38
結局昨日は、雪乃と話が出来ないままになってしまった。
何がどうしたんだろうと心配だったけれど、それさえ訊くことが出来なくて……。
あの写真に、何の意味があったのだろう?
雪乃は、もう冬休みに入っている。
家で一日ゆっくりしたら、少しは落ち着いているかもしれない。
今日の夜は、話が出来るかな……。
「どういうことだね?」
部長は、理解出来ない顔つきで言った。
あたしは、真正面から深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありません」
「どうしてなんだ……本気で言ってるのか?」
「……本当に、申し訳ありません」
とにかく頭を下げるしか出来なかった。
既に始業している部署内もざわめいている。
当然だ。冬休み間近のこんな時期に。
しかもマーケティング部という、女子社員の憧れの部署への異動が迫っている中で辞表を提出するなんて、普通なら有り得ないだろう。
「確かに、異動の話は唐突すぎたと思う。もう少し、じっくりと考えてきたらどうだね?
取りあえず、これは返しておこう」
あたしを静めるように、部長は優しい口調と顔つきで言い、デスクの上の辞表を差し戻した。
あたしは首を横に振った。
「いえ。異動する前にハッキリするべきだと思いましたので。
どうか、処理をお願いします」
そう言いながら頭を下げると、上から大袈裟な溜め息が聞こえた。
「どうしても、なのか?」
部長は困ったように再度あたしに問う。
「はい。後悔はないです。
ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありません」
「そうか……残念だよ。君の決意が固いなら仕方ないが……。
人事部にはすぐに回すけど、どうかなぁ。一月から部署が変わる予定だったんだから、辞める気なら来月行っても意味ないしなぁ。年内で辞められるのかどうか……。けど、年内もあと数日しかないしなぁ……年内で辞められる可能性の方が高いか……」
うーん、と、部長は腕を組んで考え込む。
「その辺確認してみるよ。辞めるなら最低でも一か月前には言ってもらうべきだが、今回の人事異動も、確かにあまりにも突然すぎたからなぁ……」
あたしは、そう言ってくれた人の良い上司に感謝しながら、再度深く頭を下げた。
部長の隣のデスクの啓人が、こちらに視線を注いでいるのにも気が付いていた。
あたしは一度顔を上げてから、啓人――課長にも頭を下げて、自分のデスクに戻った。
席に着くなり、奈緒子が「ねぇ」と、隣から指で突いてくる。
「辞めるって、急にどういうこと?
やっぱり同じ会社にいるのはキツイから?」
あたしは苦笑しながら奈緒子に首を振ってみせる。
「ううん、違うの。やりたいこと、見つけたの。
ゴメンね、相談もしないで。後で話すね、全部。
それにゴメンね、引き継ぎとかもお願いしなきゃならないし……。
大変でしょ、忙しいのに」
「それは全然いいんだけどさ……」
奈緒子は心配そうな顔をする。
その視線を受けながら、あたしはデスクのパソコンに対峙した。
ごめんね、奈緒子。
心配も、迷惑も、掛けてばかり。
でもいつも助けてくれる奈緒子には、ただただ感謝してる。
年内の終業まで、今日を入れてもあと四日しかない。
今日退職届を出して、年内に受理してもらえるのか。
けれど、来月からほんの少しの間だけマーケティング部にいても、意味を成さない。
自分でも、常識外れで勝手な辞め方だとは思う。
でも、このまま来年からマーケティング部に異動なんて、どうしても出来ない。
年内で辞めることになると、ひどく急で、残りの時間も少ない。
あと四日でここを去らないといけないのかと思うと、やっぱり淋しさが込み上げる。
四年近くも働いたこの会社――想い出だって沢山ある。
もちろん、辞めることの不安も。
昼休みには、奈緒子は自分の北海道の話なんて一つもせずに、あたしの話を聞いてくれた。
ジュエリーデザイナーになりたいと言ったあたしに、当然驚いていたけれど、「花音に似合うよ。頑張ってね」と言ってくれた。
会社を辞めることについても、反対はなかった。
零のことも、「やっぱり好きなんじゃん」と、からかいながらも、嬉しそうな笑みを浮かべて応援の言葉をくれた。
だけど、啓人のお母さんのことは、奈緒子にも言えなかった。
