26

「花音、食欲ないの?
具合でも悪い?」


母は、箸が止まったままのあたしの顔を心配そうに覗き込んだ。


「……あ、うん。そんなんじゃ、ないんだけど……」


あたしはそう答え、手に持ったままの茶碗からひとくち分箸ですくい取り、口に入れた。
もそもそと顎を動かすけれど、今、味はあまり感じられない。


夕食の時間。
土曜日だというのに、珍しく家族全員が揃う食卓。

色んなことが頭の中を巡って巡って、箸はなかなか進まない。


「花音は明日、家にいるんだろ?
お父さんなぁ、キルフェボンのケーキ、予約しといてやったぞ。
フルーツタルトより、クリームチーズと生クリームのヤツの方が好きなんだよな?」

「ええ!? マジっ!? あたしの分も取っておいてねっ!」


あたしより先に、雪乃が興奮して父に答えた。


明日――。
雪乃は学校の友達の家にみんなで集まり、クリスマスパーティーだそうだ。
何でも相当お金持ちの子の広い家で、かなりの人数が集まるらしい。
「オールだから帰らないよ」と、さっき父と母に言っていた。


零は、行くのかな……?

あたしは会わないって言ったし……。
啓人と一緒のところも見られたし……。

それに、一緒にいた年上の女性――。

あのひとは、零の何?


また箸が止まったまま、テーブルの上の白いご飯を見つめる。
ひとくち食べたきりのハンバーグ。ドレッシングもかけずじまいのトマトとレタスのサラダ。

結局お昼も食べ損ねたっていうのに、お腹が空くどころか食べる気力もない。

奈緒子と薫ちゃんには「会社に戻ったら、たまたま具合が悪くなった人がいて、病院まで付き添った」と言って謝った。

けれど奈緒子は、その理由に違和感を覚えていたようだった。
深く訊いてこなかったのは、きっと薫ちゃんが一緒だったから。

明日から奈緒子は彼と北海道に行くこともあって、今は、零への想いに気付いたことも、啓人のことも、気が引けて言えなかった。


奈緒子が帰ってきたら、ゆっくり話を聞いてもらおう。
会社を辞めて学校に通おうかと考えていることも、まだ言ってないし……。


皿の上をぼんやりと見つめながら、箸でハンバーグをつつくように切り分けていると、父が「花音」と言った。


「明日はお父さんと一緒にケーキ取りに行くか?」

「あー、うん。ありがと。
じゃあ、一緒に行く」


外に出れば、きっと少しは気が紛れる。
ずっと家にいると落ち着かないだろうし……。

久し振りに家族と過ごす誕生日とクリスマスは、ゆっくりと安らげていいのかもしれないな。


そう思うと、ほんの少しだけ気分が軽くなった気がした。
冷めかけたハンバーグをようやく口の中に入れると、向かいに座る雪乃があたしをじっと見つめているのに気付いた。

目が合うと、何か言いたげだった顔は、にっこりと微笑んだ。


「ね、お姉ちゃん、服貸してくれる?
明日のパーティーに着ていくヤツ」

「うん。いいけど」

「じゃ、ご飯食べたら部屋行くね」

「うん」


珍しい。雪乃が服を貸して、なんて。

雪乃は大人っぽいといっても、やっぱり高校生なりにカジュアルな服装が多い。
あたしは逆にコンサバっぽいお姉さん系の方が好きだし、年齢の差もあるせいか洋服の趣味は違う。
だから、普段はほとんど服の貸し借りはない。


