27
コールの数と心拍数が増えるだけでなかなか相手の反応のない電話を、切ってしまいたくなる衝動に駆られる。
そしてそこでまた、駄目、と思い直し、携帯電話を強く握った。
突然耳元の音が途切れ、ハッとする。
『ハイ』
零の声。
その声が頭の中に響くと同時に胸のあたりが締め付けられて、何かが込み上げた。
頭では否定したいのに……ううん、否定しなくちゃいけないのに、押し寄せてくる気持ち。
意気込んでかけたのに、頭の中が真っ白になって、何を言っていいのか分からず黙り込んでしまった。
『花音さん?』
「はっ、はい」
名前を呼ばれて、つい返事をしてしまった。
落ち着いた柔らかい口調だったから。
『声聞くの、一週間ぶり?』
「……う、ん。そうだね……」
『元気にしてた?
仕事、忙しい?』
「今日は……休日出勤だったの」
『そっか。お疲れ様』
「零は?」
『今、バイトの休憩中なんだ。
だから、タイミング良く電話に出られて良かった』
「うん」
何だか、あんなに緊張していたのが嘘みたいで。身体の力が抜けた。
だって、あまりにも優しい声があたしの耳の奥に響いていく。
今日のことも、この間のメールのことも、何事もなかったかのような普通の会話。
心がホッとして温かくなる零の声。
何気ない世間話と、自然と笑みが浮かぶ会話が続く。
だから、切り出しにくい。
零も、何も触れてこないし。
大切な話があるときって、どうして関係無い話で繋いでしまうんだろう。
――でも。
楽しくて、心が温かくて、甘い気持ちでいっぱいになる。
ずっとこんな風でいれたらいいのに……。
せめて、あと少しだけ……。
こんなこと、思ってはいけないことなのに。
けれど、気持ちにまで嘘は吐けない。
零は――どう思ってるの?
あたしと同じような気持ちでいてくれてる?
それとも、これは常套手段?
厄介事には目を瞑って、楽しければそれでいいって、女の子にはそうしてるの?
それとも――あたしには興味がないから……どうでもいいから、何も訊いてこないの……?
そう思うと、無性に胸が苦しくなった。
思わず瞼をぎゅっと瞑った。
……もう、じゅうぶんじゃん。
これ以上、望んだら駄目だよ。
零がいてくれなかったら……あたしは、こんな風に立ち直ってなかったはず。
それだけで、じゅうぶん。
もう会わないって、決心したじゃん。
そう思ったとき「時間だ」と零が言った。
タイミングがいいのか悪いのか――。
楽しい会話も、ここで終わり。
そして、やっぱり何事もなかったかのように零は言った。
『じゃあ、明日ね』
零のその言葉に、また胸が締め付けられた。
――本当、タイミングがいいよ、零。
あたしは一度固唾を飲んで、元気の出るお守りを包んだ掌に力を込めた。
言わなきゃ――。
「零」
『うん?』
「もう、会えないよ。明日は行けない」
唇は微かに震え出した。
声まで震えないように、携帯を持つ手をもう一つの掌で、元気の出るお守りと一緒にぎゅっと抑えた。
『……何で?』
「今日、見たでしょ?
あたし、やっぱり元彼が忘れられないの。彼が結婚するとしても、それでもいいの。
だからもう零とは会えない。
違う男の人と会っても、あたしには意味ないし」
『何だよ、それ……』
呆れているのか、低い声で呟くように零が言った。
「だから、ごめんね。せっかく企画してくれたのに」
『そーゆー問題じゃなくて、オレは――!』
戸惑いを見せる零の声をあたしは遮った。
「あたしが誕生日に会いたいのは、一人だけなの」
言葉尻が、微かに震えていた。
喉元がぐっと圧迫されて熱くなり、目頭が痺れる。
泣いちゃダメ。絶対に。
涙を必死で堪えて携帯を持つ手に力を入れる。
『忘れたいって、言ったのに?』
「ごめん……」
『指きりだってしたのに?』
「ごめんなさい……」
『オレの気持ちは……無視、かよ……』
言葉が頭に響いた。
零の感情を垣間見た気がして、心臓に突き刺さるような衝撃が走った。
まっすぐ伸びていた膝は急にがくんと折れ曲がり、床に滑りこむように身体が落ちた。
勢いよく衝撃を受けた膝の痛みを感じるよりも、もっと大きな痛みが胸に走っていた。
それでも、あたしは続けた。
「零は、遊んでくれる女の子、沢山いるでしょ?」
『だから、何だよ、ソレ』
「あたしじゃなくても、いいでしょ?」
『本気で言ってるの?』
さっきまで優しかった口調がキツクなる。
ズキリと心臓が痛んだ。
だけど、言わなくちゃ――。
「あたしたちって、そういう関係だよね?
少なくとも、あたしには、そう」
『……マジ、かよ……』
零は、それきり黙ってしまった。
沈黙が重く圧しかかる。
元々、そこに恋愛感情なんてなかった。
言葉通り、そんな始まりだった。
友達でも恋人でもない、それ以下の関係。
嫌われて、もう会いたくないと思われればいい。
今なら啓人の気持ちも、少し分かるよ……。
「もう、会うの、やめよう。
もう、必要ないよ」
あたしは、そうハッキリと言った。
また、沈黙が落ちる。
耳に触れている携帯からは、雑音が聞こえる。零がいる、街の音。
『……分かった』
零がそう小さく言ったあと、電話は切れた。
通話中の電子音に変わる。
繰り返し鳴るのは、無機質な冷たい音。
街の音は、もう聞こえない。
電話の向こうに、零はもういない。
相手がいなくなってしまった携帯電話を、暫くそこから離すことは出来なかった。
電話が切れた途端に堪えていた涙は溢れ出し、ぽたぽたとフローリングの上に水玉を作っていくのに――。
止まることを知らない涙と嗚咽。
瞳から頬、顎を伝わる涙が、妙に生温かく感じて。
倒れそうになったあたしを支えてくれた、大きな手。
一度だけ触れた唇の感触。
きゃーきゃー言いながら乗った、零の車の助手席。
濡れないようにと巻いてくれたマフラー。
「花音さん」と呼ぶ甘い声と悪戯っぽい極上の笑顔。
誕生日の約束をした指の温かさ。
零との少ない思い出が、頭の中にひとつずつどれも鮮明に現れる。
本当に……もうじゅうぶん、色んな気持ちもらったよね……。
いつの間にか、床に落とした携帯電話。
そんなことも気付かないまま、とうとうあたしは声を上げないように我慢していたことを放棄して、子供のようにわんわんと泣いた。
けれど、右手に持ったままの元気の出るお守りは、握り締めたまま放すことは出来なかった。