今の状態だと、奈緒子は啓人のことを悪く思っているだろうけど、他人の家庭の深い事情を勝手に話すことには抵抗があった。
そして、昼休みのあと。
あたしがデスクに戻るなり、目の前に部長が立った。
笑顔の印象しかない部長が、険しい顔つきをして。
「専務が君に直々に話があるそうだ。今すぐに専務室へ行ってくれ」
――専務。
あたしをマーケティング部に人事異動させた張本人。
異動させてやった人間が異動前に会社を辞めるなんて、当然良い気分ではないだろう。
部長は専務に何か言われたのかもしれない。
あたしは、はい、とだけ答える。
部長は顔つきを変えずに、静かに自分のデスクに戻り、何事もなかったかのように仕事を始めた。
部長に一礼して、あたしは営業部を出た。
言われた通り、専務室に向かうために、エレベーターに乗り込む。
ひとりきりの箱の中の一番大きな数字のボタンを押してドアを閉じた。
最上階は、重役達の部屋が並ぶフロアーだ。
もちろん、あたしにとっては、入社してから初めて行く場所。
電子音が響き、ドアが再度開くと、その先はシンと静まり返っていた。
誰もいない廊下は階下と雰囲気は異なっている。
その静けさが緊張感を高めるように重圧をかけてくる。
専務室なんて、足を踏み入れる以前にドアの目の前にさえ立ったこともない。
あたしは、端からドアのプレートをひとつひとつ確認して先へと進んだ。
いくつめかのドアにその文字を見つけると、心臓が大きく脈打った。
大きな不安と緊張が走る。
けれど、ここで引き返すわけにもいかず、あたしは深呼吸をしてからドアをノックした。
コンコンと、ふたつ。
そしてまたもうひとつ大きく息を吸う。
「長瀬花音です」
「入りなさい」
低い声が答えると、あたしがドアノブに手を掛ける前にそのドアは開かれた。
秘書らしき黒のスーツを着た綺麗な女性があたしの目の前に立っていて、「どうぞ」と中に入るよう促された。
「失礼します」
思っていたよりも、室内は広くはなかった。
けれど、来客用の黒いソファーとテーブルは高級感があって、落ち着いた雰囲気はいかにも重役の部屋だと感じる。
入口から真正面の一番奥には窓があり、その前にあるデスクの黒い椅子に、専務は渋い顔をしながら座っていた。
専務が秘書の女性に目配せすると、彼女は一礼してすぐに部屋を出て行った。
あたしは頭を下げると専務の前に歩み出た。
すると、ふっ、と専務は、歪んだ笑顔を見せた。
「辞表、出したんだって?」
予想していた質問が、いきなり直球できた。
緊張と恐れおおさで心臓のあたりが痛い。
けれど、あたしは専務の目をまっすぐ見た。
「はい」
はっきりと答えると、専務は、ふふふっと不敵な声を上げて笑う。
「君は分かってないねぇ」
分かってない?
その真の意味が理解できないまま、あたしは頭を下げた。
「せっかくのご厚意を無にしてしまい、申し訳ありません」
大きな溜め息が聞こえた。
顔を上げると、専務は苛立ちを見せつけるように、デスクの上を右の中指でトントンと叩き始めた。
眼鏡の奥の目が、ぎろりとあたしを鋭く睨みつける。
「森くんと君の、以前の関係は知っているから」
「……はい」
「辞めたいなら辞めさせてあげるよ、すぐにね。
年内で退社できるように指示しておく」
「……はい」
部屋に響いていたデスクを叩く音がぴたりと止んだかと思うと、椅子が軋みを上げ、専務は殊更ゆっくり腕を組んだ。
「彼にはもう二度と近づかないでくれよ。辞めるなら尚更だ。綺麗さっぱり忘れてくれ」
「もう私達はそんな関係ではありませんから、心配はご無用です」
答えたあたしに、明らかに嫌悪感のある視線が注がれた。
剥き出しの感情を受けることは、怖い。
けど、もう私達は本当に終わったんだし、やましいことなんて、何もない。
「下がりなさい」
冷ややかな専務の声が、室内に響いた。
「……はい。今迄大変お世話になりました」
失礼します、と、あたしは深く一礼してから踵を返した。
部屋を出るまでの短い距離は随分と長く感じ、足が縺れそうだった。
圧迫と緊張は専務室を出るまで続いて、ドアを閉めるなり一気に脱力感が襲った。
すぐ横の壁に凭れかかり、大きな息を吐く。
頭をこつんと壁に付ける。
「花音」
突然の声に振り向くと、そこには啓人が立っていた。
驚いた。
あたしと同じように壁に凭れかかっていて。
……もしかして、待ってた、とか?
