28

ブラインドから徐々に明るい光が漏れ始め、時間だけが過ぎていくのを感じる。
ついさっきまで暗かった部屋が、瞼を閉じていても朝が来たと分かるほどの明るさになった。
眠りにつけず、ただ瞼を閉じているだけにすぎないあたしにとっては、その漏れてくる薄い光さえ眩しく感じる。

けれど、ベッドの上からは身体を起こす気にもなれない。
異様なほどの倦怠感。

涙は止まったけれど、腫れて重い瞼。
目を開ける事も拒否しているようで。

何時間こうしているんだろう。


あのまま――。
涙は止まらないまま、あたしは24歳の誕生日を迎えた。


12月24日。
クリスマスイブ。
――あたしの誕生日。



時間の感覚は麻痺していたけれど、いい加減に起きようかな、と思った。

シャワーでも浴びて少しはすっきりしようと、重たい身体を無理矢理起こした。
そして、ずっと握られたままだった右の掌を開いてみる。

――元気の出るお守り。

あたしはデスクの一番上の引き出しを開け、その奥へそっとしまった。
引き出しを閉めるとパスンと音が立ち、その音が胸にぽっかりと大きな穴をあけたみたいだった。
押し寄せてくる空虚な気持ちを封じるように、空になった掌をもう一度握り締めると、あたしは窓に向かいブラインドを上げた。
部屋の中が一気に明るくなる。
あたしの気持ちとは対照的に、今日もいい天気だ。
目に入りこむ太陽の光が眩しくて、また泣きたくなってくる。

大きく呼吸をして、今度はクローゼットを開けた。
一番手前にあったグレーのパーカとデニムを取り出した。
何を着よう、なんて考える気にもなれない。
綺麗な服なんて、それこそ着る気になれない。

クローゼットの扉を閉めようと、ふと目線を落とすと、隅におかれた紙袋が目に入った。

零のマフラーだ。
返そうと思って、紙袋に入れてあった。


どうしよう……返しそびれちゃった……。


また、蘇る記憶。
このマフラーを貸してくれたときは、いつも零があたしにかけてくれた。

暖かくて。
柔らかくて。

目頭が熱くなる。
ぶんぶんと大きく首を振って頭の中の残像を追い払うと、クローゼットの扉を閉めた。


……馬鹿。もうっ、泣き虫っ。
返す方法は、あとで考えればいいよ。


あたしはくるりと方向転換してバスルームへと向かった。








シャワーを浴び、遅い朝食を食べ終わった頃には、お昼近い時間になっていた。
雪乃が出掛ける支度でバタバタと忙しそうにしている。


「ねーねー、お姉ちゃん、髪型どう? 変じゃない?」


雪乃は、ダイニングテーブルで紅茶を飲んでいるあたしの目の前に立つと、その場でくるりと一回転して見せた。
昨日選んだワンピースの裾が、雪乃の周りでふんわりと舞った。

毛先をゆるりと巻きハーフアップにした髪が、いつものストレートの髪型と雰囲気が違っていて大人っぽい。
メイクも普段よりずっと丁寧に仕上がっている。
弧を描くようにカールした長い睫毛は元々大きな目を更に強調させ、陶器のような白い肌に明るいピンクのチークが映えて、その色味に合わせたピンクのグロスが艶やかに唇を彩る。
羨ましいと素直に思えるほど、雪乃は綺麗だ。


「大丈夫。すっごく可愛いよ」

「ホント? 変じゃない?
メイクは? 濃すぎてない?」

「大丈夫だってば。
絶対目立つんだろうな、雪乃。綺麗だよ」

「えっへっへ。ありがと。
でも褒めても何も出ないよ」


ちょっと照れくさそうに、あたしにはにかんで見せる。

可愛いな、雪乃。


けれどそう思うのとは裏腹に、胸はちくちくと針で突くように痛んだ。


きっと、誰もがそう思う。
零も……やっぱり、可愛いとか、思うだろうな……。


「あっ! もうこんな時間だ!」


雪乃は壁に掛かっている丸い時計を見上げながら言った。
時計の針は11時20分を過ぎたところだ。


「まだ12時前だよ。
もう行くの?」

「それがね! 聞いて!」


雪乃の顔が一気に嬉しそうに変わった。
大人っぽい表情から、えくぼを作った可愛らしい顔つきになる。


「昨日の夜ね、河西くんから電話があって、零んちに一緒に迎えに行こうって言ってくれたのっ!」


ずきりと胸に突き刺さるような衝撃が走った。


零の家に迎えに――。
てことは、やっぱりクリスマスパーティーに参加するんだよね……。

これで良かったんだ。
それなのに……何でこんなに胸が痛むの……。


「そ、そう……良かったね」

「うんっ」

「迎えにいくんだったら、一緒に行けるね」


そう言うと、つい今まで笑顔を浮かべていた雪乃は急に表情を曇らせた。


「どうかした?」

「うん……あたしが家まで迎えに行っていいのか、ちょっと不安なんだ。
河西くんは大丈夫って言ってたけど……」

「どうして?」

「……零ってさ、プライベートに絶対女を入れないから」


え?


