしのために営業部で仲の良かった八人が集まってくれて、和風創作の居酒屋で初っ端からテンション高く盛り上がった。
忙しかった年末業務も終わって明日から休みだし、集まるのも久し振りだったし、皆箍を外していた。あたし自身も本当に本当に楽しくて――。
花の中に顔をうずめるみたいに下を向いた。
楽しかったから。大好きなひとたちだから。申し訳ないのと嬉しいのと寂しいのと、気持ちはごちゃ混ぜになって、涙が出そうになって……。
「かのーんさーんっ」
明るい声に顔を上げ、振り向いた。
いつの間にか現れていた零が、ぶんぶんとあたしに向け手を振っている。
ふっと、心が柔らかくなる。
寂しい気持ちは、五日ぶりに見る零の笑顔が消してくれた。
彼の傍には、お馴染みの赤いミニ。
あたしも手を振り返したいのを我慢して、抱えた花束と共にそこに駆け寄る。
彼の元に到着するほんの少し手前で、車の助手席のドアが開けられた。
「どーぞ」
「ありがと」
笑顔のエスコートにあたしも微笑み返して、助手席に乗り込んだ。エンジンがかけられたままの車内は暖かい。
すぐに零も隣の席に着いて、車は走り出す。
「ウチでもいい?」
零が訊いてきた。
どきっとする。
ウチって――。
「零の家?」
「うん。ケーキ、食べよ」
「ケーキ?」
問い返した言葉に、零は前を見ながら、けれど左の人差し指を後部座席に向けた。
あたしはその指の先へと振り返る。
見たことのあるケーキ箱がそこにはあって、あたしは目を見開く。
「これって……キルフェボン?」
「この間、約束したじゃん。次に会ったとき、一緒に食べようって。
あれ、覚えてない? この間は食べられなかったし」
隣で、零はそうにっこりと微笑んだ。
もう、こいつってば……。
「……覚えてる、よ」
嬉しいコトしてくれる。
そんな、忘れちゃうような約束。
――あの日。
次に会うことなんてもうないと思いながら、そうだね、と答えたのに……。
そんな曖昧な約束さえ、大切にしてくれるなんて。
「あり、がと、ね……。家、行っていいの? お母さん、いるんじゃないの?」
「明日向うに戻るから、今日は友達と久しぶりに呑みに行くんだって。さっき送っていったんだ」
「そうなんだ……。留守中に上がり込むのも悪い気がするけど、平気?」
「えー、花音さんからそんな言葉が出てくるなんて。既にウチに上がり込んだでしょー?」
意地悪そうに、零はにやにやと笑う。
ずるい。そんなこと、言うなんて。
思い出す。
あのとき、抱きしめられて起きた朝も。キスも。
零の腕の中の感触が蘇ったようで、心臓が急にバクバクと音を立て始める。
絶対、顔、赤い!
「思い出してくれた?」
「零ー」
「あ、やべ。あんまり苛めると来てくれなくなっちゃうね。
つっても、もう逃げられないけど」
クククと、零は笑うと、車は少しスピードが上がる。
「逃げるとか、ないし!
それに、零、スピード出しちゃダメ!」
「法定速度内です。
ね、顔、赤くね?」
「これはっ、お酒飲んでるからだもんっ」
恥ずかしさを誤魔化すように言った。
でも、絶対に何を考えてるかバレてる。
もう、笑ってるし!
