35
深夜から辞表を書き始めたあたしは、遅い朝を迎えた。
ベッドの上から時計を見ると、既に11時を回っていた。
簡単に着替えてから部屋を出て、雪乃の部屋の前で一度立ち止まったけれど、中に誰かいる気配はなかった。
階段を降り、その途中、上から玄関を見渡した。
雪乃の履いていったあたしのパンプスがたたきにないことは、そこからでも分かった。
まだ帰ってないんだ……。
何からどうやって説明して話したらいいのか悩んでいるあたしにとって、それは微妙な心境だった。
話さなくちゃ、話したい、という気持ちは大きいけれど、いざ雪乃を目の前にしたら、どういう態度を取っていいのか分からなくなる気がする。
リビングのドアを開けることも少し躊躇した。
父に、昨日のことを訊かれるだろうから。
どう見ても、あたしより年下の彼。
零の年齢のことは、きっと父にとって気になることのひとつだろう。
親の目線からしたら、高校生と、なんて、反対するに決まっているし。
しかも雪乃と同級生なんて……。
ドアからテレビの楽しそうな声が漏れてくる。
あたしは息を吸い込んだ。
「おはよう」
ドアを開け、いつも通りの笑顔を作って見せた。
「おはよう、花音」
「あ、おはよう花音」
揃えたような挨拶が返ってきた。
父も母も至って普通の対応で、少し拍子抜けした気分だった。
母がソファーから立ち上がる。
「花音、パンでいい?
昨日コーンスープ作ったのよ。
ローストチキンもあるけど食べる?」
コーンスープにローストチキン。
家にいると言ったあたしの誕生日のために作ってくれたんだ。
ごめんね、お母さん。
「うん。食べる」
「じゃ、温めるわね」
母はそう言うと、キッチンへ入っていった。
あたしは母の背中が消えるのを確認してから、父の前のソファーへと腰を下した。
つい今まで、母が座っていた位置。
二人きりになると、急にテレビの笑い声がうるさくなった。
「お父さん」
テレビに夢中になっている――それはきっと振りの、父の横顔に声をかけた。
あたしから話さなくちゃ。
父はテレビからこちらにゆっくりと視線を移した。
平たい画面の中から笑い声がどっと湧いた。
日曜日にいつも見ているバラエティ番組。
今の今迄その笑いの中にいたとは考えられない父の真面目な顔つきに、緊張する。
「あの、昨日のこと、だけど……」
「………」
「急にどこか行っちゃって、心配かけてごめんなさい」
「………」
父は黙っている。
あたしは、意を決した。
「彼は、あたしの好きなひとなの」
目を見てはっきりと言うと、父はその目を丸くして驚いた表情をした。
「森くんと別れたのは、彼が原因なのか?
お前が振られたんじゃなかったのか?」
ごくりと、固唾を飲んだ。
「啓人と別れたのは、あたしが原因なの。
あたしが彼を好きになったから」
恋人と別れた原因が、自分の娘の心変わりだなんて、親にとってはショックかもしれないけど、啓人の真相は、両親にも言えない。
父は呆れたように大きな溜め息を漏らした。
テーブルの上の湯気が立つ湯呑に、考え込んだように伏し目がちに視線を落とすと、指でこめかみを揉みほぐし、またあたしを見る。
「彼はお前より年下だろ? まだ学生じゃないのか?
格好だってそんな感じで……」
どきりとした。
やっぱり、それを訊かれるんだよね……。
どうしよう。高校生だなんて言いづらい。
だけど、嘘を吐くのなんて嫌だし……。
「年下、だけど……」
「年下か……」
「……うん」
ふう、と、もう一度父の口から溜め息が漏れる。
「お前はそれでいいのか? もう24歳なんだぞ?
