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「そーんな顔、してんなって。今日、誕生日なのに。
楽しく行こうよ? 遠いよ、結構」
どんな顔をしていいのか分からないあたしに、零ははにかんで言った。
まるで何事もなかったようにいつもと変わりない軽い口調。
「楽しく、って言ったって……」
こんな状況で急に楽しくなんて、普通出来る?
さっきの緊張感が嘘のような雰囲気の零。
尖った感じは全くない。
むしろ楽しそうに見える。
何で……?
「あ。花音さん、喉乾いてない?
お茶飲む?」
零は、ペットボトルのお茶を「ハイ」とあたしに渡してきた。
「……ありがと」
……って。コレ、口開いてるけど。
零の飲みかけだよね?
受け取ったペットボトルに戸惑っていると、「どうしたの?」と零はさらっと訊いてくる。
「……別に」
あたしは何でもないようにそう答えて蓋を捻り、白い飲み口に唇を当てた。
お茶が喉から胃に流し込まれる冷たい感覚を、妙に感じる。
あー、もう。あたしってば、こんなことで飲むか飲まないかで悩んで、中学生かっての!
こんなの友達同士だって普通にやるし!
そう自分に突っ込みを入れた途端、零は横でぶぶっと噴き出した。
「ちょっ……何で笑ってるの!?」
「だって……クククッ……今それ飲むか飲まないか一瞬悩んだでしょ?
アハハハッ。イマドキのチュー坊だって悩まないよ」
零はハンドルを握るもう片方の手でお腹を押さえて笑いを堪えている。
しっ、信じらんないっ。こんなときに!
「やっぱカワイーねっ。花音さんっ」
「かっ……」
カワイーって……。
このぉ……。
可愛いのはそっちじゃんっ。
そんな顔であたしにそんなこと言わないでよっ。
零の整った顔がくしゃくしゃになって笑っている。
瞳に涙まで浮かべてるし。
そんな表情は微かに幼さがあって、やっぱり可愛すぎて。
正直、『可愛い』なんて、言われ慣れていないあたし。
っていうか、零が言い慣れてるだけ?
な、何か悔しいっ。
「零は、女の子にそんなコトばっかり言ってるんだ?」
少し捻くれた口調で言った。
無意識に口も尖らせている自分がいる。
「そーだよ」
――そーだよ。
零が答えたその言葉に、胸に何か刺さったような痛みが走った。
思わず隣を見る。
整った形の唇は少しの間結ばれていたけれど、目の前の赤信号で車が止まると、「でも、」と、零はぽつりと言った。
「花音さんに言ってることは、全部ホントだよ」
――え?
零は優しい笑顔をこちらに向けた。
つい今までの軽い調子とは全く違う柔らかな表情で。
心臓は早鐘を打ち出して、胸に甘い気持ちが込み上げてくる――。
そうかと思うと少し照れたようにニッと笑って、すぐに前を向いてしまった。
何か、ホントずるい……。
ちょっと前まであたしのこと、からかったり軽い調子だったのに……。
そんな風に思ったら、妙な不安みたいなモノが押し寄せた。
甘美な気持ちを急激に抑え込むように、何か大きなものにくるまれてしまった感覚に陥った。
「嘘ばっかり」
そしてそんな言葉を発してしまった。
あたしの中の零に対する疑心も大きくなってしまったから。
確かに、あたしに対して誠実な態度を取ってくれているけど――。
嘘を吐いていることも事実だし。
女たらしという噂のことだって気になる。
……口だって上手いし。
何が本当で、何を信じていいの……?
これは、零を好きになってしまったから。
だから真実を全部知りたいと、欲が出てしまったんだ――。
本当はきちんと聞きたい。
年齢のことだって。
けれど、あたしが雪乃の姉だってことを零が知らないんだとしたら、それを口にしてしまえば、逆に墓穴を掘ってしまうかもしれないと思うと言えなかった。
もし知らないなら、その方が雪乃のためには良いと思うし。
大体、あたしのことは、いつから知っているんだろう?
