39
啓人が部署に戻って来たのは、あたしより30分ほどあとだった。
あれから何を話したのだろうと、正直なところ気になった。
けれど訊けるはずがない。
あたしにそんな資格は欠片もないのだから。
啓人があたしのことを想ってしてくれたことを、あたしは踏み躙って。
その上、彼女も不安にさせている。
あたしのしていることは、間違ってる?
考えれば考えるほど、そんな気持ちで一杯になり、色んなことが心配になった。
それでもその日の業務は容赦なく忙しく、そんな雑念は頭から追い出して仕事に没頭するしかなかった。
夕方にようやくひと段落ついて、10分だけ休憩を貰い、さくらの勤める会社の人事部に電話をした。
さくらが担当の杉山さんに、先に話をつけてくれていたお陰で、話はスムーズに進んだ。
面接日は1月11日。履歴書とデザイン画を三枚用意して下さいとのことだった。
さっきのことで心中は不安定だったけれど、杉山さんと話をして事が進むと、やっぱりドキドキした。
新しいことへの挑戦――不安も沢山あるけれど、熱い何かが胸にふつふつと沸き上がってくるような感じだ。
就業時間を過ぎても気付いていなかった。
年末業務だけでなく、引き継ぎのための資料作成もまだ残っていたから。
時計を見たときには既に20時半を回っていた。部署内に残っている社員も数人になっている。
啓人の姿は見えなかったけれど、社内にはまだいるようで、彼のデスクの上には仕事の資料も鞄も置いてあった。
「今日はそろそろ切り上げて帰ろうか?」
隣の奈緒子が、椅子をしならせてあたしと薫ちゃんに言った。
「そうだね」
「……ですねぇ」
あたしが答えると、奈緒子の隣の席の薫ちゃんも同じような返答がきた。
だけど、いつもとは少し違うテンションだ。
疲れているのか、元気がない様子が見て取れた。
「薫ちゃん、いつものお腹空いたーじゃないの?」
奈緒子が軽口をたたいていると、先に仕事を片付けた中村くんが近づいてきた。よっ、と片手を上げて。
「お疲れー」
中村くんは大卒だから、年は二つ上だけど、あたしと奈緒子の同期だ。
最近こそ一緒に出かけなくなったけど、入社当初はそれこそ同期という仲で、よく皆でご飯を食べに行ったりお酒を呑みに行ったりした。
仲の良い、同期の男友達のひとりだ。
「なぁ、長瀬、送別会やろうって話してるんだけど、明後日か最終日にどう?」
「え? 送別会?」
「そそ。仲間内だけでさ」
「でも、勝手にこんなに急に辞めるんだし、この間人事異動のお祝いをして貰ったばかりだから……」
そんなの悪いからいいよ、と断ろうとすると、ぱんっと良い音をさせて腕を叩かれた。
「なーに言ってんだよ。俺ら仲間だろー? そんなこと言うなって」
なぁ? と、中村くんは、奈緒子と薫ちゃんに同意を求め、二人もそうそうと頷く。
中村くんは、あたしに微笑んでみせてから言った。
「そーゆーこと。で、みんな、どっちのが都合いい?」
「ありがと。あたしは、両日とも大丈夫」
「花音の送別会じゃあねー、どっちでも行くわよ」
あたしが答えると、奈緒子もいつもの調子で答えた。
けれど、薫ちゃんは俯いて黙ったままだった。
何か変だ。
さっき感じた違和感。いつもの薫ちゃんとはやっぱり少し違う。
「薫ちゃん?」
あたしと奈緒子は、二人同時そう声を掛けた。
薫ちゃんは、その声にびくりと反応するように肩を揺らし、顔を上げた。
「あー、すみませんっ。どっちでもいいですっ。ちょっと考えごとしてて、ぼーっとして……」
そう言って、いつもと変わらない笑顔を見せる。
中村くんは一度不思議そうな顔で薫ちゃんを見てから、あたしのほうを向く。
「じゃ、明日までにどうするか決めておくからさ。
で、お前らももう帰るんだろ? 遅いしどっかで食っていかね?