結婚したっておかしくない年齢だろ」
心配そうな瞳の色をした父に、まっすぐに見つめられた。
ずきっとした。
『結婚』
零との付き合い――は、当然それが見えないことを意味する。
あたしは24歳。
彼は18歳。
6歳の年の差。
しかも零には夢もある。建築士になるという夢。
来年は高校三年生だから、卒業までにあと一年。
ストレートに大学に受かっても、それからまた四年。
確か二級建築士は、大学の建築科卒業後すぐに免許が取れるはずだ。
けれどそこで免許が取得できて就職しても、すぐに結婚なんて現実的じゃない。到底無理な話。
大体、結婚というビジョンは、今は持てない。
持つことなんて出来ない。
ただ一緒にいたいという気持ち。
零が好きという気持ちだけ。
それだけ。
「結婚なんて考えられないし、まだ24だよ」
「だってお前、森くんとは結婚するつもりで付き合ってたじゃないか。
夏の旅行でだって言ってたよな? 早く結婚したいって」
あたしの否定に父が素早く切り返してくる。
――夏の旅行。
今年の夏に家族で行った箱根の温泉。
旅館の夕食は部屋食だった。高級な懐石料理が次々と運ばれてきて、旅館お薦めの地酒も美味しくって。
父も母もあたしも雪乃も、笑い合って、楽しくて、幸せで。
お酒も入ったあたしは、気分も良くて、つい口から出てしまった。
『あたしも早く結婚したいなぁ。お母さんとお父さんみたいに』
美濃焼のおちょこを火照った片手で揺らしながら、そう言ったのを覚えてる。
だって、年上でしっかりと地に足のついた啓人とそんな未来を夢見ることが、あのときの――ほんの数週間前までのあたしには、当然のことだった。
「今は、自立したいし、やりたいことも出来た。
昨日、帰ってから、辞表も書いたの。
あたし、ジュエリーデザイナー目指したいの」
あたしが言うと、父は眉を寄せた。
「ジュエリーデザイナー?」
「うん。学校に行こうって考えてる。
それか、アシスタントで仕事を探してみたい」
あたしの言葉に、父は口を噤んだ。
二人の沈黙の間に、テレビの中の笑い声が響く。
そのほんの少しの時間のあと、父はまた息を吐き、「分かった」と言った。
「もう十分な大人だから、お前の恋愛に口を出したくなんてない。
だけど親にしてみたら、いつまででもお前は子供なんだ。
心配していることだけは理解して欲しい」
「……はい」
そうとしか答えられなかった。
これで雪乃の好きな人だと父が知ったら、どうなるのだろう。
「花音、スープ温まったわよ」
話のひと段落したタイミングの良いところで、母の声が割り込んだ。
多分、話は聞いていたのだろう。
それでもいつもの明るい声のトーン。
母なりのあたしへの気遣いがありがたかった。
心配、か。
そうだよね。当たり前だよね……。
キッチンへ向かおうとソファから腰を上げると、家の電話が鳴った。
あたしは立ちあがったその足で、そのまま受話器を上げた。
「はい、長瀬です」
そう応対した途端、通話中の電子音に切り替わった。
あれ? 間違い電話?
「だあれ?」
「出たら切れちゃった。
間違い電話かも」
母に答えながら受話器を元の位置に戻した。
すると母は、眉間に皺を寄せて渋い顔をし、ソファーに腰を下した。
「そういえばついこの間もあったのよ」
「ふぅん……何となく嫌だね」
「あ、花音、冷めないうちに早く食べてきちゃいなさいな」
「はあい」
あたしは返事をするとキッチンへ向かった。
とりあえず、昨日のことも仕事のことも話せて良かった。
それと、零の年齢のことを言わずにすんだことも、正直なところホッとした。
朝食を目の前にダイニングテーブルに腰かけると、ポケットに入れていた携帯電話のメール着信音が鳴った。
さくらからだった。
『シングルの花音チャン。
昨日は誕生日おめでとう!
今日ってあいてる?
一日遅れだけど、誕生日プレゼント渡したいし、夜うちに来ない?
今日は早番なの。19時には帰ってくるからさっ。
久し振りにつばきも来るから、夕飯皆で食べようよ』
嬉しいな。
つばきに会うのも、相当久し振り。
さくらには、元々今日の夜にでも電話しようと思っていた。
学校のことと、これからのことを相談したかったから。
それに、零のことも……。
やっぱり、さくらは反対するのかな……。
でも、言わなくちゃ。
あたしは『ありがとう、嬉しい。じゃあ、19時頃にお邪魔するね』とメールの返信をした。
送信完了の表示が出ると同時くらいに、手の中の携帯がまた音を立てたから驚いた。
メールの着信。
零からだった。
『おはよう。
昨日はお父さんに怒られなかった?
