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――見せたかった、って……。
そう言った零へと、窓から視線を戻した。
横顔が満足そうだ。
「そのためにわざわざ新潟まで?」
「そーだよ。これってちょっと感動じゃね?
オレ、初めて来たとき、結構感動したんだよね。自分の国なのに知らないことを知ったみたいな。
それにさぁ、今日クリスマスだし。雪見たいなー、とか思って」
「うん。すっごい感動だよ、これって。
雪、綺麗だね。あたし、ホワイトクリスマスなんて初めて」
景色への感動とは違った感動も心の中に生まれていたけれど、それについては口に出せなかった。
代わりに「ありがとう」と小さく言った。
自分にとっての特別な日に、こんな風にしてくれるなんて信じられないくらい嬉しい。
『見せたい』という気持ちだけでここまで連れて来てくれるなんて、行動力が凄いよね?
これって、この年齢ならではなのかな?
まっすぐっていうか……思ったら即行動、みたいなのって。
あたし……酷いこと言ったのに。
気にしていないの?
零は、どういうつもりでこんなことまでしてくれるの……?
あたしはまた窓の外へと目を戻した。
初めて見る景色は本当に新鮮だ。
東京で見る雪とは違って、自然と融合されたその光景は、夜陰に青白く浮かび上がり神秘的だった。
点々と縦に並んだ明かりがいくつもある。
どこかスキー場の照明だな、と思った。
暗い中に浮かぶ小さな道しるべのような光は、それもまた綺麗で。
ただ広がるだけで何もない敷地に積もった雪には、足跡どころか何かが触れた形跡さえなくて。
ふんわりとしていて目にしているだけで気持ちよさそうだと思う。
窓から見上げた杉の木の葉の上に乗っている丸みを帯びた雪を見て、
「なんか、美味しそう」
と、ついそんな言葉が出た。
「オレも思った! なんか、生クリームみたいでさ」
「そうそう! 生クリームみたい、って、あたしも最初に見たとき思った!」
「ケーキ買おうよ。コンビニでだけど。誕生日だしね」
「うんっ!
あー、そういえば、キルフェボンのケーキ、ぐちゃぐちゃになって食べられなくなっちゃったかも……」
「え? ぐちゃぐちゃ?」
「箱、落としちゃって……。でも、いいの。
ね、零も好きなんでしょ? お母さん言ってたよ」
「うん、オレも好き!
じゃあさ、次に会ったとき、一緒に食べよっか?」
――次?
次なんて、あるの?
もう駄目だよ……。
会わないって決めたんだから、こんな風に会ったら絶対駄目。
「……そうだね」
一応はそう答えておいた。
けれど楽しかったムードはあたしの中で一転してしまった。
雪乃のことが思い出されたから。
あんなに嬉しそうに昼間出かけたのに……。
あたしは何をやってるの?
最低だ。こんなの。
今だって、雪乃は零がパーティに来るのをずっと待ってるかもしれないのに……。
関越トンネルを出て次の『湯沢』で、高速を降りた。
あたしは黙って窓の外に見とれているフリをした。
だけど。
多分、零は気付いた。
急にあたしの様子がおかしくなったこと。
「駅前にコンビニあるよ」
零もそう言ったきり黙ってしまった。
あたしたちは無言のまま、越後湯沢駅のロータリーに車を停めた。
新幹線が通る大きな駅なのに、人影はまばらだ。
観光客も多くて賑やかな場所だと勝手に想像していたぶん、拍子抜けしたというか、ある種不思議な気分だった。
東京とは全く違う。駅前なんて、とにかく人も車も多くてうるさいくらいなのに、ここは静かで落ち着いた雰囲気だ。
駅だというのに、空気が透き通って凛としている。
関越トンネルを抜けたばかりは大粒の雪だったのに、今は小雪がちらちらと踊るように舞っていて、時間の流れも緩やかに見えるようだった。
「コンビニ寄って、ちょっと散歩しようよ。
近くに公園もあるよ」
零はそう言うと、後部座席に置いてあったダウンジャケットをさっと羽織り始めた。
あたしも倣って、膝の上の自分のダウンジャケットを羽織った。
クリスマスイブにこんな格好で恥ずかしいなんて思っていたけれど、雪の中を歩くならちょうど良かったのかもしれない。
そう思ったとき、一瞬何かで目の前が覆われた。
あたしの頭に、零はかぶっていたつば付きのビーニーを載せてきたから。
「似合う」
あたしの頭上のビーニーの位置を直しながら、目の前でニッと笑う。
雪が降ってるから、貸してくれたんだ。
しかも、押しつけがましくなく。
こういうところがやっぱり優しいし、女慣れしてる感じ……。
「ありがと」
何だか照れくさくて、あたしは先に車のドアを開けた。
零も車を降りると、帽子をかぶりリュックを背負った。
グレゴリーの迷彩柄のリュックだ。
紺色のパタゴニアのダウンにアメリカンイーグルのビーニー。
デニムはディーゼルだ。前ポケットに赤いロゴがあったのが見えた。
降り立ったスタイルの良い零に視線を奪われてしまう。
雪景色と零の姿は調和していて、映画のワンシーンでも見ているようだった。
何でこの人ってば、どんな格好でもサマになっちゃうんだろ……。
そんなあたしに気付いたのか、零はこちらを向いてにやりと笑う。
「何? オレに見とれてる?」
「ち、違うしっ。
ほ、ほら、帽子。あたしに貸してくれたのと、今零がかぶってるのって、似てるなって思って」
見透かされたことが恥ずかしくて、それを誤魔化すように零の頭を指差した。
でも、今、上手い誤魔化し方だったよね?