やっぱりトクベツなんだよね、クリスマスって。
大人っぽい格好がしたいのかもしれない。
お洒落した、いつもと違う自分になって、好きなひとに会いたい、って――。

そんな気持ちは、じゅうぶん過ぎるくらい理解出来る。


また気分が落ち込んだ。

明日は零に会わないと決めているのに。
会いたいという気持ちが、反対に湧いてきてしまう。


本当は会いたい……。
零の笑顔が、見たいよ……。


あたしはやっぱり、目の前のご飯を口に運ぶことが出来ず、「ご馳走さま」をして先にキッチンを出た。



部屋に戻る階段をゆっくりと上り始めた。
階段の中腹の踊り場に爪先が触れたとき、上から電子音が聞こえてきた。


携帯――。
あたしの携帯が、鳴ってる。


そう気付いた途端、あたしは何かに掻き立てられるような気持ちになって、急いで階段を駆け上がった。
電話の相手が零じゃないかと、そう直感で思ったから。

心臓が早鐘を打っていて、部屋までのほんの数秒の距離が妙に遠く感じる。

辿り着いた部屋の、ドアノブに手を伸ばした。

けれど、そこに触れた瞬間、電子音は止んでしまった。

ドアノブに触れた手をゆっくり離し、胸の前でぎゅっと握り締める。


……あたし、何やってるの?
たとえ電話が零からだとしたって、出るわけにはいかないのに……。


急に身体を倦怠感が襲う。
長く溜め息を吐き出し、のろのろとドアを開けると、照明のスイッチを入れて部屋に入った。

そして、床の上に置いてあるバッグの中の携帯電話を取り出し、ディスプレイを開いた。

不在着信には『零』の文字。


零……。


着信の表示を、暫くの間何もせずにただ見つめる。

コンコンというドアをノックする音がいきなり聞こえ、びくりとした。
あたしは慌ててバッグに携帯を滑り込ませた。


「お姉ちゃん、入っていい?」


言葉と半分同時に部屋のドアが開き、雪乃が覗き込んできた。
携帯を見られずに済んで良かった、と思う。
だって、まだ、元気の出るお守りは付いたままだ。


「雪乃……もうご飯終わったの? 早いね」

「お姉ちゃんが異様に遅かっただけで、あたしは普通の早さです」


と、雪乃は部屋に入ってくると、そのままベッドの上に勢いよくボンと腰掛けた。
そして、あたしをじっと見つめてきた。

雪乃の二つの瞳に、あたしの心臓はドキドキと脈打ち始める。


「……な、に?」

「元気ないね、お姉ちゃん」


そう言われてどきっとする。


「……そう、かな。普通だよ」

「普通じゃないよ。
ねぇ、明日会わなくていいの?」


更に心臓が跳ねた。

雪乃が零との約束を知っているはずはないのに。

それなのに一層心臓の音は速まる。


答えられないあたしに、雪乃は更に問いかけてくる。


「お姉ちゃんは、好きじゃないの?」


雪乃の目が見られなくなって、あたしは俯き、きゅっと唇を引き結んだ。


どうしよう。
何て答えればいいんだろう。


「そんな顔しないでよ。
会いたいなら会えばいいじゃん、マフラーの人」

「あ……」


マフラーの人。
ああ、そっか……。


身体の力が抜けて、ほっと息を漏らした。


「いいの。そんな関係じゃないから」

「何で?
強がってもイイコトなんかないよ?」

「強がりとか、そういうのじゃないし……」

「何、それ? 分かんないなぁ。
だって好きなんでしょ?
そういう顔、今してたよ?」


そういう顔……?


あたしが黙ったままでいると、雪乃は釈然としない表情で首を竦めたあと、立ち上がってクローゼットに向かい、ドアを開いた。


「服、見せてね」

「うん。好きなの使って」


雪乃がクローゼットの中を眺めている後ろで、あたしは入れ替わりにベッドの上に腰掛けた。
鼻歌を歌いながら雪乃は、嬉しそうに服をあれこれ手に取る。
あたしはそんな雪乃の後姿を見つめると切なくなった。


