33
気持ちは膨らんでいて、一緒にろうそくを立てることまで頭の中で勝手に想像していたせいで、思ったよりもショックだった。
ケーキがあるはずの場所だけ虫に食われたみたいに空っぽの棚を見て、小さな溜め息をこぼすと、隣で零も残念そうに言った。
「なかったね」
「うん。クリスマスだから、しょうがないね」
仕方なく、ホットの缶コーヒーだけ手にして店を後にした。
外は変わらず小雪がちらついている。
空を見上げると、灰色がかった厚い雪雲の底から、絶え間なく白いものが落ちてくる。
終わりなどないように、あたしたちに降り注ぐ。
その雪に重なって、白い息が上がった。
寒い。
でも思っていたよりは寒くない。
多分、東京よりも本当はずっと気温は低いのだとは思う。
けれど、空気が固くて底冷えする東京とはまた違った寒さで、不思議と体感はあまり変わらないように感じる。
ここは雪の透明な匂いがして、肺に入り込む空気が新鮮だ。
空気が美味しいって、こういうことだと思う。
「あっちに有名な主水公園もあるけど、もう少し近くにも小さい公園があるよ」
そっち行ってみる? と、零が訊いてきた。
「うん。
何で公園があるなんて知ってるの?」
「ナビで見つけた」
「あ、そっか、ナビか」
答えながら、冷えた手を温めるように両掌で熱い缶コーヒーを包み込んだ。
温かさが指先に痺れるような感覚で伝わってくる。
「行こっか」
道を覚えているように歩く零の隣に、あたしは並んで足を運ぶ。
次々に降り注ぐ雪たちで埋め尽くされた白い道。
どこもかしこも雪のカバーがかぶせてある。
ふと、思った。
「雪が積もってて、公園内って入れるのかな?」
「大丈夫なんじゃね?
まさか立ち入り禁止の札とかはないんじゃん?」
「そうかな……そうだよね」
「逆に誰も入らないくらい雪が積もってたら、気持ちいいかも」
「だね。スニーカー履いてて良かった」
そう言うと、零は一瞬動きがぴたりと止まり、あたしの姿に目線を縦へさっと走らせた。
あたしの服装を再確認したようだった。
「……元々、アイツと会う予定じゃなかったの?」
「零こそ。あたしが約束断って、他に用事なかったの?
学校の友達とかと……」
怪しい訊き方かな。
でも、上手く訊けたかも……。
零は数秒黙ったあと「ないよ」と答えた。
表情も普通で、何でもないことのようにさらりと。
気持ちは読み取れない。
それは嘘なのかな……?
だって、雪乃と零の友達は、零の家まで迎えに行ってるはずだもん。
雪乃は、会えなかったのかな……。
唇から流れるように白い息が上がる。
掌で覆われた缶コーヒーの口からも、細く白く空へと上がっていく。
もう会わないと決断して、もう会えないと思っていたのに……。
こんな風に雪の中を二人で歩いているなんて……。
隣の白い息が上がるさまを見上げると、零はコーヒーを一気に飲み干した。
あたしもそれを見て、つられたように缶へ口を付けた。
コーヒーの温かさが喉を通り過ぎていくことを感じると、缶を持つ反対の手にも温かさを感じた。
零があたしの手を取ったから。
あたしの不安を拭い去るように。
ドキドキよりもホッとした。
温かい手。
いつも零の手は、温かい、ね。
人通りの少ない道を、さくさくと雪を踏み締める音を二人で響かせていた。
会話は、ぽつぽつとあるだけだったけど。
静かにただ歩くだけでも、それが凄く自然な感じさえして……。
今のこの時間を、大切にしたいと思った。
「わーっ! 綺麗っ!」
植え込みにも裸の木の幹にも降り積もった雪。
辿り着いたその小さな公園は殆ど足跡もなく、一面に綿を敷き詰めたように白く染められていた。
遊具の細い金属にまで柔らかく雪が載っていて、そんな普段見られない光景へも感動を覚える。
新雪の中に一歩踏み入れると、足はふわりと柔らかく沈んでいき、何とも言えない感触がした。
「凄いっ。ふわふわするっ」
上がりきったテンションでそう言った後に零を見上げると、目を細めて微笑んでいた。
愛しい子供に注ぐようなその笑顔に、あたしはやっぱりときめきを感じてしまった。
そんな優しい顔で笑いかけないでよ。
妙に恥ずかしくなって、あたしはさっと視線を外した。
けれどそんなあたしの顔を、零は頭を傾けて覗き込んでくる。
「ふーって、やる?」
「え?」
「さっきやりたいって言ってたじゃん」
「でも、ケーキないよ?」
「ろうそくだけ持ってるんだ」
零は悪戯っぽく微笑む。
「待ってて」
零は背中からリュックを下ろし、中から赤いキャンドルを取り出した。
透明の袋に赤いリボンのついた、細長くてちょっとお洒落なものだ。
それと同じものが三袋。
「持ってきてたの?」
驚いて言うと、零はまたにこりと微笑み返してくる。
「実はオレもやりたいとか思ってたんだよね、一緒にふーって。
ケーキは当日じゃないと買えないけど、これなら用意しておけるし」
もう、ホントにコイツってば、ニクいヤツっ。
零への愛しい気持ちが湧きあがった。
だって、ちゃんとあたしのこと、考えてくれてるんだもん。
しかも、やりたいことが一緒なんて。
「食べられないけど、雪に刺せば綺麗だよ」
零はそう言うと、座り込んで雪を手でかき集め始めた。
あたしも「うん」と答えて、一緒に座りこみ雪を集める。