佐々木たちと飯食って帰ろー、って言ってたんだ」
「あー、もう遅いしそうする?」
奈緒子があたしと薫ちゃんに訊いた。
あたしがうんと言いかけたとき、薫ちゃんは首を横に振った。
「すみません……。あたし、今日は帰ります」
「え?」
「送別会には行きますからね。中村さん、よろしくお願いします」
今度は無理矢理に作ったであろうことが分かる笑顔をする。
どうしたんだろう?
いつもだったら真っ先に「行きます」って言うのに。
「ごめんね。あたしも帰る」
薫ちゃんを一人で帰らせて悠長にご飯なんて、気になって食べられない。
立ち上がったあたしを見て、奈緒子は察したような笑顔で中村くんに言った。
「女はあたし一人だけどいい?」
あたしと薫ちゃんは、すぐに帰り支度をして会社を後にした。
薫ちゃんの家は蒲田だから、あたしと帰る方向は一緒だ。電車の路線も同じ。
薫ちゃんの様子がおかしいのは、奈緒子も気付いている。
だから一緒に帰ってやれ、と言うことだ。
朝も昼休みもいつも通りの薫ちゃんだったのに、一体どうしたんだろう。
会社から最寄りの新宿駅に着くまでも、薫ちゃんは俯きがちで殆ど口を開かなかった。
「どうかしたの?」と訊いても「何でもないですよ」と苦笑いを見せるだけ。
新宿から品川までの山手線内でもぼんやりとしていた。
話しかけても一応は答えるけど、やっぱりどこか上の空。
品川駅に電車が到着し、あたしたちは乗り換えの京浜東北線に向かう。
その途中のコンコースで、薫ちゃんは突然、人波を逆らうようにぴたりと足を止めた。
「先輩、コーヒー飲んでいきませんか?」
あたしも足を止める。
帰宅を急ぐ大勢の人が、そこに立ち尽すあたし達をすり抜けるよう上手に避けていく。
「……うん。行こう」
あたしは薫ちゃんの左手を取り、京浜東北線のホームへと下る階段の前を通り過ぎて、駅構内のコーヒーショップへと向かった。
店内はこの時間なのに混み合っていた。
あたしは薫ちゃんを先に空いていた二人席に座らせ、コーヒーを買いに行った。
薫ちゃんの好きなキャラメルマキアートと自分の分のラテを持って席に戻る。
俯いたままの顔は、テーブルにカップが置かれるとゆっくりと上がった。
「……すみません。いただきます」
「どうぞ」
薫ちゃんは両手を添えた白いカップに静かに口付ける。
小さく口内に含んだあと、テーブルの同じ位置に戻し、あたしの顔をじっと見つめた。
「ねぇ、どうしたの?」
あたしは自分のラテは口にしないまま、薫ちゃんを見つめ返した。
今にも泣き出しそうな顔をしている。
「先輩」
薫ちゃんは、ようやく口を開いた。
あたしは、静かに薫ちゃんの言葉を待つ。
「先輩だったんですね……課長の元カノって……」
「え?」
「今まで全然、知りませんでした……」
答えないままでいると、薫ちゃんは続けた。
「こんなこと、あたしの言うことじゃないのかなとも思ったんですけど……でもやっぱり我慢できないです」
薫ちゃんは辛そうな瞳を見せる。
そして、ぎゅっと口を一文字に結んでから言った。
「受付の藤下さんの後輩、あたしの同期なんですよ。
だから、藤下さんが課長のことを脅して結婚することも、課長のお母様が病気だってことも、知ってたんです」
合点がいった。
だから忘年会のときに言ってたんだ。
「今迄、課長の彼女が先輩だなんて知らなかったから、ひとごとのように思ってました。
さっき――夕方に休憩室でその子に会って……今日のことも聞いたんです。
先輩が会社辞めるってことで揉めたみたいですね。藤下さん、もう今日ボロボロらしくて……」
薫ちゃんは視線を落とし、声のトーンも落とす。
そしてもう一度、「先輩」と、あたしの目を見る。
「ねぇ、先輩、分かってます? あたしにとって、先輩は大好きな人なんですよ?
