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結局雪乃と話が出来ないまま、あたしは仕事の最終日を迎えた。
雪乃は――どこに出かけることもなく、ほとんど自室にこもっている。
風邪をひいて調子が悪い、と、本人は言っているけれど……。
仕事のあるあたしと冬休み中である雪乃とは、起床時間もずれているせいで、なかなか顔を合わせる機会もなかった。あたしが仕事から帰ってきたときには雪乃は部屋にいて、訪ねても、「頭が痛いから」「具合が悪いから」と、ベッドで寝ていることもあって、深い話ができない状態だったのだ。
けれど、やんわりとした断り方はいつもと変わらない。
それに、父と母とも普通に接しているようだ。
食事も一緒にするし、顔を合わせていればいつものように会話も笑顔もあって。
あたし達家族と接しているときに、特別におかしなところはないのだ。
それでも――何かあったのは確か。態度に表していないだけ。
この間の様子は確実に普通ではなかったし、部屋にこもりきりなのもおかしい。
写真のことも、気になる。
明日からは、あたしは仕事もなく家にいるのだから、昼間の暖かい時間にでもゆっくり話をしたいと思った。
零のことを話したいのは山々だけれど、それよりも雪乃に何があったのかを訊くのが先。
零の話はそれからだ。
雪乃が不安定なまま、気持ちを煽るようなことはできない。
担当の取引先への電話が終わり、受話器を置いたところで、目の前にすうっとマグカップが差し出された。
芳ばしい香りがふわりと鼻先を擽る。
「どうぞ」
コーヒーの差し入れ主は、柔らかな笑顔の薫ちゃんだった。
「ありがとう」
「一息入れて下さい。あー、あとちょっとですねぇ、寂しいなぁ」
薫ちゃんの言葉に壁の時計を見ると、午後四時を過ぎたところだった。
隣で奈緒子が両腕を上げて伸びをしている。
「ホント、あとちょっとで今年の業務も終わりかぁ。どう、花音は終わりそう?」
「うん、あとちょっとだけ。荷物も纏めないとね」
「あたしももうすぐ終わるかな。薫ちゃんは?」
奈緒子は薫ちゃんからコーヒーを受け取りながら問う。
「あたしもあと少しで終わります。
あーあ。ホントに長瀬先輩がいなくなっちゃうなんて寂しいなぁ」
薫ちゃんは、溜め息と共に空になったトレーを抱き締めた。
小さな胸の痛みを感じつつ、あたしは薫ちゃんを見る。
「……ごめんね。ホントに色々迷惑かけちゃったよね……」
「え、そんな。迷惑ばっかりかけてたのはあたしですっ。
失敗ばっかりで、いつもフォロー入れてくれてたのって、長瀬先輩と佐藤先輩ですもん!」
片手をぱたぱたと動かして薫ちゃんが言う。
確かに失敗やミスも多かったけれど、あたしはいつもこの笑顔に救われていた。
憎めない可愛い後輩。
人懐っこくて、あたしと奈緒子のこと、入社当時からずっと慕ってくれて。
今ではあたしも頼りにしてるんだ。薫ちゃんのこと。
――薫ちゃんはあの日、夜遅くにメールをくれた。
『今日は勝手なことばかり言ってすみませんでした。
長瀬先輩の気持ちを考えずに自分の気持ちだけを押し付けてしまいました。
長瀬先輩のことは自分にとっては大切な存在。先輩……というより、お姉さんのような感じです。
だから幸せになって欲しいんです。
会社を辞めてもずっと仲良くして下さい。
そして新しい夢に向かって頑張って下さい。
応援しています。』
次の日、朝会うと、いつも通りの薫ちゃんだった。
啓人の件にはもう、全く触れなかった。
啓人も――。
あたしには、部下に対する変わらない態度だ。
啓人自身も忙しくて、社内での会話なんて殆ど無いに等しいし、まるで何事も無かったかのように過ごしている。
だけど彼女――藤下さんは、どうやらあれから仕事を休んでいるようだ。
あの次の日から、出社した時も見かけないけれど、業務中に一階へ下りたときにも受付に姿はない。