「家にもバイト先にも女の子を絶対入れないって。あとが面倒臭いから、って。
後腐れのない付き合いしかしないらしいから、アイツ。女の子には表面上は優しいけど、超クール。
だから……あたしが家まで押しかけて、嫌な顔されたらヤダな……」


ちょっと待って……。

家にもバイト先にも入れない?

だって……。
じゃあ、あたしは?


とくんとくんと心臓が音を立て始める。


何で?
だって、あたしたち、あのとき初めて会ったんだよね?
どうして初めて会ったあたしを家に入れたの?


バーでマスターが言っていたことをふと思い出した。

『レイが女の子を連れてくるなんて、初めてですよ』

確かに――そう言っていた。


「ヤダな。お姉ちゃんがそんな顔しないでよ。
心配しなくても、河西くんが一緒だからどうにかなるよ。
あたしだけ外で待っててもいいんだし」

「……う、ん」


雪乃に答えながら、あたしの頭の中は違うモノで占領されていた。


それは――。
少なくとも、零にとってあたしは何か特別だったってこと……?


……どうしよう。
もう、ホントに……また泣きそうだよ……。


胸に込み上げてくる何かに締め付けられて。
でもそれは、苦しいのに甘くて切ない心地良いモノで――。

それを知ったからといっても、どうにも出来ないのに。


「お姉ちゃん」


雪乃は前屈みになって、大きな瞳であたしの顔を覗き込んできた。


「何か……せつなーい顔、してる。
あんまり無理しないでよ。目も腫れてるよ。
理由は分かんないけど、会いたいなら……会えるなら、彼とやっぱり会った方がいいよ」


あたしを心配するその澄んだ瞳に、ずきりと胸が痛む。
言葉が出なくて、あたしはただ首を横に振った。

雪乃は眉を寄せて真剣な目であたしを見据え、言った。


「だってさ、今日はトクベツな日でしょ?」


――トクベツ……。


「コレ。ハイ」


にこりと微笑んだ雪乃は、あたしに小さな箱を差し出してきた。
無地の紺色の包装に赤いリボン。


「え? 何?」

「お誕生日おめでとう」

「え……」

「開けてみて?」


雪乃は、テーブル上のあたしの目の前にちょこんとその箱を置いて、隣の椅子に腰を下した。


ビックリした。
だけど、嬉しい。


「……ありがとう」


あたしは箱を手に取ると、蝶結びされている赤いリボンの端を引いて解き、包装をゆっくりと外して、その小さな箱の蓋を開けた。
水色のふわふわした綿の上に、ドロップ型のピンクのガラスで出来たピアスが載っている。

あたしは片方摘んで、目の高さに持ち上げた。
揺れるピンク色のガラスが、窓から入る陽の光でキラキラと輝く。


「可愛い」

「でしょ?
おねえちゃん、きっと好きだと思って」

「うん、凄く好き。
嬉しい。ありがと」

「それ、昨日言ってたガラス工房で買ったんだよ」

「ガラス工房……?」


うん、と、雪乃が笑顔で頷く。

また複雑な想いが交錯する。

陽に煌めくそのピンク色のガラスが、ガラス工房での出来事をフラッシュバックする。
それと同時に零への想いと雪乃への想いが混ざり合って苦しくなる。

目に映るガラスを見ているのが辛くなって、あたしは目の前で摘まんでいたそのピアスを左掌の上に載せかえた。


「ねぇねぇ、お姉ちゃん、着けてみて?」


邪気のない雪乃の声が言った。

あの日から――啓人と別れた日から、ピアスは着けていなかった。
オシャレなんて頑張ってする必要がなかったから、わざわざ着けることもしなかったし、そんな気持ちにもならなかった。

うん、と答え、暫くピアスを着けていなかった耳の穴にそれを通すと、小さく刺すような痛みがあった。

「似合うよ」と笑顔の雪乃の言葉に、耳朶に走った痛みと似た痛みが胸にもあった。


と、突然、雪乃のバッグの中から携帯電話が鳴り出した。

慌てた様子で雪乃はそれを確認する。


「河西くんからメールだ!
もう家の近くだって!」


雪乃は少し頬を紅潮させて、興奮気味に椅子から立ち上がった。


「行ってくるね!」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

「うんっ」


雪乃はさっとコートを羽織ると、颯爽とキッチンを出て行った。
あたしはその背中を見送り、雪乃がいなくなったあともドアの閉まったキッチンの入り口を暫く見つめていた。








そのあと、あたしは部屋でぼんやりと過ごした。
つけっぱなしのテレビではクリスマスの特集を何かやっていたけれど、もちろん内容なんてどうでもよくて、頭になんかこれっぽっちも入ってなかった。
けれどシンとした音のない空間にいると、息が詰まって余計に色んなことを思い出してしまうから。
だから、音と映像さえ流れていればそれで良かった。

