36
三島家のインターフォンを押すと、ほどなくして勢いよく玄関ドアが開かれ、そこからつばきの笑顔が飛び出してくる。
「花音ちゃーん! 久し振り! 元気だったぁ?」
いきなり抱きしめられたけれど、それがつばきらしかった。
柔らかく女の子らしい身体と香りに包まれて、あたしは何だか温かい気持ちになる。
「元気だよー。
つばきも元気そうだね」
ぽんぽんと腰のあたりを軽く叩くと、ぎゅうぎゅうに締め付けていた腕が緩む。
「うん、元気! 元気!」
猫みたいな人懐っこい顔で、つばきはあたしに微笑んだ。
その顔を見て、一瞬にして以前よりもずっとつばきが落ち着いたのだと思った。
最後に会ったのは確か一年くらい前で、そのとき、つばきはまだ高校三年生だった。
金色に染めた髪。目元をぐるりと囲った濃いアイメイクと、グレーのカラーコンタクト。
いわゆるギャルメイクで、服装も派手だったのに。
今目の前にいるつばきは、落ち着いたブラウンの髪と、美肌を意識したナチュラルなメイクだ。
当時、つばきの生活は荒れていた。
いつも違う男の子を連れて遊んでばかりで、家には殆ど帰らず、学校にきちんと行っているのかも不明で、さくらはいつも心配していた。
――しっかり者のさくらと相対するつばき。
さくらの家は複雑な母子家庭だ。
母親は銀座の高級クラブのママで、地位と名声と金のある人の愛人だと、さくらから聞いたことがある。
さくらが中学生になった頃から、さくらママは、その男の人が借りているマンションにいくことのほうが多く、家に帰ってくることは少なかったそうだ。
十年来の付き合いのあたしも、さくらママと顔を合わせたことは少ない。
家のことは、さくらが殆どひとりでやっていて、まだ小さかったつばきの面倒も、さくらが見ていたに等しかった。
金銭面での苦労はなくとも、二人の精神的な影響はとても大きかったはずだ。
さくらが「あんなヤツ、母親じゃない」と、よくこぼしていたのを覚えている。
「つばき、随分と大人っぽくなったね」
あたしがそう言うと、つばきは嬉しそうにニィと笑った。
「そうでしょ? あんまり馬鹿ばっかやってられないしね。
ね、上がって上がって! 今日はね、うちがご飯作ったから!
お姉ちゃんも、もう帰ってくると思うよ」
ちょっと驚いた。
以前はさくらに任せきりで、つばきは家のことを全く何もやらなかったから。
「つばきがご飯作ってくれたの?」
「そーだよぉ。
今はさ、ほら、彼氏と同棲してるからさ、少しは出来るようになったの」
「そっかー。じゃあ楽しみだな」
こんな風につばきが落ち着いたのも、きっと彼氏の影響なんだろうな。
玄関の段差に腰掛けてブーツを脱ぎ始めると、目の前のドアが開いた。
「あー! お帰り、さくら!」
「ただいまぁ。
花音、ちょうど来たとこ? ナイスタイミング。
つばきももう帰ってたんだ?」
「うん。もう夕飯作ってあるよ。
早く上がってー」
「つばきのご飯なんて初めてだよ。
ちゃんと食べられる物出来た?」
さくらは冗談交じりに言ってあたしの横に腰掛けた。
二人並んで座っても、随分と余裕がある。
広い玄関ホールの床に敷き詰められた黒いタイルは大理石だ。
白い大きな両開きのドア。
壁際に沿って天井まであるシューズクローゼット。
この広い家に、今はさくら一人で過ごしているんだから、淋しいよね、きっと。
「おねえは相変わらず失礼だなぁ。
うちのご馳走見たらビックリするからっ」
「へー、それはそれは」
「どーせ、いつもひとりで、ろくなモノしか食べてないんでしょー」
「あらら、つばきちゃんてば、毎日彼氏に余程いいもの食べさせてるのねぇ」
さくらとつばきのやりとりは、お互いに憎まれ口を叩きながらも楽しそうだ。
それは、いつもは離れていても、姉妹独特のもの。
さくらのこんな笑顔は久し振りに見る。
つばきが帰ってきたことが、きっと本当はとても嬉しいんだろう。
ふと、零のことが思い出される。
零もあの大きな家に、たったひとりで住んでる。
今、お母さんが帰ってきて、久しぶりに家族のいる家なんだろうな……。
「誕生日おめでとう!」
グラスに注がれたばかりの金色の液体を傾け、乾杯する。
チン、と、高級なガラスの澄んだ音三つ重なった。
「ありがとう」
二人にお礼を言ってから、グラスに口づけた。
アルコールと炭酸の刺激が喉元を熱く通り過ぎていく。
大きなダイニングテーブルの上には、つばきの作った沢山の料理とホールケーキの箱、洒落たシャンパンの瓶。
「これ、二人からの誕生日プレゼント」
さくらがあたしに、黒地に白いロゴの入った上品な小さな紙袋を差し出してきた。
一目見て、さくらのお店の物だと分かった。
「わあっ、ありがとう!」
「ね、開けて、開けて」
二人に促されて、紙袋の中から綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出す。
それを丁寧に解き、中の丸いボックスの蓋を外すと、小さなパールがいくつも連なったピアスが入っていた。
「可愛いっ! すっごく嬉しい!」
あたしは箱の中からピアスを取り出して、掌に載せてみせた。
縦に沢山並んだパールは淡水パールで、部屋の照明を受けて虹色の光を放ちながら、しゃらしゃらと揺れる。
「これね、今お店で一番人気なんだ。
クリスマス商戦用のだったの。可愛いでしょ?
