30
飛び降りる勢いで、あたしは車を降りた。
助手席のドアを閉めることも忘れて。
一瞬、夢なんじゃないか、と思ったくらい驚いていたから。
だけど今、あたしの目の前にいるのは、まぎれもなく零だ。
「な、何で?」
頭ひとつ以上大きい彼を見上げた。
怒っているのか、目が合うと眉間に皺が寄った。
「何で、って。迎えに来たに決まってるじゃん」
迎えに――。
その言葉に、あたしは心臓を殴られたくらいの衝撃を受けた。
嬉しい、のと。
信じられない、のと。
愛しい、のと。
けれどそれにどう答えていいか、頭が回らない。
零は腕を組んで頭を少しだけ傾げ、まるで睨むようにあたしの目をしっかりと見据える。
「しかもソレ、こっちのセリフだし。
何で泣いてんの?」
「え……だって……」
零のことを考えて、なんて、言えるわけない。
口籠もったまま俯くと、零は、はぁ、と息を漏らした。
「頼むから……泣くくらいなら、あの男のトコに戻るのはやめてくれよ」
その言葉に、あたしは俯いていた顔を上げる。
「アイツ、どうせ婚約者と一緒なんだろ?
マジで見てらんねぇ……」
違う、と思った次には、急に手を掴まれ引き寄せられた。
そして零はあたしの手を掴んだまま、車を降りてあっけに取られている父の目の前に行き、大きな身振りで身体を90度に折り曲げた。
「花音さんをお借りします!
ちゃんと今日中に送り届けますから!」
「ええっ!?」
父とあたしは同時に大きな同じ声を上げた。
驚いてそれ以上対応出来ないあたしを、零はミニの助手席のドアを開け「乗って!」と押し込んできた。
ちょ、ちょっと待って!?
これって、何!?
「待ちなさい! 何なんだ君は!」
驚きながらも父は、あたしを車に押し込む零の腕を掴んだ。
零はその手を跳ねのけることはせずに、もう一度頭を下げた。
「急に押しかけてすみません! オレ倉田零って言います! 花音さんの知り合いで……。
とにかく、変なこととかしませんからっ! あとでちゃんと送り届けます!」
「へ、変なことって……!
お、おい、花音っ!」
慌てて零を制止しようとする父の手を、あたしがそこから振り払った。
だって、勝手に手が動いてしまった。
その上、勝手に口も動いてしまった。
「お父さん、ごめん!」
頭の中は、ほぼ真っ白と言っていいくらいだった。
何が起きているのかとか、どうしたら良いのかとか、脳が機能していない。
けれど、胸に込み上げてくるこの大きな気持ちを抑えられず、あたしは一つの選択しか取ることが出来なかった。
頭で考えるよりも先に身体が勝手に動いたのは、もう、あたしの本能としか言えなかった。
あたしは、自分で助手席のドアを閉めた。
呆然とする父にもう一度零は頭を下げると、すぐに運転席に乗り込み、車は発車した。
小さくなっていく父の姿を車の窓から見ていると、突然罪悪感が襲ってきた。
見ていることが出来なくなって、シートに身体を埋めた。
そうかと思うと今度は急に体中の力が抜けて、頭が項垂れ大きな溜め息が出た。
「……もう、信じらんない……」
思わずそう口から漏れた。
けれどそれは零に対してだけじゃなく、自分に対してもで。
――信じられない。
会わないと誓ったのに、零を目の前にした途端、こんな行動をとってしまうなんて――。
それに、誤解されていようが心配もしてくれて、酷いことも言ったのに強引にでも迎えに来てくれたことが嬉しいと思ってしまうなんて――。
心臓は未だにばくばくと早鐘を打ちつけている。
そして、どうしようもなく、甘い気持ちが込み上げてきて仕方がない。
――零が好きという気持ち、が。
どこに向かっているか分からないけれど、車は環七通りを走っていることだけは窓の外の景色から分かった。
そこでまた、いつの間にか涙が止まっていることに気が付いた。
「零……何で来たの?」
隣に向かって訊くと、零は少し唇を尖らせた。
「何でとか言うかな。
こうでもしないと、花音さん来ないじゃん」
「………」
「高崎のおっさんから電話があった。代官山で会ったって。
普段着でホールのケーキ持ってたから、家に帰るんじゃないかって」
そう言われると、急に自分がすっぴんと普段着で零に会ってしまったことに今更ながら気付いて、恥ずかしさが込み上げた。
こんな日にこんな格好でなんて……普通ならありえないし。
雪乃があたしの目の前で一回転した姿を思い出した。
綺麗にドレスアップした雪乃。
零を迎えに行ったはずなのに……。
会えなかったんだろうか?