14時頃、父が部屋に来て、「ケーキを取りに行こう」と、一緒に車に乗り込んだ。

向かうキルフェボンの代官山店。

あたしは、父の運転するハンドルの横にあるデジタル時計を無性に何度も見ていた。
ざわざわと気持ちは落ち着かなくて。

零と約束した時間はとうに過ぎている。
行かない、とも言ってあるんだから、約束だってもう無効のはずなのに。

けれど、もしかしたら約束の場所で彼が待っているんじゃないか、と。
どこかでそんな気持ちも残っていて……。

車内では、毎年やっているラジオの音楽チャリティー番組が流れている。
父は、ステレオから流れる曲に合わせて鼻歌を歌っている。家を出たときからずっと。

明らかに様子がおかしいあたしに、父は何も訊かないでくれている。
会話がないのも、きっと気を遣ってのこと。

でもそれは、啓人とのことで、だ。
会社が休みだっていうのに、誕生日に彼氏と合わないなんて、何かあったのかと勘繰る方が普通だ。


やっぱり、別れたことをきちんと言わなくちゃ……。
両親にも紹介した人なんだから。


国道1号線から山手通りに入る。
このまままっすぐ進むと中目黒だ。

零のバイト先まで近いな、なんて考える。


嫌だ。あたし……またそんなこと……。


フロントガラスの向こうに目黒署が見えてきた。
代官山までも中目黒までも、もう目と鼻の先だ。
あたしはずっと結ばれたままだった口を開いた。


「ねぇ、お父さん。
あたし、啓人とは別れたの」


父の鼻歌はそこで止まり、車内にはマライア・キャリーの『All I Want For Christmas Is You 』が流れる。
今の空気に酷く不似合いなその曲が、毎年クリスマスの定番だな、なんて沈黙の間考える。


「そうか」


父は小さく答えた。


やっぱり、分かってたんだよね……。


「会社も辞めようかと思って……。
でも、それは別れたことが原因じゃなくて……。
確かにきっかけではあったけど、でも、自分で出来る何か、見つけたくて」


父は、すぐには答えなかった。
そして少しの沈黙のあと、前を向いたまま言った。


「好きにしなさい。お前の人生だ」


反対されるかと思ってたのに。


意外な言葉に驚いた。
それと同時に、温かいものが胸に込み上げてきて、涙がじわりと浮かび出す。


あたしって、ホント泣き虫だ……。


ぐっと堪えて車のシートに頭を委ね、父に涙を見られないようにサイドガラスの外を見つめた。
後ろに流れていく街の景色はぼんやりと滲む。

マライアの透通った歌声が、父の気持ちと一緒になって沁みわたり、余計に苦しい。


「ケーキ食べて元気出しなさい。
そのためにわざわざ花音の好きなケーキを予約したんだから」

「……うん」


父に答えた声が、掠れた。






店の近くまで来ると「路駐して待ってるから取りに行ってきて」と父に言われ、あたしは一人急いで店に向かった。

クリスマスイブで日曜日の今日は、やっぱりいつもより人も多くて、あたしは人を避けながら歩いた。

仲の良さそうなカップルばっかりが目に付いてしまう。
女の子同士のグループだって、皆お洒落して、楽しそうだ。
こんな日のせいか、皆が浮き足立っている気がする。

洗練された街並みには、地味で不釣り合いなあたし。

結局、メイクする気もおきなくて、すっぴんに髪だって洗い晒しのままで。
ダウンジャケットにパーカ、デニムにスニーカー。

家からちょっと出てきましたという格好は、いかにも彼氏がいなくて一人です、って主張してるみたいだ。


店でケーキを受け取ると、ふと、雪乃の言っていたことを思い出した。

『あたしの分も取っておいてねっ!』

と言っていたこと。

それと一緒に、雪乃の笑顔も思い出された。
いつもよりもずっと丁寧に大人っぽくメイクした雪乃の顔。

髪を纏めた細い首のライン。
爪の先まで念入りに手入れされたしなやかな指。
そんなところまで思い出されて、雪乃と大違いの自分に情けなさが込み上げる。


雪乃、どうしたかなぁ……。
零にちゃんと会えたのかな……。


ホールのケーキが入った箱を持つ、マニキュアの剥げかかった自分の指を見つめながら店をあとにした。

もう夕方に差しかかろうとする空が広がっていた。
陰った道路に、少しオレンジ味を帯びた雲と空。

はぁ、と、また小さな溜め息が漏れる。


何だか、泣いたり溜め息吐いてばっかりだ、あたし。
これじゃあ幸せだって逃げるよね……。


そう思いながら父の車に向かう一歩を踏み出すと、後ろから


「花音さん?」


と、あたしを呼び止める声がした。

update : 2007.01.〜(改2010.12.03)