以前に会っている、って、確率的に考えれば、雪乃の高校の文化祭くらいしか思いつかない。
そう考えると、もしかしたらあたしが雪乃の姉だって知っているのかもしれない……。
窓の外は『高井戸』と大きく書いてある駅の高架下を通り抜けた。
空は既に薄い闇に包まれ始めている。
この時期、日が暮れるのは本当に早い。
変わらない零の下手くそな運転にも、大分慣れたかのように助手席に座るあたし。
車線変更とか、路上駐車してある車を追い越す度に、あたしは一応ちらりとバックミラーを確認する。
信号だって、歩行者だって、ちゃんと見ているか不安で、気になるときはいちいち助言してしまう。
そんな風に一緒にいる車内は、やっぱり零のペースなのかもしれない。
最初に会ったときと同じように、不安な気持ちとか、雪乃への罪悪感とか、そういうネガティブな要素のものが薄れてきて、一緒にいて楽しいという気持ちばかりが増していく。
雪乃のことを思い出すたびに、胸に針で突くような小さな痛みがあるけれど……。
それでも。
さっき、自分自身でこのドアを閉めた。
そして、あたしの誕生日という、特別な日。
腹を決めて、この際楽しもうと思った。
今、車を降りるわけにもいかないし。
ううん。
車を止められたら、どうしていいかきっと分からなくなってしまう。
今一緒にいたいという気持ちが強すぎて。
神様はこんなあたしを許してくれるのかな……。
「高速乗ったら、途中でサービスエリアに寄ろっか?
それまでコンビニとか寄らなくていい?」
黙って窓の外を見ていたあたしに零が言う。
今の考えを見越していたんじゃないかと思って、どきっとした。
「え、あ、うん。大丈夫」
「つーか。最初から、高速乗るまでどこにも寄るつもりなかったけど」
「え? 何で?」
「だって、車の外に出て花音さんが逃げたら困るしね。
せっかく会えたのに」
「えっ……?」
「それとも手ぇ繋いでコンビニ入る?」
どきっと、また心臓が大きく動く。
もうっ、何でコイツってばそんなこと平気で言えちゃうの。
そういうのって、ホント、ツボにハマっちゃうじゃん……。
「逃げないよ。
今日は、楽しませてね」
あたしは、零に笑顔を向けてそう言った。
自分にも言い聞かせるように。
だってそれは、あたしの本当の気持ち。
零ってば、あたしのこと、見透かしてるよね。
あたしよりも6つも年下のクセに……。
ホント、全然うわ手だよ。
「うん」
そう答えた零の極上の笑顔に、雪乃への罪悪感でまた胸が痛んだ。
けれどそれと同時に、あたしの心は何かに満たされていくような感覚があった。
そして練馬ICから関越自動車道に入り、車のスピードが上がると、あたしの中には妙な安堵も広がっていった。
これでもう絶対にすぐに帰ることは出来ない。
――だからだと、自分でも分かっていた。
あたしたちは、長い道のりの中、色んな話をした。
会社のこと。
友達のこと。
普段の生活。
好きな音楽やテレビ番組――。
零は訊き上手だ。
あれ? あたしってこんなだっけ? と思わせるくらい、上手に訊き出してくる。
あたしも零の話は沢山聞いたけれど、何だか自分のことを山ほど語った気がする。
そして、本当にくだらない話や何気ない話でも、零と話していると楽しくて仕方なかった。
やっぱり一緒にいると、ほっとするような温かい気持ちになれちゃうんだよね。
こんな風に感じられる男の人なんて、今迄いなかったよ……。
途中、上里サービスエリアに寄った。
そこにある大きな時計台の針は18時を回っていて、あたしたちは少し早めの夕食を食べた。
醤油味の、いわゆる普通のラーメン。
行列の並ぶような美味しいラーメン店のものとは違うけれど、それでも一緒に食べたラーメンは心の底まで温まった。
