29
振り返った先にいた二人が、一瞬だけ誰だろうと思わせた。
でもそれは本当に一瞬で、すぐに零のバイト先のマスターと、昨日零の車を運転していた女性だと分かった。
今日はサングラスをかけていないのに。それなのにすぐにあの女性と分かってしまう自分に嫌気が差すくらい、昨日目に映ったあのひとコマが鮮明に焼きついていたから。
素顔の彼女は、女優といっても過言ではないほど綺麗な人だ。
白い肌に映える、きりりとした眉に切れ長なのに大きな瞳。
そこに色を持った昨日と同じ唇。
落ち着いた物腰で、高級そうなキャメル色のフラノのコートに身を包み、手に持つエルメスの黒いバーキンに引けを取らないいかにも大人の気品がある女性だ。
マスターと一緒にいるということは……零の、ではなくて、マスターの彼女さんなのかな……?
よくよく考えてみれば、そのほうが年齢的にもしっくりくる。
そうは思うのに、心臓の鼓動は早くなっていた。
それはやっぱり、零と一緒にいた女性だから。
どういう関係かなのか気になって仕方ない。
マスターは、あたしに近づいてくると優しく微笑んだ。
スーツにロングコートを羽織った姿のマスターは、この間バーで会ったときとは格好も違うせいか、大人の男性という感じだった。
「この間来たバーの……分かるかな?」
背の高い彼を、あたしは見上げた。
「はい。分かります」
「ごめんね、急に声かけて。
びっくりしたかな?」
「いえ」
「今日、まだ零と一緒じゃないの? 約束してるんでしょ?」
どきっとした。
マスターが、約束を知ってるの?
あの、と、言葉が出かかったところで、女性が口を開いた。
「ケーキ、零と食べるの?」
驚いて、思わずケーキの箱に視線を落とした。
零と、って――……。
「あの……これは……」
「零も好きなのよ、ここのケーキ。
近くで打ち合わせだったから、買って帰ろうと思ったの。
さすがにクリスマスケーキは予約でいっぱいだろうけど」
え……?
零も好きって? 買って帰るって?
零のためにってこと?
わけが分からず、多分眉間に皺が寄っていたと思う。
そんなあたしの顔を見て、彼女は理解したようにふっと優しく微笑んだ。
「ごめんなさい。紹介が遅れたわね。
私、零の母です」
「ええっ!?」
思わず大きな声が出てしまった。
零のお母さん!?
だって、二十代後半くらいに見えるけど!
零は義理のお母さんって、確かに言ってたけど、こんなに若い人なの?
それにアメリカにいるんじゃ……?
「今度、代官山に建てるお店の打ち合わせをしていたの。
あ、彼、高崎さんがオーナーなんだけど」
と、彼女は隣をちらっと見て合図するように言った。
高崎さんは口元に笑みを浮かべてみせる。
マスターじゃなくて、オーナーだったんだ。
まだ結構若い感じなのに。
「高崎さんとは、私も主人もお父様の代からのお付き合いで仲が良いからね、日本での零のことも彼に任せてあるのよ。
だからバイトも彼のお店でさせてもらってるの。あの子、無茶ばっかりするし、監視の目も兼ねて。高崎さんのことは零も信用しているから。
あなたのことは、高崎さんから伺っていたの。
ごめんなさいね、いきなり知った風じゃ驚くわよね」
伺ってたって……?
零があたしのこと、何か言ってたの?
ちらりと彼の方を見ると、意味を含んだような笑顔をする。
何か知っている、と言うような。
「本当はアイツ、今日バイト入るって言ってたんだよ。
それなのに先週かな? 急に休むとか言い出して。
僕にとって零は弟みたいなものだからね。
君と会う約束を取り付けたって言ってたから、渋々休み取らせたんだよ、今日」
「え、あの……?」
「あの日、零が君を連れて来たときはビックリしたよ。
でもすぐに分かったよ、零の言ってた人だって。イメージ通りの人で」
え?
今、何て……?
ちょっと待って……?
零の言ってた、って、何?
あの日より前から、あたしのことを知ってたってこと?
「あのっ、ちょ、ちょっと待って下さいっ! どういうことですか!?
零は――あたしのこと、あの日――初めてお店に行ったときより前から、知ってたんですか!?」
「あー……」と、高崎さんは口を開けて零のお母さんと顔を見合わせ、渋い顔をした。
「ごめんね。コレ、秘密だったっけ?
あんまり言うと零に怒られるなぁ」
「ひ、秘密って、何ですかっ?」
「ホント、ごめんね。これ以上は怒られちゃうし。
アイツ怒らせると厄介だからね」
高崎さんは首を竦めてみせた。
何で? どういうこと?
よく分かんないよ。
零はあたしのこと、前から知ってたの?
ぐるぐる考えを巡らしていると、高崎さんは言った。
「零、待ってるよ。行ってあげて。
今日の君との約束、凄く楽しみにしてたし」
待ってる? 楽しみ?