「まー、そういうことにしとく。
てかさ、どうしたの、その花束。誰かの送別会だったんでしょ? 急に呼び出したりして、ホントごめん。途中で抜けさせちゃったよね?」
その質問に、あたしの顔の熱は一気に引いた。
言いづらいけれど、言わなくちゃいけないこと。ある意味、良いタイミングだ。
「……あー、あのね、実は、私のなの」
「え?」
「あたしの送別会。今日で会社辞めたの」
一瞬の間。
前を向いたままの零は、驚いた表情で固まっている。
当たり前だよね。言ってなかったし。
「は!? ちょ、ちょっと待ってよ! 何それ。オレ、そんなの聞いてねーし!」
「ゴメンね……急だったの。辞表提出したのって、火曜日なの。
辞めるって決めたのだって、本当に最近で……あの日……クリスマスの日なの」
「マジで言ってるの!?」
驚いた顔のままちらりとあたしの方を見た零の瞳とあたしの視線が合わさる。
あたしは、こくりと頷いた。
「そうだよ」
答えたときには、零の視線はフロントガラスを睨んでいた。
その表情は、とても硬い。
「辞めた……って、何で急に?
それってやっぱりアイツが関係してる? 会社で顔合わせるのがキツイから?」
零の言葉に、胸が痛む。
そう思われるのは、当然だ。
啓人のこと、忘れられないって言ったのは、あたしだもん……。
「啓人は関係ないの。確かに、ある意味では切欠にはなったと思うけど」
でも違うの、と、あたしははっきりと告げた。
「あたし、やりたいことを見つけたの。ジュエリーデザイナーを目指そうと思って」
「え!? それも聞いたことないし!」
「ごめん……言ってない。言ってないというか、今まで憧れたことはあっても、目指そうなんて考えたことなんてなかったの。端っからあたしじゃ駄目だって、そんなふうに思ってたし。
けどね、凄く単純で恥ずかしいんだけど、あたし、ああいうの好きだから、好きなものに携わりたいって、好きなことやりたいなって、思うようになったの。
卒業してからずっと働いてきた会社を辞めるなんて、勿論悩んだけど、でもあの日――クリスマスの日、零に会って、はっきりと決めたの。辞めて、あたしはジュエリーデザイナーを目指すんだって」
「――オレに会ってって、それって……」
あたしの言葉に驚く零は、どこか期待を込めたような、それでいて問うように言葉を詰まらせた。
あたしは、うん、と、首を小さく縦に振った。
あの日――零に会って、真剣な気持ちを聞いて、自分が前に進みたいと思ったこと。
ふらふらして流されやすかった自分から卒業したいって思ったこと。
それに、啓人のことはもう忘れたって……それくらいは言ってもいいよね?
「あのね」
そう切り出そうとした途端、背後から音楽が鳴った。
音が鳴る方に思わず振り向くと、それは後部座席に置いてあった零の携帯電話の音だった。
車内に響く着信音に、出鼻を挫かれたような、どこか息をつきたいような複雑な気分になる。
「零、電話だよ」
「え、いいよ。今、すげー大事な話じゃん。こっちのが大事。続き聞かせてよ」
「え、あ、うん……」
携帯から零に視線を移しかえると、すぐに着信音は止んだ。
留守番電話に切り替わったみたい。
「……で。オレに会ってって、それって……?」
彼の真剣な声に、また緊張が走り始める。
あたしは、運転をする零の横顔を見つめた。
「あの、ね」
言いかけた途端、再び零の携帯が鳴った。
急かすように鳴り続けるその音に、何だか話しにくくなって、あたしの唇の動きは止まる。
「何だよ、しつこいなー。ゴメン花音さん、ほっといていいよ」
零はそう言って、バックミラーをちらりと見ながら顔を顰めた。
けれどあたしは、妙にその電話が気になった。
「急用かもよ。もしかしてお母さんとか。出た方がいいんじゃない?」
運転中の零の代わりに、あたしは後部座席の上で音を発しながら光るその携帯電話に手を伸ばした。
手の中に収まった携帯電話につけられた恋愛のお守りが、揺れてあたしの甲に触れる。
男の子らしくない赤色の可愛らしいソレが、彼といつも一緒で大切にされているのを目の当たりにして、嬉しい気持ちが湧いてしまう。
やっぱり――話したい。少しでも、気持ちを。
「はい。車、停めて? 話は電話の後でもできるし。
あたしも、落ち着いて話したいし」
手に取った携帯を零に差し出す。
「……分かった」
了承した零がウインカーを左に出すと、そこで携帯の音は切れた。
けれど車を路肩に寄せる間に、また着信音が鳴り出した。
三度目のコール。
よほど何か急用でないと、普通は三度も続けて鳴らさない。
何か嫌な予感さえして、車を停車させた零に携帯を手渡す。
渡す時にちらりと見えたサブディスプレイには、『河西』と表示されていた。
河西くん、って……雪乃をこの間迎えに来た子、だ。
零の親友の――。
「ハイハイ、何?」
少し不機嫌そうに電話に出る零の横で、あたしは少しだけほっとしてシートに凭れかかった。
ほっとしたのは――電話の相手が雪乃ではなかったから、だ。
そんな風に思ってしまった自分に嫌悪感が生まれて、小さく息を漏らし、瞳を閉じた。
だけどすぐに閉じた瞼を開いた。
零が急に大きな声を上げたから、驚いて。
険しい表情をして電話を無言で握り締める零を見る。
どうしたんだろう……?