オレは、今日はさすがにバイト。高崎サン、ウルサイし。
またメールするね。
Rei』
何気ない文章だけど、何だか胸がくすぐったいような感じがする。
メールをくれるなんて、素直に嬉しいと思える。
どんな顔してメールを打ってるのかな、なんて。
想像したら思わず笑みがこぼれてしまう。
すぐに返事を打とうと思ったのに、何て返事をしていいのか少しの間悩んでしまった。
ありきたりな『昨日はありがとう。バイト頑張ってね』というただそれだけの短い文章に異様に時間がかかってしまった。
ドキドキしながら送信ボタンを押す。
そんな自分が、とても24歳とは思えない。
結局、あたしは冷めた朝食を口にした。
「雪乃、まだ帰ってこないの?」
あたしは玄関の上がり框に腰掛けて、ブーツを履きながら見送りをしてくれる母を見上げて訊いた。
あと15分ほどで19時になるというのに、雪乃はまだ家に帰ってきていない。
あたしがさくらの家から戻る頃までには、雪乃もさすがに帰ってくるだろうけど。
出来れば今日、きちんと話をしたい。
「夕飯までには帰るって電話あったから、そろそろ帰ってくると思うんだけど。
お友達の家にいるって言ってたけど、しょうがない子よねぇ……。
朝帰ってくるのかと思ったら、そのままお友達の家に行くなんて」
母は溜め息交じりに言った。
「そう……ま、しょうがないよ、たまになんだし。
普段は外泊するような子じゃないんだし、クリスマスくらいはいいんじゃない?
それに、雪乃が学校の友達と仲良く楽しく過ごせるなら、それは良いことだし」
あたしはそうフォローはしたけれど、罪悪感が込み上げた。
雪乃がまだ帰ってこないで友達の家にいるのは、もしかしたら、零がパーティに来なかったことがショックで、何となく帰りたくないのかもしれない……。
「そうねぇ」と、母はあたしの言葉に納得する。
「……まぁ、そうよね。あの子がそんな風に高校のお友達と仲良く出来てることが良いことだもんね」
「うん。今は結構普通に男の子とも喋れるようになったみたいだよ」
「そうね。しょうがないわね。
ところで、花音は何時くらいに帰ってくるの?」
「あたしは……そんなに遅くならないうちに。明日は仕事だし」
そう言うと、勢いよく立ち上がった。
明日仕事なのも勿論だけど、本当は雪乃と話すために、なるべく早く帰ってこないと。
そんなことは母には言えないけど。
「じゃ、気を付けて。さくらちゃんによろしくね」
「うん。行ってきます」
と、玄関のドアの取手をグッと押したところで、がさっと何か音がした。
何?
あたしはゆっくりと重たいドアを開いた。
するとドアの先の玄関タイル上に、B5サイズの茶封筒が置かれていた。
立てかけてあったのが、ドアを開けたせいでそこに落ちたようだ。
何だろう、こんなところに。
不思議に思いながらそれを拾い上げた。
目線の高さでそれを確認するけれど、封筒には宛名も差出人も何も書いていない。
何か入っているくらいの軽い重みはあるけれど、封さえされていない。
「どうしたの?」
行ってきますと言ったくせに一向に出かけないあたしに、母は後ろから覗き込んできた。
「分かんないけど、封筒が落ちてて。
宛名もないんだけど、何か入ってるみたい」
「開けてみたら?」
母の言葉に、封をされていない部分をぺらりと捲って中を覗き込んだ。
覗いたその中には写真らしきものが10枚位束になって入っていた。
写真だと確認すると、封筒に手を入れてそれを中から取り出した。
「雪乃?」
取り出した写真に写っているのは、雪乃だった。
私服を着ているからいつ頃撮ったものか分からないけれど、今よりもう少し幼い顔をしている。
「何だろ……?」
あたしは不思議に思いつつ、それを母に手渡した。
母も受け取りながら首を捻った。
「雪乃の写真?
麻衣ちゃんが持って来てくれて、ここに置いていったのかしら?」
麻衣ちゃんの家は、うちから5分くらいの距離だ。
ちょうどさくらの家に行く途中にある。
「雪乃に写真を出かけがてら渡そうと持って家を出たけど、声をかける時間がなくて、そのまま置いていったとか?」
「うーん、そうかもしれないわね。
この写真ちょっと前っぽいし、雪乃の昔の写真をこんなに持ってるの、麻衣ちゃんくらいしかいないわよね」
「きっと麻衣ちゃんよね」と、疑問を持ちながらも二人で納得すると、あたしはもう一度「行ってきます」と言ってさくらの家に向かった。
そのときは、その写真が大きな意味を示しているなんて、母もあたしも全く思っていなかった。
想像も付かなかった――。