そのことについて、薫ちゃんは何も言わないけれど、奈緒子は「何かあったみたいで休んでるらしいよ」と言っていた。
それは、件が原因だろう。
あたしの、せい。
胸が痛みだす。
いたたまれない気持ちになって、あたしは思わず薫ちゃんの入れてくれたコーヒーに手を伸ばした。
口に含んだそれは苦みと熱さが身体に広がる。
「花音、電話だよ」
デスクの上の携帯電話が鳴っていた。
奈緒子に、出なよ、と促され、あたしはカップを置いて電話を手に取った。
「もしもし」
『花音さん?』
一瞬で分かる、声。
甘さに少し幼さを混ぜたその声に、あたしの心臓はどきりと動かされる。
つい今までの重たい気持ちが急激に軽くなる、好きな人の声――。
「――零……どうしたの?」
驚きながらも、あたしは口元に手を当てて小声で彼に問う。
業務中の私用電話の上、すぐ傍に奈緒子と薫ちゃんがいることでやきもきしていると、奈緒子はにっと笑んで、不思議そうな顔をして立つ薫ちゃんを仕事に戻るように促した。
『ごめん花音さん、仕事中に。
あのさ、今日、仕事終わったあとに会えないかな、って』
「え、今日? どうしたの急に」
『ちょっと色々あって……落ち込んでるから、花音さんの顔が見たいなー、なんて……』
その言葉に、どきりとまた大きく心臓が跳ねた。
顔が見たい、なんて。
そんな風に言われるの、嬉しいと思ってしまう。
だけど、落ち込んでる、なんてどうしたんだろう?
いつも明るい零だから、そんなことを言うなんて、余程な気がして心配になる。
「色々って、ねぇ、大丈夫?
あのね、実はね、今日送別会があって、遅くなりそうなんだけど、それでもいいかな」
『送別会?』
零が問い返したところで、するりとあたしの手の中から携帯が消えた。
奈緒子があたしの携帯を奪ったからだ。
「もしもしー? 零クン? 奈緒子でーす。
ダイジョーブ、花音は早めに上げさせるから。22時に新宿の東口まで迎えに来て」
「ああっ! ちょっと、奈緒子!」
信じられない!
奈緒子ってばあたしの携帯奪って零と話すなんて!
「奈緒子ってば、勝手に決めないでよ!」
今は業務中。大きな声もアクションも取れないから、なるべく小声で反論して、携帯を奪い返そうとした。
だけど、時既に遅し。奈緒子は電話を切っていた。
そしてあたしに「はい」と、もう音の無い携帯電話を渡してきた。
「約束しといたわよ。22時に東口ね」
にやりと奈緒子は笑んで見せる。
……もう。
勝手に約束して電話切るなんてありえる?
それに……。
「だって、あたしの送別会なのに、そんな時間に帰れるわけないじゃん。皆に失礼でしょ」
口を尖らせて反論する。
あたしだって、落ち込んでると言っている零に会わないなんてできないし、会いたいのは山々。
だけど自分の送別会を開いてもらって、先にその本人が帰るなんてできるわけがない。
「やーねぇ。奈緒子ちゃんに任せなさいっ。
会いたいって言われて会わないわけにはいかないでしょ?
しかもアンタ達、まだちゃんと付き合ってないんでしょ? 尚更だわ」
「それはそうだけど、でも」
あたしの言葉を遮るように、花音、と、奈緒子が言う。
「ねぇ、花音、もう少し自分のこと、考えていいよ。
何のための送別会? しかも部署のじゃないよ。仲間内だよ。
あたし達、仲間でしょ? 友達でしょ? 友達なら、何を優先する?」
友達のシアワセでしょ。
そう言う奈緒子に、あたしは二の句が継げなくなる。
胸の内に込み上げるのは、熱いモノ。
「いいから、もう、早く仕事して。定時までに終わらなくなるよ」
奈緒子は、しっしっと、追い払うような仕草をあたしに向かってすると、そのまま自分のデスクに向かい、すぐに真剣な顔つきに戻ってパソコンのキーボードを叩き始めた。
「……ありがと」
あたしは小さくそう言って、自分もデスクに向き直った。
何だか最後の日まで、奈緒子にはお世話になりっぱなしだ。
奈緒子も薫ちゃんも……大好き。
ありがとう。
それなのに、ごめんね。
本当のこと、言えなくて……。