何で先輩が課長と別れなきゃいけないの?
何で課長も先輩もお互いに好きなのに、こんな風になっちゃうの?
先輩はそれでいいんですか!?」
「ちょ……っ、ちょっと待ってよ、薫ちゃん」
「あたしはそんなの嫌ですよっ!」
薫ちゃんの綺麗に整えられた眉の形が歪んだかと思うと、とうとう瞳に涙が滲み出す。
「課長は先輩のこと、好きなんですよ! 先輩だって無理矢理別れさせられたんでしょ?
知ってますよ、専務が最初にクビにするって言ったんだってことも。
それを守る為に、課長が先輩をマーケティング部に人事異動させるって、結婚の条件出したことも。
それに、課長が藤下さんに愛がない結婚でもいいのかって、先輩のことを愛してるからって言って、それでも藤下さんがその言葉をのんだってことも!」
――え?
何、それ……?
「そんな結婚が幸せなわけがないじゃないですか! 課長は長瀬先輩のことを愛してるんですよ?
先輩は、課長と一緒に頑張ろうって思わないんですか!?
藤下さんだって、それを分かってるから、結婚が決まったって精神的にはボロボロなんですよ。
あたし嫌ですよ。こんなの聞いて、黙っていられないです。先輩には幸せになってもらいたいです。
何で先輩が会社を辞めなきゃならないの? 何で別れさせられるの? おかしいですよ、絶対」
堰を切ったかのように話した薫ちゃんは、そこまで言うと大きく息を吐いた。
そして、さっきから殆ど減っていないコーヒーカップの中を見つめる。
あたしは一度軽く瞼を閉じてから、薫ちゃんと同じようにテーブルの上の黒い液体をぼんやりと見た。
彼女があんなに不安になってた理由――。
それは、啓人に愛がないって言われたからだったの……。
あたしのことを愛してる――そんなことを啓人が言ったなんて。
胸が重たくて苦しい。
でももう、どうにもできない。
啓人はこんなにあたしのことを大事に思っていてくれたのに。
それなのに、きちんと信じられなかった上に、すぐに他の人を好きになるなんて。
あたしって、本当に最低だ。
皆を傷付けてる。
雪乃だけじゃない。
啓人のことも、彼女のことも。
零のことだって……。
あたしは、ゆっくりとカップから視線を上げ、薫ちゃんの顔を見つめた。
「ごめんね、薫ちゃん……。あたし達、もう終わったの。会社も、それが原因で辞めるわけじゃないの」
俯いていた薫ちゃんの顔も上がる。
「ごめんね、いっぱい心配掛けちゃったね」
薫ちゃんは、目を大きく開いたまま、顔を横に振る。
「……先輩は……あたしの話を聞いても、課長のこと、そんなに簡単に諦めるんですか?」
その言葉にずきりと胸が大きく痛む。
けど……。
「もう、彼に恋愛感情はないの。それに結婚は、彼が選択したことだから」
あたしは薫ちゃんにハッキリとそう言った。
だけど苦しくて胸が痛くて仕方なかった。
それは自分自身にも言い聞かせているようだった。
――『彼の選択』
彼自身が本当にそれを望んでいるわけじゃないのに。
薫ちゃんは眉を寄せ、唇を噛む。
「……すみません。あたし……勝手過ぎですよね。そんなの本人しか分からないことなのに。
本当にごめんなさい。勝手なことばっかり言って……でも……」
知らないまま別れてほしくなかった、と――。
薫ちゃんがそう言ってまた俯いたかと思うと、テーブルの上にぽたぽたと涙の輪が落ちたのが見えた。