「あー、これ、花音さん用にも持って来ておいたんだ。こっちは雪降ってるだろうと思って。
気に入ると色違いとかで買っちゃうんだよね、オレ」
……て。
それって、お揃いってこと?
「あははっ。今、お揃いーとか思ったでしょ?」
「えっ、別にっ」
「分っかりやすぅ」
もうっ。生意気。
ふん、と、ちょっと横を向いた。
子供みたい、あたし。
そうかと思うと、急に掌を掴まれた。
ふわりと包みこんでくる温かい手。
冷え切った刺すような空気から、守ってくれるようだった。
急な寒暖の差に、胸まで熱くなってしまった。
やだ……。
ドキドキする。
またそんな自分を見透かされたくなくて、あたしは零の顔を見ず、視線を逸らしたままでいた。
そんなあたしに、零の言葉が降った。
「今日はオレと一緒なんだよ?」
え?
零の一言に、結局顔を上げてしまった。
言われた言葉の意味がよく分からなかった。
見上げた顔が、ほんの少し前とは違う真剣な顔で、驚いてどきりとした。
「さっき、アイツのコト思い出してたじゃん」
さっき?
アイツって――?
もしかしてそれって、雪乃のことを思い出したときのこと?
啓人のことを思い出したのかと勘違いしてる?
そっか……。
でも、それならそれで、ちょうどいい。
勘違いしていてくれた方が……。
「ごめん」
あたしは言った。
胸が痛い。
だけど、本当のことなんて、絶対に言えない。
言ったらいけない。
零は小さく息を吐き出すと、繋いだ手を引きゆっくりと歩き出した。
あたしの方を見ずに、まっすぐ前を向いて。
「かなわねぇな。やっぱ……」
零がぽつりと言った。
それを聞いたら、胸を刺すような痛みが走った。
零は――あたしのことを、もしかして好きでいてくれてるのかな、って……。
そういう言葉を言ったり、そういう態度をたまに取るよね。
だけど、ハッキリと言われたわけじゃないし、どう思っているのかは本当のところは分からない。
噂のこともあるし、もしかしたら零にとってはこんなの何ともないゲームみたいなものなのかもしれないし……。
そんな変な不安まで押し寄せる。
こんなにしてくれてるのに、嫌な女だ、あたしって。
そして、本当のことも訊けず、本当のことも言えないあたし。
この先もずっと言えないまま終わるんだろう。
喉元も目頭も熱を持ったように熱くなってきて、涙が出そうになった。
それをぎゅっと奥歯を噛み締めて堪えた。
滲み始めた地面。
薄っすらと積もっている雪は殆ど溶けかけてシャーベット状になっていて、茶色とグレーの足跡だらけだ。
真っ白だったはずの雪は、踏み潰されて真っ黒だ。
そんなあたしに気付いたのか、零のあたしの手を握る反対の手が、頭の上にぽんと乗った。
「泣くなって。ごめん。オレが悪い。
楽しく過ごそうとか言っておいて、オレってマジで子供……」
「違……っ」
「マジでゴメン」
申しわけなさそうに眉間に皺を寄せ眉が下がっている零の顔を見たら、急に苦しさが抜け、笑みが漏れてしまった。
だって、なんか可愛くて。
こんなときなのに。
あたしが悪いのに、ふざけたようなこんな態度を取るなんて良くないかもしれないけれど、でも何だか零に笑って欲しかった。
「零は悪くないよ。せっかくここまで連れて来てくれたのにごめんね、あたしが悪い。
ね、ケーキ、買いに行こ?」
あたしは零を下から覗き込んで微笑んだ。
「生クリームのがいいな。いちごの乗ったやつ」
そこで視線が合わされると、零の顔にもホッとしたような笑顔が戻った。
「クリスマスだから、きっとホールのが売ってるよ」
「じゃ、24本ちゃんとろうそく立てて、ふーってやりたい!」
「花音さん、子供?」
「大人だってやりたいの!」
子供じみてるかな?
でも、零と一緒にやりたい、なんて思っちゃったんだもん。
そんな記念に残る誕生日。
次はもうないだろうし――。
一際明るいコンビニの照明が、薄暗い景色の中に店を浮き立たせていた。
コンビニに足を踏み入れる前の小さな願いと期待。
その一際目立つ明かりの中に、『クリスマスケーキ』の横断幕ものぼりもあったのに、ケーキは既に売り切れで、プラスチックのパックに入ったものさえなかった。