そんなはずないよ。
そう思うのとは反対に胸が高鳴る。
ぎゅうっと締め付けられて。
そして熱く零への気持ちが込み上げてくる。
「零のこと、よろしくね」
零のお母さんはそう言い、「じゃあ、また」と、あたしを残して二人は歩き出した。
すぐに雑踏の中に消えてしまった二人。
夕方になりかけた空気はもう冷えていて、寒さを増長させるような風がたまに強く吹き付ける。
それなのに、あたしの身体の奥では小さく疼く何か熱いモノがあって。
あたしは暫くそこから動けなかった。
車に戻ると、父は少しホッとしたような顔をした。
あたしがこんないつもとは違う状態なのだから、遅ければ心配するのは当然だ。
「遅かったな。混んでたのか?」
「うん……ごめんね」
助手席に乗り込むと、すぐに車内のデジタル時計を確認してしまった。
時刻は16時近くになっていた。
約束の時間はもう2時間も過ぎている。
待ってるわけないよ。あんなにはっきりと言ったんだし……。
それに、零、怒ってたし……。
当たり前じゃん。何を期待してるの?
嫌だ。もう。
雪乃のためにも、会わないって決めてるでしょ?
なのに、何でこんな風に思っちゃうの……。
もう、嫌だ……。
頭も心もぐちゃぐちゃだった。
どうしてあたしのことを知っていたのか、とか。
雪乃の姉だってことも知っているのか、とか。
本当はどういう気持ちなのか、とか。
零に直接訊きたくて堪らない。
だけど、会えない。
色んな想いが交互に込み上げてきて、どうしようもなく苦しい。
山手通りから国道1号線にと戻った。
大森の自宅へ向かって車は走る。
国道1号線は、反対方面に向かえば、約束の東京駅に着く。
けれど東京駅とは反対への道をひたすら進む。
約束の場所から遠ざかっていくほど、あたしは苦しくなっていった。
黙ってひたすら流れる窓の外を見ていた。
ビルばかりが並ぶ景色は冷たく感じる。
そんなあたしに、やっぱり父は何も言わず、行きと同じようにラジオの音楽に合わせて鼻歌を歌っていた。
あたしがケーキを取りに行って待っている間、そんな気楽な様子なんてなかったのに。
父なりの気の遣い方、なんだって、分かってる。
だからあたしも余計に口をぎゅっと結んで堪えていた。
膝の上のケーキの箱は、車が走る振動でかたかたと揺れ、両手で押さえている力がいつの間にかふと緩んで、膝の上から箱が滑り落ちそうになる。
はっとして、また掌に力を入れる。
帰り道はそんな調子の繰り返しだった。
いつのまにか、大森駅の近くまで来ていた。
X字型でピンク色の桜新町歩道橋の下を通り過ぎた。
「意外と道も空いてたな」
家までもうすぐなせいか、鼻歌を止めた父が言った。
「そうだね」
「帰ったら、きっといい匂いがするな。
お母さん、久し振りに花音のお祝いが出来るって、張り切ってたから」
「……うん」
嬉しいのと、悲しいのと、まぜたような気持ちが込み上げた。
そんな風に思うのは、母に申し訳なくて。
けれどやっぱり、零に会いたいほうが勝っていて。
そしてとうとう、箱が座席の下へと落ちた。
家の近くのコンビニが見えて、あのときの約束がまた鮮明に思い出されて、手の力が緩んでしまったから。
「おい、花音、お前大丈夫か?」
父はすぐにウインカーを左に出して、車を停車した。
「ご、めん……。
ケーキが……ぐちゃぐちゃになっちゃったかなぁ……」
あたしは、足もとでおもいっきり横になってしまった箱を持ち上げようと身体を屈めた。
手に取った箱にぽたりぽたりと丸く何か落ちた。
それが自分の涙だということに、一瞬気付かなかった。
「花音?」
父が心配そうに覗き込んでくる。
「ご、ごめん。平気、だから……」
ずずっと鼻を啜り、右手で涙を拭いながらかぶりを振った。
こんなの、心配かけちゃう。
「泣きたいときには、思い切り泣きなさい」
父の優しい声に、堰を切ったように涙が溢れ出した。
頭の上に父の大きな手が撫でるように一度優しく触れると、車はすぐに発進した。
本当は、誰かに話を聞いて貰いたい。
けれど、父に言うわけにもいかない。
それでも。何も言わなくても。
こんな風に心配してくれる父の存在は、あたしには大きすぎるくらいで。
涙は止まらず、次々に溢れ出してくる。
あたしは涙を止めるのは自然に任せることにして、シートとサイドガラスに寄りかかった。
コンビニから自宅までは、車だと1分かかるかかからないかだ。
最後の角を曲がって家まで直線の道路に差しかかると、「あれ?」と、父が不思議そうな声を出した。
あたしはその声につられ、窓から頭を離して顔を上げた。
「家の前に車が停まってる」
父のその言葉と同時に、涙で霞む視界を合わせるように大きく目が見開いた。
視界の先――。
家の前に停まっている、赤のミニ。
どくん、と、心臓が鳴った。
零?
嘘でしょ!
あたしの手の中から、またケーキの箱はするりと滑り落ち、座席の下で箱を歪めた。
けれどそのときは、そんなことにさえ気付いていなかった。
あたしが驚いて固まっている間に、父の車は自宅のすぐ手前に停まった。
赤いミニの前に。
そしてそこには、あたしが一番会いたいのに会いたくない、その人が立っていた。