黙ったまま耳を傾けている零の携帯から、忙しない話し声が僅かに漏れてきた。
何を話しているのか、内容までは聞こえない。けれど、それが切迫したものだというのは伝わった。
「分かった」
零がそう答え、電話を切った。
そして携帯を握り締めたまま、彼は大きな息を吐き、ハンドルに顔を伏せた。
「どうしたの?」
心配になって覗き込む。
夕方の電話で『落ち込んでる』と言っていた零。
それに関係してるの……?
零はゆっくりと頭を上げて、あたしを見た。
眉根を寄せた、険しく歪んだ顔。
辛そうなその表情に、大きな不安が過る。
「……ゴメン、花音さん……」
「……え? あ、うん。どうしたの?」
あたしがそう訊くと、零は暫く黙ったまま辛そうにあたしを見つめる。
「零……?」
零は一度小さく息を漏らしてから、ぎゅっと目を瞑った。
そうしてから瞼を開くと、再度あたしの瞳を見据えた。
「雪乃が……」
「雪、乃?」
零の口から出たその名前にどきりとした。
瞠目しながら零を見上げる。
零はあたしを見つめたまま、目を細めて言葉を口にした。
「今迄、嘘吐いててゴメン……。
オレ、ホントは雪乃――花音さんの妹と、同級生なんだ」
――ああ。
零は、あたしと雪乃が姉妹だってこと、知っていたんだ。
あたしはごくりと喉元を鳴らしてから、小さく答えた。
「知って、る」
あたしのその言葉に、今度は零が大きく瞳を見開く。
「何で……?
花音さん、知ってたの? オレが高校生、って」
複雑なものの入り混じったような瞳。少しうわずった声で零はそう言った。
驚くよね……。
知っていたのに、何も言わなかったあたしも、零に嘘を吐いたことになる。
「雪乃が、零と写ってる写真を持ってて……同級生だって、言ってた」
「――そっか……」
零は語尾を消失させ、瞳を伏せてほんの少し黙り込んだ。
そして、瞼を押し上げてあたしを見つめる。
「落ち着いて、聞いて欲しいんだけど」
「どうしたの?」
「雪乃、一人で元彼に会いに行ったらしい」
「えっ!?」
「それで、暴力振るわれたみたいなんだ。
河西って友達んとこに、助けてって電話があって、今ソイツと一緒にいるって。
今は大丈夫らしいんだけど……」
「暴力!?」
ばくん、と、心臓が脈打った。
元彼?
何で?
暴力って、何――?
想像だにしていなかった話に、驚きのあまり頭が混乱する。
それ以上言葉を失っていると、彼は続けた。
「19時頃、オレんトコにも雪乃から電話があったんだ。これから一緒に付き合ってくれないか、って。
でもそのとき、母親を送っていくところで車の運転中だったし、話も聞かずに今日は無理って、すぐ切っちゃったんだよ。
オレのせいだ……あのときちゃんと話を聞いてたら……一緒に行ってたら……」
「待って、……零のせいじゃないでしょ。
ね、雪乃は、今は大丈夫なんだよね? 河西くんと一緒にいるんだよね?