「こんな日に色気なくてごめん」なんて零は言っていたけれど、あたしは全然気にならなかった。
「こういうのもオツだよね」なんて、笑って返した。
だって、本当にそう思ったんだよ。
今迄付き合った人と過ごしたあたしの誕生日は、高級なレストランとか、お洒落なお店とかだったけど。
こんなのって、凄く楽しい。
気取ってなくて、誰よりも近くに感じられる。
遠くに見える連なる山々。
もう暗くなったせいで黒い影にしかなっていないけれど、それでも夕闇に裾を広げ雄大に浮かぶ光景は美しかった。
空気は澄んでいて、息を吸い込むと肺にしくしくと沁みて。
東京では見られない星の多さにも感動した。
海に行ったときもそうだったけど、こんな風に誰かと見る綺麗な景色って、一人のときとはちょっと違って感じる。
分かち合える感動が心地良いっていうか、どこかくすぐったくて。温かくて。
座席に座りぱなしで固くなった身体が休憩によって解れると、再度車に乗り込み、新潟に向かう道をまた進んだ。
まだ12月のせいか、赤城山を過ぎても全くと言っていいほど雪は見られなかった。
道路の端に土みたいに盛り上がっているものが少しだけあるけれど、これがもしかして雪なのかな?
これから雪国に行くなんて信じられない。
本当に雪なんてあるのかな?
そうこうしていると、とうとう群馬と新潟の境の関越トンネルに入る。
「花音さん、知ってる?
関越トンネルって11キロあって、日本の最長なんだって」
「そうなの?
11キロってかなり長いよね?」
そう言えば、新潟に行くのは初めてだ。
薄暗くて広くもないトンネルは、確かにすぐに途切れる気配はなく、ずっと先まで続いている。
黒っぽくくすんだ天井も、壁面に敷き詰められた小さなタイルも、作り自体が随分と古く感じる。
両脇に並んだオレンジ色の照明も、それによって染められた同じ色の閉鎖的な空間も、ますます古さを誇張させているようだった。
そういえば、田中角栄の影響が大きかった時代に作られたんだ、と思う。
もう随分前だ。
「ねぇ、何で新潟に来たの?」
行くと聞いたときからずっと知りたかった疑問を投げると、零はにやりと笑った。
「トンネルを抜けたら分かるよ」
抜けたら?
長い長いトンネル。
こんなに狭くて薄暗い穴の中をひたすら走っていると、奥へと吸い込まれていきそうな感覚がする。
ここを抜けたら何が待っているのか。
あたしの心臓は、ドキドキと音を立て始める。
そうこう考えているうちに、とうとう出口が先に見えた。
「すっごーいっ!」
思わず大きな声が漏れた。
そのくらい圧巻の景色だった。
そこはトンネルへ入る前とは全く違う、突然一面の銀世界で――。
暗い中に仄白く浮かび上がる雪。
山も木々も建物も、目に映る全てのものに雪が覆い被せられている。
どこもかしこも、たっぷりと厚みがある雪は重みで僅かに垂れ、それがしっとりとした生クリームを乗せたように見える。
『国境の長いトンネルを抜けたら雪国だった――』
川端康成の有名な小説の一節。
まさにその通りの光景に、大きく瞳を見開いた。
こんなのって、信じられない!
だって、さっきまで雪なんて全くなかったのに!
大きな白い結晶は空から絶え間なく降り注ぎ、道路の両脇に立つオレンジ色のライトに照らされ虹色に輝いている。
何であんなにキラキラしてるの、と、不思議に思うほど小さな小さな光が舞う。
車のフロントガラスに張り付く大きな雪のひとつひとつが、絵に描いたようにきちんと結晶の形をしていて、そんなところにも感動する。
「コレ、見せたかったんだ」
外の景色に釘づけになっていると、隣で零が言った。