痺れるくらい冷たい雪も、これから見られる光景のことを考えるとあまり気にならない。
両掌に沢山の雪を載せて運ぶ。
二人で集めた雪は、簡単に大きな丸いホールケーキの形に整えられた。
そこに一本ずつろうそくを立てていくと、あたしと零の二人だけの特別なケーキが出来上がった。
さっき感じた新雪の生クリームのような綺麗さもないし、形も不格好だけど。
でも、どんなケーキより特別で。
あたしには一番素敵に見えた。
そこに二人でしゃがみ込み、零がライターでそっと火を付けていく。
24本全てに火が灯されると、それは魔法でもかけたように闇に浮かびきらきらと輝いた。
オレンジ色の炎が柔らかく雪のケーキを照らし、そこだけどこか違う世界にあるみたいに幻想的で。
綺麗……。
こんなの見たことないよ……。
言葉も失って見とれていた。
それは零も同じようだった。
しばらくして、ぽつんと零が言った。
「綺麗だね」
「うん」
「24歳の誕生日おめでとう」
優しい声が耳の奥に響く。
そして目の前に、赤い包装紙にグリーンのリボンが掛けられた長方形の箱が差し出された。
「……え? これって……」
「誕生日プレゼント」
「そんなものまで用意してくれてたの?」
零は返答する代わりに、目尻を細め笑顔を見せた。
「ありがとう……」
あたしは、その箱を受け取った。
手に重みがかかった。
「開けてみて」
「うん」
胸が高鳴る。
嬉しいという気持ちと一緒に期待が入り混じる。
蝶結びになっているグリーンのリボンをするりと解いた。
包装を外す指が何故か縺れたように上手く動かない。
気持ちの方が、早くと焦ってしまう。
包まれていた箱を徐々にむき出しにしていき、中から出てきた白い箱を開けた。
「可愛い……」
そこには、ピンクと赤のグラデーションのガラスで出来たジュエリーケースが入っていた。
あたしはそっとそのジュエリーケースの蓋を開いた。
開かれたと同時に流れる優しいオルゴールの音。
耳触りの良いよく耳にする音色は――。
――カノン。
「パッヘルベルのカノンだ……」
うん、と零が頷いた。
「絶対コレって思ってた。名前と一緒のカノン。
ガラス工房で見たジュエリーケースに、オーダーでオルゴールを入れてもらったんだ」
胸に甘い気持ちが波のように押しよせてきて、目頭も熱くなる。
澄んだ空気の中に響き渡るカノンの調べ。
あたしは嬉しくて嬉しくて、涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。
「ありがとう……」
声は少し擦れた。
こんな風にしてくれて……。
好きだという気持ちは更に高まってしまう。
それは泉のように湧き出て溢れ出す。
そして身体中を満たすように浸透していく。
この気持ちをどうやって止めればいいの?
誰か止め方を教えてよ……。
「ね、花音って名前、やっぱりクリスマスイブに生まれたから?」
「うん、そう。本当はね、花乃(かの)って付けようと思ってたんだって。
だけど、出産予定日からずれちゃって24日に生まれたから。
特にキリスト教信者じゃないけど、やっぱり何だか繋がりがあるような気がしたんだって。だから、カノンになったの」
「そっかー。
でも、花音さんは、やっぱ花音の方が合ってるよね。
違う名前は想像つかないっつーか、しっくりしない」
「そうかな?」
「うん、そうだよ」
「零は? 何で零って名前が付いたのか知ってる?
そう言えば、零の誕生日っていつなの?」
「5月12日。
オレの名前は……オレが産まれたときって、ちょうど親父は仕事でドイツにいたんだ。
で、日本からの電話で出産の報告を聞いて……その電話中に、たまたま見上げた空が雲一つない青空だったんだって。だから零。
テキトーだよな。だからオレ、あんまり自分の名前好きじゃないんだ。
産まれてから親父が帰って来たのって三ヶ月後でさ。小さい頃も放っておかれてたし、愛情なんて感じなかった」
零はそう言うと、苦笑いした。
だけど、そうかな?
「あたしはテキトーなんて思わないけど」
「え? 何で?」
「だって、空ってずっと繋がってるんだもん。どんなに離れてても。
それにきっと、お父さん……空を見上げるたびに、零のことを思い浮かべるよ。
どんなに忙しくても、離れてても、会えなくても。きっと今だって」
あたしの言葉に、零はきょとんとした。
そうかと思うと、ククっと笑い出す。
あれ?
あたしそんなにおかしなこと言った?
「マジで……花音さんってすげーわ」
「え? 何、何? 何で?
ごめん、あたし、変なこと言った?」
「そうじゃないよ」
零は微笑みながら首を振った。
「花音さんは、一言でオレの気持ちを楽にしてくれるんだなぁって」
「え……? 楽、って?」
「オレ、花音さんと一緒にいると温かい気持ちになれるんだよ」
「……温かい?」
「そういうところが好きなんだ」
あれ……?
今……?
一瞬、思考が止まってしまった。
だって、今、好きとか言わなかった?
あまりにさらりと言われたから、どういう意味の「好き」なのか瞬時には分からなくて、零の顔を見つめた。
オレンジ色の炎で照らされた零の顔は、もう真剣なものになっていた。
まっすぐなその瞳には、炎の奥にあたしが映って揺れている。
「オレ、花音さんが好きだから」
零の声が、閑寂な公園内に静かに響いた。