花音が好きそうだなーって、入荷してきたときから思ってて、キープしといたの、ね?」
「そ。花音ちゃんに似合うよ」
さくらとつばきは、うんうんと、顔を見合わせる。
「二人ともありがとう!
ピアスっていくつあっても嬉しいし、これ、すっごくあたし好み!
実は、雪乃にも昨日、ピアス貰ったんだ。
今日、着けてるんだけど……」
二人に見せようと右耳に手を当てたけれど、指先にピアスの感触がない。
あれ、と、左も確認すると、そちらにはピアスの感触があった。
慌ててもう一度右耳を何度も触ってみるけれど、やはりない。
「あ、片方ないよ」
つばきがあたしの耳元を覗き込むようにして言った。
「もしかして、落としちゃったのかな?」
さくらが察したように心配そうな顔で言った。
せっかく今、プレゼントを貰って、喜んでいたばかりなのに。
いきなり皆顔つきが暗くなる。
「きっと、着替えるときに落としたんだと思う。
ほら、今日の服、頭からかぶるやつだし。家に帰ったら探してみるね。
ご飯、食べよ。冷めちゃうし。これ、めちゃめちゃ美味しそう!」
祝ってくれた雰囲気を壊したくなくて、あたしはそう言ってつばきの料理に箸を伸ばした。
本当に家に落ちてればいいんだけど。
雪乃がくれたのに、もし見つからなかったらどうしよう……。
不安な気持ちを隠してパスタを口に入れた。
にんにくとトマトの濃厚な味が舌の上に広がった。
「わ。トマト、ちゃんと使ってるんだね。
すごーい、本格的じゃん」
厚切りのベーコンとなすの入ったトマトのパスタは、生トマトを使ってある。
少し冷めてしまっているけれど、それでも素材がきちんと活きていている。
「うん、うん、凄く美味しいよ!」
「ホントっ?」
「ホント、ホント」
ね? と、さくらにも同意を求めると、うん、と頷く。
「つばきがこんなに料理が出来るようになってるとは、驚いた。
うん、美味しいよ」
「マジでぇ?
あー、良かったぁ」
つばきはホッとしたように笑った。
あたしにとって、つばきは第二の妹みたいな存在だし、小さい頃からどんな生活を送ってきたか知っているから、こんな風に成長したつばきを見られて正直に嬉しかった。
「つばき、ホントに凄い。
こっちのサラダも美味しい!」
「でしょ、でしょっ?
つばきオリジナルドレッシングだよん」
再度つばきは嬉しそうに微笑む。
まだ少し幼さの残る笑顔。
その笑顔と、雪乃の顔がダブって見えた。
こんなに可愛い笑顔を曇らせるようなことを、あたしはしなくちゃならない……。
昨日の零とのことをさくらに話したかったけれど、つばきもいるし、到底話せる状況ではなかった。
食事をしながら、あたしは当初から相談したかった転職のことを口にした。
「あたし、会社辞めることにしたの。
昨日辞表も書いたんだ。明日提出するつもり」
そう言うと、つばきは手と口を止めて「えっ、嘘!?」と目を丸くしながら大きな声を上げた。
さくらは黙っていた。
あたしは続けた。
「それで……さくらがこの間言ってたじゃない? 好きなことやれば、って。
ジュエリーデザイナーを目指そうかなって思って、学校探してるんだ」
すごーい、と言うつばきの横でさくらは、少しだけ驚いた表情を見せたあとに、にやりと唇の端を上げた。
「あたしは賛成だよ。
だけど、学校には行かなくてもいいんじゃない?」
「え? 何で?」
「今、ウチの会社、デザイナー募集してるよ。
この間言ったでしょ? セカンドラインのブランドの立ち上げするって。
それ、受けてみれば?」
「受けてみればって……そんなこと出来るの?