暴力って、怪我は?」
「ああ、大きな怪我とかはないみたい。
とにかく行こう。二人のとこに急ごう」
そう言った零の言葉に躊躇する。
行こう――って。
一緒になんて、そんなの無理だ。
雪乃の元に今すぐ駆け付けたい。
だけど、零と一緒には行けるはずないよ。
「あたし……一緒に行けない」
「え?」
「だって、雪乃はあたしと零の関係知らないから。
知ったら……そんなことがあったのに、今あたし達の関係を知ったら……」
零と一緒にいたなんて、ショックじゃ済まされない。
先生に一人で会いに行って、暴力を振るわれて。
その上、迎えに来た好きな人と自分の姉が一緒にいるなんて。
――どう考えたって、更に混乱させる。
零は理解したのか、こくりと頷いた。
「分かった」
「雪乃のこと、お願いね。あたしは、家で待ってる」
「うん」
「それと、お願い。あたしと零の関係、雪乃には言わないで……」
「……分かってる。それは――」
「え……?」
「ううん、何でもない。オレ、行くよ」
「……うん。よろしくお願いします」
「花音さんは、一人で平気?」
「大丈夫。ここからなら代々木駅もすぐだし。
ごめんね……ご面倒かけるけど、早く行ってあげてね」
「ごめんねとか、言うなよ。
友達なんだから当然のことだし」
そう言ってくれた零に、頷いてあたしは車のドアに手をかけた。
頭がくらくらする。
何で……何で急にあの人に会いに行ったの?
ぐるぐると動きの鈍い頭で考えると、ふと、思い浮かぶ。
――無言電話。
そしてもうひとつ――昔の写真。
あれは、雪乃の中学生のときのもの。
先生と、付き合っていたときのもの、だ。
あの写真は――彼が置いていったんだ。
それを雪乃も解っていた。
だから――。
点と点が線で繋がる。
――何であたしは気付いてあげられなかったんだろう。
「花音さん」
彼の声に我に返って、開けかけたドアのまま振り向く。
左手を取られた。
ぎゅっと。
ほんの、20cm先。
至近距離に零の顔があって、あたしはその顔を見上げる。
「オレ、明日から、冬休み中アメリカ行くんだ。
……帰ってきたら、話、ちゃんとしたい。オレの話、ちゃんと聞いてくれる?」
明日からアメリカに――?
お母さんと一緒に行くっていうことだよね? さっきお母さんは明日帰るって言ってたし。
落ち込んでいると言っていたのは家族のことが何か関係してる……?
「うん。あたしも聞きたい」
返事をすると、ゆっくりと手が離れた。
零の瞳はあたしを見つめたまま。
こんなに近いのに、何故か遠く感じる。
何で……?
「気を付けて。雪乃はちゃんと家まで送って行くから。
帰ったら、花音さんがそれとなく上手く訊き出して」
「うん、ありがとう」
あたしは答え、今度こそ車のドアを開けて降りた。
ドアを閉めると、足が少しふらついた。
零の車は行ってしまう。
どんどん小さくなって、闇に消える。
雪乃のことが心配で心配で堪らないのに、その場にいけないもどかしさと罪悪感が込み上げてくる。
そこに立ち尽す身体に夜風が吹きつける。
刺すように冷たい。
その風で揺らされる街路樹の音が妙に不安を掻き立てる。
――家に一度電話しなきゃ。
バッグから携帯電話を取り出した。
手に取った携帯のディスプレイの不在着信の文字にどきりとして、慌てて携帯を開いた。
愕然とする。
19時過ぎに三つの不在着信。
――全て雪乃からのもの。
送別会の最中で、気付かなかったんだ――。
さあっと血の気が引いて、あたしはその場に座り込んでしまった。