奈緒子にもさくらにも……雪乃にまで好きなんじゃないか、って思われてるなんて……。
自分がちゃんと気付いてなかったのに。
あたし、本当にそんな顔してるのかな……。

もう、こんな気持ち、封じ込めなきゃならないのに……。


「ねー、お姉ちゃん、コレどう?」


振り向いた雪乃が身体に合わせて持つワンピース。
ピンクの――。


「それは駄目っ!」


はっと気が付いたときには、あたしは咄嗟に立ち上がってそれを奪い取っていた。

ピンクのツィードのワンピース。
だってそれは、零と初めて会ったときに着ていた服――。


「ご、ごめん……」


雪乃は目を丸くして驚いている。


どうしよう……何て言えば……。


何も言えずに目の前の顔を見つめていると、雪乃は急にふふふっと笑い出し、あたしはその笑いがどういう意味なのか、すぐに理解出来なかった。


「何だぁ、やっぱりお気に入りのコレを着て、彼に会いたいんでしょ?
意地っ張りだなぁ、お姉ちゃんは」

「そ、そんなんじゃ」


このワンピースを雪乃が着ていたら、あたし達が姉妹って零に分かっちゃうかもしれないし。

でも、この場合は、話を合わせておいた方がいいのかな……。


雪乃は首を傾げる。


「じゃあ、何で駄目なの?」

「何で、って……」

「森さんのこと、気にしてるから?」

「……大人には、色々あるの」


雪乃は「ふぅん」と小さく唇を尖らせて腕を組んだ。


「ねぇ、お姉ちゃん、あたしだったら好きな人にまっすぐ進むよ。
だって、大事なモノ、失くしちゃうかもしれないんだよ?」


大事なモノ……。


あたしは、ワンピースを胸元に抱えた。

雪乃は、あたしの顔からふいにそこに視線を落とすと、静かに言った。


「零には、好きな人がいるのかもしれない……」


眉を寄せ、唇を噛み、ワンピースに視線をやったまま泣くのを堪えるように目を細める。

そんな雪乃の顔を見て、胸がぎゅっと苦しくなった。


零の、好きな人――。


「この間ね、零が新しい携帯ストラップつけてて……それが凄く欲しくて、ちょうだいって言ったの。
そしたら、恋愛のお守りなんだ、って、大事だからダメだ、って……。
まあ、貰えないのは当然のことなんだけど、でもどうしてもお揃いのが欲しくて、じゃあせめてお店を教えて、って言ったのね。
なかなか教えてくれなかったんだけど、あたしも恋愛のお守りが欲しいからって言って、しつこく訊いたんだ。
何かね、手作りの一点ものらしいの。同じものは無理でも、似たのはあるんじゃないかって、雪乃は特別、って、お店教えてくれたんだけど……」

「………」

「それでも、違うものじゃ、意味ないの。
どうしても同じものが欲しかったの。
だから、お店に電話したの。嘘ついて」

「嘘、って……?」

「この間買ったんだけど不注意で失くしちゃったって、同じものじゃないと駄目だから作ってくれって、頼んだの」

「頼んだ……」

「お店の人、ちゃんと覚えてて……作ってくれたんだ」


そう、だったの……?
零が、雪乃にあげたわけじゃなかった……。

勝手に疑って誤解して、酷いなんて思って……零は悪くないのに。
あたしと同じように大事にしてくれてたなんて……。

胸に熱いモノが込み上げてくる。


だけどね、と、雪乃は言った。


「あたしが電話してもお店の人が不審がらなかったのは、買ったとき、女の人と一緒で、その場で交換したみたいなの。
だからあたしのこと、その女の人だと勘違いしたみたい。
せっかくお互いに交換したのに、片方が失くしたら意味がないものね、って――これで二人がうまくいかなくなっちゃったらそれも困っちゃうわ、って――お店の人、冗談交じりに笑ってそう言ってた。
あたし、だからね、その人の妹って、お姉ちゃんは忙しくてなかなか取りに来られないから代わりに来たって、そう言ってストラップを取りに行ったの。
そしたらね……そのときもお店の人、言ってた。彼はお姉さんのこと、きっと大事にしてくれるわよ、って……。
交換して大事に持ってて……そんな風にお店の人にまで言われるくらい……零はきっと、その人のことが好きなんだよね……」


雪乃の瞳には大粒の涙が浮かび上がっていた。
それはみるみる溢れ出し、頬を伝い、細い顎から床にぽたぽたと流れ落ちた。


「こんなことまでして……自分でも馬鹿みたいなことやってる、って思ってる……。それは、分かってるの……。
でも、諦めたくないの。好きなの。
ずっと恋愛出来なくて、やっと好きになった人だから、後悔したくないの。
前に、進みたいの……」

「雪乃……」


涙を流しているのに、雪乃の顔は凛としていて綺麗だった。
それは、きちんと自分の気持ちを貫き通したいという決心した顔で。


ごめん……ごめんね……。

あたしは、何をやって、何を迷っているんだろう……。


あの事件のあと、雪乃は暫く学校へも行けなくなり、父以外の男の人との会話も普通に出来なくなった。

雪乃のそれからの中学生活は最悪なものだった。
あんなに明るかった雪乃は毎日自室に閉じこもり、笑顔も無くなり、泣いてばかりいた。
食べ物も殆ど口にせず、元々スリムな身体はすぐに病的に骨ばっていった。
学校では好き勝手な噂も広まり、麻衣ちゃん以外の友達とは疎遠になり、誰に対しても疑心暗鬼になっていた。

高校に入り、自分の過去を知る人もいなくなってやっと、少しずつ、少しずつ、気持ちも身体も回復していき、ようやく今は普通にクラスメートとも話せるようになった。
元々綺麗で目立つから男子にもモテたのに、優しくは出来なくて、高飛車だとか言われて誤解されているって、麻衣ちゃんからも聞いたことがある。