あたし経験者じゃないよ」
「平気よ。未経験ならどうせアシスタントからだし。企業のデザイナーなんてそんなもんよ。
デザイナーって感性が一番大事だから、経験者じゃなくても知識がなくても、入ってからアシスタントとして徐々に仕事を覚えていくから大丈夫よ。
そっちの方が、ずっと学校に行くより手っ取り早いわよ。現場と学校って結局は違うし、会社によってやり方も違うしね。
そりゃあ経験者の方が有利には間違いないけど。
でもね、要は好きでやりたいって気持ちが大事」
「そう、なの……?」
「来月の初めくらいに確か面接だったと思う。
一応本社に訊いておくね。花音からも自分から会社に電話して確認して。
受ける気なら、デザイン画もいくつか用意しなきゃね。
今からだと――夏物だね。二月には夏展があるから」
「うんっ。教えてくれてありがとう!
電話してみるね!」
答えながら、身体の奥の方から熱くなってくる。
脈拍も上がり、ドキドキと興奮が入り混じる。
未経験のあたしが、無謀かもしれないし、受かる確率はきっと低い。
それでも、チャンスがあるのなら受けてみたい。
今までのあたしだったら、そこで『あたしなんてきっと無理』と諦めていた。
でも、今は違う。
少しの可能性でも信じたいし、チャレンジしてみたい。
「花音ちゃん、何だか少し変わったみたい。
ちょっとビックリしちゃった。何かしっかりした感じ」
つばきは、長いスパゲティの麺をフォークにくるくるっと巻きつける仕草をしながら、感心したように言った。
「そ、そーかな?」
「あたしもそう思う。
まぁ、転職に関して嗾けたのはあたしだけど。それでも芯が出来たっていうか。
やっぱり彼の影響なの? 昨日はもしかして、会った?」
さくらはグラスに手酌でシャンパンを注ぎながら、あたしに訊いた。
なみなみとグラスに気泡を立てた液体が注がれると、見透かしたかのような瞳であたしを見つめた。
どきっとした。
言わなくても分かっちゃうなんて、やっぱり付き合いが長いだけある。
「う、ん……ゴメン……」
「あたしに謝る必要はないんじゃない?
まあ、止めてもこんなことになるような気がしてたしね」
「えっ?
花音ちゃん、あの会社の……課長さんだっけ? あの彼氏じゃなくて?
何? 何っ?」
あたしとさくらの会話に、つばきは興味津々に身を乗り出した。
「トシシタのオトコ」
と、あたしが答える前にさくらが、にやりと口元を上げてつばきに言った。
その言われ方って、何だか恥ずかしい。
……さくらの意地悪。
多分、顔も赤い。
一気に酔いが回った感じに身体が火照る。
思わず、目の前のグラスの中身を一気に飲み干した。
「へぇー、花音ちゃんやるねぇ。
年下かぁ。いいんじゃない?」
「まだ付き合ってるわけじゃないし……」
あたしが小さく口を尖らせて言うと、つばきは更に興味津々に「どんな人? 何コ下?」と訊いてくる。
あたしが困っていると、さくらがニヤニヤしながら答えた。
「イケメンなんだよねー?
えーと、零クンだっけ?」
「もう! さくらってば!」
少し怒った口調でさくらを咎めた。
酔ってるみたいだし、何だか楽しんでるしっ。
この間の口調からは、絶対に反対されると思ってたのに。
あたしが「もうっ」と、口を膨らませてシャンパンの瓶に手を伸ばすと、少し驚いている表情のつばきに気が付いた。
「つばき、どうかした?」
「えー……や……『レイ』って言うから、ちょっとビックリした。
偶然、か。そーだよね」
「え? 何?」
「んー、昨日の遅くに雪乃を見かけたの。
えっと、1時過ぎてたな。表参道で。うちは彼氏と車だったんだけど。
それが……雪乃と一緒にいたのが、あたしの知ってる零ってオトコだったから。
名前が一緒だったから、ちょっとびっくりしただけ」
心臓がドクンと大きく動く。
雪乃と零?