零は、最初からクリスマスパーティーに行かなかったのかな……。
訊きたいことは、沢山ありすぎる。
だけど。
一番訊きたいこと――。
「零……あたしのこと、知ってたんでしょ?
何で? いつから?」
前を向いて真剣な顔をしていた零は、目の前の赤信号で止まると、黙ってあたしの方を向きじっと見つめてきた。
そのまっすぐな瞳に、更にあたしの心臓は音を立て出す。
けれど、あたしも負けじと零のことを見つめた。
黙って零から瞳を外さずにいると、零はあたしの顔から目の前のフロントガラスへとゆっくり視線を戻した。
そして、ぽつりと言った。
「秘密……」
「は?」
「秘密っ」
「はぁ? なっ、何で!?」
前を向いていた筈の零は、あたしの座る助手席のシートに手をかけ、顔を近づけてきた。
ほんの10センチ先に零の顔があって、思わずパチパチと瞬きした。
あまりにも距離が近すぎて、ドキドキする――。
けれど零は、そんなこともお構いなしの澄ました顔つきであたしを見つめる。
「花音さんがアイツのこと、忘れたら話すよ。
そうじゃないと、フェアじゃない。
だってオレ、今の状態じゃあ、花音さんの遊びの相手なんでしょ?」
「あ、遊びって――」
「だって昨日、そう言ったの、花音さんじゃん?」
そんな……。だって、しょうがないじゃない……。
あのときは、そう言うしかないと思ってたんだし……。
言い返せないでいると、零はいつものようにようやく微笑んだ。
あの少し意地悪そうな顔で。
「今日は、付き合って貰うから」
「え?」
「いいよ。アイツが好きでも今は。
でも今日は、オレにちょうだい。花音さんの時間。
帰るなんて言うなよ?」
どきんと心臓が跳ねる。
それって、どういう意味で?
だってそんなこと、普通は何とも思っていない女の子には言わないよね?
そう訊きたいけれど、それは訊いてはいけないこと。
だから仕方なく、違う質問をした。
「どこ……行くの?」
「新潟」
「えっ!? 新潟!?」
あたしが大きな声を出すと同時くらいに赤だった信号は青色に変わり、アクセルが踏み込まれた。
身体が少し前に振られて咄嗟に目をつぶり、すぐに開くともう一度零を凝視した。
「新潟って――今から!? 車で!?」
「そーだよ。だから新幹線で行こうと思ってたのに、もう遅いよ。
花音さんが約束の場所にこないからしょーがないよね?
大丈夫。一応スタッドレス履いてるし、この車」
「だ、大丈夫って……そういう問題じゃ……」
「まー、事故っても本望だね」
「何わけ分かんないこと言ってるのっ!?」
そうこうやり取りしている間にも、車は環七通りから環八通りに移り、練馬方面へと向かう。
長い期間工事中だったこの道路も、工事も終わりすっかり整備されたせいか、クリスマスイブの夕方だっていうのに混み合う様子もなくすんなりと進む。
オレンジ色の夕陽が車内に入り込み零を照らすから、余計に眩しく見えて目を細めてしまった。
窓から見える空の上の方は既に紫掛かっていて、夜が近づいていることを証明しているかのような色に染まっていた。
片道3時間の長い道のりを、複雑な想いを乗せて車は走り出していた。