「どう、したの……?」
あたしは壁から離れ、啓人の傍に近づいて行った。
啓人も壁から背中を離して、あたしに近づいてくる。
お互いに少し手前で足を止めて顔を見合った。
「会社、辞めるのか?」
「うん……ごめんね……」
「お前が謝るなよ。
専務に何か言われたのか?」
啓人は心配そうに顔を歪ませる。
あたしは首を横に振った。
「ただ、年内で辞めさせてくれる、ってだけ。それだけだよ」
そう言うと、「そうか」と、啓人は小さな息を吐いた。
「会社を辞めるまでに追い込んだのは俺だ。ゴメン……」
大きな身体が二つ折りにされた。
あたしの目線よりもずっと低く。
「やめて、啓人。違うの。会社を辞めるのは啓人のせいじゃないよ。
確かにある意味きっかけにはなったけど、それが大きな原因じゃないの。
あたし、やりたいことを見つけたの。だから会社辞めるの。啓人のせいなんかじゃ、ない」
あたしは啓人の左腕を取り、顔を上げるように促した。
ゆっくりと啓人は顔を上げた。
少しだけ険しさを緩和させて。
「……やりたいこと?」
「うん。ジュエリーデザイナーになりたいなって。出来るかもなれるかも分からないけど。
ほら、あたし、ああいうの好きでしょ?
だから、啓人のせいなんかじゃないんだよ」
「そうか……やりたいこと……」
啓人は少し驚いたような、安心したような、そんな顔をした。
あたしもその顔を見て、ほっとして微笑んだ。
「何やってんのよ!」
突然、廊下に高い女の人の怒声が響いた。
驚いて二人でその声のする方へ振り向くと、そこには顔を歪ませた藤下優香がいた。
廊下の向こうから、カツカツとヒールの音を響かせながらこちらにやってくる。
そして、あたしの目の前で立ち止まると、大きな目でぎろりと睨み上げてきた。
「こんな所で、何で二人でいるわけっ!?」
「あの、っ」
「優香、やめろ。花音は専務に呼ばれただけだ」
啓人が彼女の腕を掴んだ。
けれど、彼女はそれを振り払う。
その大きな動作で華奢な綺麗な手の先にキラリと指輪が光ったのが見え、次の瞬間にはあたしの左頬に痛みが走った。
「そんなこと知ってるわよっ! 生意気よ、会社辞めるなんて!
アンタなんて、本当は最初っからクビの筈だったんだから!
分かってんの!? クビの筈のアンタが、マーケティング部に異動なんてっ!
アンタどこまで啓人に甘えてるのよ! もう近付かないでよっ!」
――えっ!?
「優香っ!」
啓人が彼女の両腕を掴んで止めた。
あたしは叩かれた左頬に手を当てることも出来ず、ただ彼女の顔を見つめた。
彼女の丸い瞳が滲み出し、みるみる涙が溜まって、それは零れ落ちた。
あたしを睨みながら、大きな涙の粒がぽたぽたと頬を伝って床へと滴り落ちてゆく。
細い肩は小刻みに震えていて、啓人の支えがないと今にも崩れそうで。
あたしが茫然としていると専務室のドアが開いた。
専務が彼女の大きな声に気が付いたようだった。
「優香、何やってるんだ」
「パパ……だって……」
「だってじゃないだろう。森くん、どういうことだね?
とにかく、中に入りなさい」
「申し訳ありません」
啓人が頭を下げると、専務は啓人と彼女の背中を押して専務室の中に入る様に促した。
そしてあたしの方に険しい視線を向ける。
「長瀬くんは早く部署に戻りなさい」
冷然とした口調であたしに言い放った。
あたしは専務に一礼してから体の向きを変え、エレベーターに向かう廊下を一人で歩き始めた。
一瞬にして静寂を取り戻した廊下に、あたし一人分の歩くヒールの音が響き、後ろの方で専務室のドアがバタンと大きな音を立てて閉じられた。
あたしは、足を動かしながら頭を巡らせた。
――クビの筈のあたしがマーケティング部に……。
啓人に甘えてる、って……。
それはやっぱり啓人との以前の関係が原因でクビになる筈で……
クビにならずにマーケティング部へ異動する、ということは……。
啓人の、彼女との結婚の条件の一つだったの?
啓人がそうさせた?
頬を叩かれた痛みよりも、胸を握りつぶされたように苦しくなって、あたしは唇を噛み締めた。