言葉が出ないでいると、さくらが鋭い視線で一度ちらりとこちらを見てから、あたしのかわりにつばきに訊いた。
「雪乃と一緒だった男って、何でアンタが知ってるの?」
「ああ。ソイツ、うちらの年代じゃ有名人だし。
うちが常連で行ってたクラブに向こうもよく来てたし、知り合いだよ。
零の友達の龍司ってヤツ、うち、昔ちょっと付き合ってたこともあるし。
そういえば雪乃って、今アイツらと同じガッコなんだっけ?
昨日見かけて驚いたんだけど、まさか、付き合ってるとかじゃないよね?
雪乃、大丈夫か? 零は、雪乃の手に負えるヤツじゃないよ」
眉を寄せながらつばきがあたしに言った。
――『雪乃の手に負えるヤツじゃない』
つばきの言葉が頭に反響する。
「わか、ん、ないけど……。何で?」
そう訊くのは雪乃のためじゃない。
自分のため。
ズルイ。あたしは……。
「恋愛ってやつを知らないオトコだから」
つばきはきっぱりとした口調で言った。
「知らない、って?」
「ちゃんと恋をしたことがないよ。女の子はアイツにとって、捌け口みたいなモン。
アイツ、家庭環境複雑だから……母親と色々あって……。
その事情は龍司から聞いて知ってるけど、マトモな恋愛できない体質なんだよ。
うち、自分がそうだったから分かっちゃうんだよね、アイツのこと。
うちも、マトモな恋愛なんてしたことなかった。だけど今やっと本当に好きな人が出来た。零にとって雪乃がそうであれば反対しないけど。
女にだらしない以外は凄くいいヤツだし……」
ちゃんと恋をしたことがない?
捌け口?
家庭環境?
恋愛出来ない体質?
ずっしりと胸に何かが覆い被さったようだった。
正直、物凄くショックで。
あたしは、本当に何も知らないんだ――零のこと。
だけどそれを聞いたからといって、嫌いになんかなれるわけがない。
零があたしに、全て嘘を吐いているなんて到底思えないから。
今まであたしにしてきてくれたこと。
昨日の告白。
零がどれだけあたしのことを考えくれて、どれだけあたしを大事にしてくれたのかも、もう知ってしまったから。
零の、初めての恋の相手が、もしあたしなら……。
あたしは彼のことを大事にしたい。
今会って、出来ることなら抱きしめたい。
「花音ちゃん?」
「……え?」
「ゴメン。雪乃のこと、気になっちゃった?」
つばきの言葉に顔を上げると、さくらが「涙」とあたしの頬を指差した。
涙が頬を伝っていた。
自分でも気付かないうちに。
「ご、ごめん、何でもない」
慌ててそれを右手で拭った。
「花音ちゃん、ゴメン、うちが変なこと言っちゃったね。
でも雪乃、昔、あんなことがあったから気になって……。
あー、でもさ、付き合ってるかどうかだって分かんないしね!
泣かないでよ、花音ちゃん! 心配させるようなこと言って、ゴメンって」
つばきはフォローするように言い、あたしはそれに対して黙って首を横に振った。
これは雪乃への心配の涙じゃない。
雪乃は、待っていることが出来なくて、零に会いに行ったのかもしれない。
罪悪感で胸が締め付けられた。
それを察したかのように、さくらが「ケーキ食べようか?」とテーブルの上のケーキの箱を開けた。
中から出てきた12cmの小さな生クリームのホールケーキ。
あたしも大好きな有名店の。
だけど、もうそのあとに食べたモノの味なんて、全く分からなかった。
あたしは、22時頃に三島家を出た。
家までの徒歩10分の距離。静かな道に、あたしひとりの靴音が響いた。
手袋をしていない冷えた両手に、はぁ、と温かい息を吹き掛け、白い息が暗い夜空に上がっていく様を見つめながら、ぼんやりと色んなことを考えた。
自宅に着くと、玄関の中には雪乃の履いて行った靴はなかった。
まだ帰っていないんだ、と心配になった。
玄関先でブーツを脱ぎ終わったところで、外で話し声が聞こえてきた。
――雪乃の声。
ちょうど帰ってきたんだ。
誰かと一緒みたい。
これから顔を合わせて話をすることに、緊張でドキドキと心臓が動き出した。