「オトコなんて皆同じ。オトコなんて嫌い」よくそう言っていた。

そんな雪乃が、心を許して好きになった人――。
零が女たらしと噂されていても、それでも……それでも好きになったのだから、余程なのだろう。

雪乃があたしと零の関係を知ったら、どれだけ傷付くか計り知れない。
立ち直れなくなって、本当にもう恋なんて出来なくなってしまうかもしれない。


あたしは震える手を伸ばし、雪乃の頬の涙を拭った。
そして、細くすぐに折れそうな肩を抱きしめた。

雪乃は一度瞳を閉じ、あたしの肩にそっと凭れ掛かった。
雪乃のあの甘い香りがふと鼻を掠めて、また胸が押し潰されそうになる。


零の好きな人――。
それがあたしだなんて、考えたことなかった。

使命感って言っていたし、あんな出逢い方をして、無理矢理ひと晩付き合わせて。

だけど零は、確かにあたしに対して誠実にしてくれた。優しかった。

だから、あたしも好きになったんだ。


……でも、もうオシマイ。
雪乃の気持ちを踏み躙るわけにはいかない。

過去にあんなことがあっても、やっと好きになった人。
雪乃はこんなに頑張っているのに。
当事者じゃなきゃ絶対に分からない辛い気持ちを乗り越えているのに。

もし……もし本当に零があたしのことを好きだとしても、雪乃のことは少なからず零にとって大事な存在みたいだし……。
あたしが手を引けば、二人は上手くいくかもしれない。


「ねぇ、雪乃?」

「……うん」

「零くんに、その女の人のことが好きって、言われたわけじゃないんでしょ?
この間、雪乃は特別かも、って言ったじゃない。
だから、頑張れば、きっと上手くいくよ。
だから、負けないで」


雪乃は「ありがとう」と小さく呟くように言って、あたしに凭れていた頭をゆっくりと離した。
さらさらの髪が頬に柔らかく触れた。


「お姉ちゃんは、いつもあたしの味方でいてくれるね。小さい時からずっと……。
あたしが辛い時にはいつだって傍にいて抱きしめてくれる。
だからあたしは、今、前向きに頑張れるんだ」


雪乃はそう言って涙を拭うと、あたしに微笑んだ。

その可愛くて切ない微笑みを見て、また胸に何か突き刺さったような痛みが走った。
雪乃に申し訳なくて仕方なかった。





そのあと、明日のクリスマスパーティの服を二人で選んだ。

パーティーには、零の小等部からの親友だという龍司先輩とその彼女、同じクラスでいつも一緒の河西くんも来るから、零も絶対に連れてきてと、お願いしたらしい。

「零が来るかもしれないってだけで、参加女子が多いんだって。
あたしも、まさにその一人だけど」

と、雪乃は言う。

来るのかハッキリと分からないのに、彼のために頑張って綺麗にして行こうとしている雪乃が愛しかった。


せっかくだから完璧にドレスアップしよう! と、選んだのは、グレースコンチネンタルの白いシフォンのワンピース。胸元にパールと大きなリボンをあしらってあり、裾はふんわりと幾重にも重なり、優しく女性らしい雰囲気を持つ。
それに、ブルーフォックスのファーマフラーを合わせて華やかさをプラス。
足元は、シンプルだけど上品な、ルブタンの黒のパテントパンプス。

試しに合わせて着てみると、雪乃はあたしよりもずっと似合っていて、大人っぽくあるのに可愛らしかった。

「凄く可愛い」と喜ぶ雪乃は本当に綺麗で、誇らしいと同時に、どこか惨めな気持ちがあたしの心の奥底に生まれていて――そんな自分に嫌悪感が湧いた。




雪乃が部屋を出て行くと、あたしは、さっきバッグに入れた携帯電話を取り出した。


――『約束したじゃん。とにかく待ってる』

零からきたメール……それ以上の返事をしなかったのは、あたしの中にどこか少しでも会える可能性が欲しかったのかもしれない。
曖昧な部分をほんの数ミリでも残していた。

だから――きちんと明日は会わないと言ったら、零はパーティーに行くかもしれない。


あたしは、少しの間、零からの着信履歴を見つめた。


あたしから、ハッキリ言わなくちゃ。
メールなんかじゃなく、ちゃんと……。


一人きりになった部屋は静かで、時計の針の音が妙に耳についた。
あたしはその小さな小さな音の中で、携帯に付いている元気の出るお守りを外した。

それを握り締め、意を決して、通話ボタンを押した。

耳元に携帯電話を当てると、急に指先が震え出す。
心臓の脈打つ音が強く身体中に響き、壊れるんじゃないかと思うぐらいそれは大きかった。

不安な気持ちとは関係なく、携帯の電子音が繰り返される回数が増えていき、あたしはその音がひとつ増えるたびに、零が電話に出ることが怖くなっていった。

update : 2007.01.〜(改2010.10.21)