25
涙が溢れて止まらなかった。
啓人の真実を知っても、戻りたいという気持ちは湧き出てこない。
啓人が好き、ではなく、好きだった、という過去形の想い。
もし、あのとき零と出逢ってなければ、今、どんな気持ちになったのだろう。
何かを恨まなくてはならなかったかもしれない。
でも。
あたし達は、出逢ってしまった。
あたしは、零を好きになってしまった。
たとえこの気持ちが報われなくても。
開かれてしまった箱の蓋に鍵をしなくてはならないとしても。
――それでも、零が好き。
それが今のあたしへの救いでもあって、啓人と啓人の両親への負い目でもある。
どうして啓人は、あんなに冷淡にあたしを切り捨てたのか。
それは、あたしが啓人のことを恨んで嫌いになって、振り返ることなく次にすぐ進めるため。
あたしが背景を知ったら、気持ちを切り替えられないだろうから。
何で、もっとちゃんと信じてあげられなかったんだろう……。
二年も付き合っていて、あたしのことを大事にしてくれて、優しい人だと、知っていたのに。
啓人にとって、別れを切り出すことが、本当はどれだけ辛かったのか。
そこに至るまでの葛藤も、どれだけあったのか。
想像がつくだけ、自分の馬鹿さ加減に頭にくる。
分かってあげることも、気付いてあげることも、出来なかった。
あのとき、啓人を信じていれば――。
けれど。
今更もう、どうにも出来ないよ……。
ぽたりぽたりと、白い床に丸く涙の輪が落ちていき、視界は全て滲んだ。
「花音さん……泣かないで……」
啓人のお母さんは、涙を浮かべながら心配そうにあたしを覗き込み、さっき渡したハンカチをあたしに差し出してきた。
受け取ることも、答えることも出来ずにいると、「お願いよ」と、優しい声が言った。
涙に濡れた瞳は悲痛の色味を含んで、けれど透明で、あたしをまっすぐに見つめてきた。
あたしは、差し出されているハンカチを受け取り、涙を拭った。
「元気になって下さい……絶対に……」
「……ありがとう」
あたしは……何もしてあげられない。
何一つ、出来なかった。
自分の無力さが、胸をぎゅうぎゅうに締め付けた。
そのあとすぐに啓人は病室に戻って来た。
涙を流しているあたしとお母さんを見て、きっと話していた内容を察したと思う。
小さく温かなペットボトルのお茶をこちらに手渡しながら「下まで送ってく」と、あたしを帰るように促した。
病室を出て、無言であたし達は歩き出した。
病院内は昼食の時間のようで、すでに食べ終わった患者達が、会話をしながら自分の食事のトレーを配膳車に運んでいる姿が見える。
すれ違ったパジャマ姿の女性二人は、大きな笑い声を廊下に響かせた。
弾んだ会話。それはとても楽しそうで、私服を着ていたら、何か病気を患っているなんて、きっと気付かない。
そう思うとまた胸が痛んで、奥歯を噛み締めた。
エレベーターを使って一階まで降り、中庭の見える廊下を通った。
来たときと同じ道なりだけれど、さっきは余裕がなかったせいで、中庭の存在なんて気付かなかった。
緑に癒やされ、池の鯉に楽しめるような――そんな、あたしの中の病院の中庭というイメージとは、違った。
背の高いビルに囲まれ、そのもっとずっと高みに青い空が広がる。
都会的でスタイリッシュだけれど冷たい感じがして、あたしは窓の遠くの空を眺めやった。
一歩前を歩く啓人の足が、ふと止まった。
気が付いたあたしの足も、そこで止めた。
「ちょっと、話出来るか?」
全面の窓からの光で、柔らかく言った啓人の顔が、眩しかった。
「……うん」
廊下から中庭に向けて放たれたドアから外に出て、一番近くの空いている椅子に二人で腰かけた。
風もない今日は、日差しがとても暖かい。
少しの沈黙のあと、啓人が口を開いた。
「お前のことだから、どうせ、お袋に自分のせいだとか言ったんだろ」
「え……」
「おまえって、そういうヤツだよな。分かってる……」
「……そんなんじゃ、ない……」
かぶりを振ったけれど、啓人はあたしを見ながら言った。
「分かってる」
「………」
「俺は、お前のそういうところが好きだった。
自分より他人のために何かするところ。
自分のことには消極的なくせに、人のことに関しては頑張れるところ」
ふっと、優しい笑顔をみせる。
啓人は……こんな風に、いつもあたしのことを理解してくれてたんだよね……。
「啓人」
「……うん」
「どうして……お母さんの病気のこと、言ってくれなかったの?」
啓人は、あたしの質問に少し悩んだように視線を落とした。
視線の先に、緩やかな風でカサカサと枯れ葉が音を立て踊る。
「付き合い出したとき、まだお前って若かったし、こういうの重たいかなって。
で……最初に話さなかったせいか、何だか言い出しにくくなってた。
それに、今まではそこまで悪くもなかったし……」
「言ってくれれば良かったのに……」
「………」
「言って欲しかった」
一拍置いて、そうだな、と、啓人は答えた。
「こんな風にどうにもならなくなるような状態になる前に、ちゃんとお前に話せば良かったんだよな。
そうしたら、今とは何か違ってたのかもしれない」
そう言って、啓人は今度は空を仰いだ。
あたしもつられて、同じように空を仰いだ。
雲もほとんど見当たらない、澄んだ冬の青空。
薄い水色が眩しくて、目を細めた。
……そうだね。
何か、違ってたのかもしれない。あたし達……。
「噂は……本当なの?
優香さんが、啓人に結婚脅したって……。
だから、啓人は、彼女と結婚するの……?」
啓人はあたしの言葉に一瞬目を丸くした。
そうかと思うと、すぐにクックと笑った。
「すっげーな、噂って。
どっから仕入れてくるんだ? ソレ」
「わかんないよ……あたしだって……」
「半分、本当なのかもな」
「半分?」
あたしは眉を顰めて啓人を見た。
「以前から、専務に結婚話は持ち出されてた。花音が気にすると思って言わなかったけど。
興信所使って調べてたんだ。お前のことも、お袋の病気のこともみんな知ってた。
お袋が急に悪くなったって言ったろ? そのことがあって、急に専務にキツク言われた。
私の顔に泥を塗るような真似はしないでくれって。支社への左遷もクビにすることも出来るって」
……そんなことを……。
酷い……。
弱みにつけ込んで、断れないのをいいことに。
人の気持ちは、力で無理矢理変えることは出来ないのに。
「今は――心臓移植もようやく保険適応になって、患者の負担もぐっと減ったけど、それでも入院しながらドナーを待つには、それなりに金もかかるんだ。運良く手術出来ても、そのときもそのあともな。
それに、今のままじゃあ……日本じゃあ、ドナーなんて、いつまで経っても現れない。
けど、海外でするとなると、保険も利かないし、高額なデポジットに渡航費用、滞在費……それこそ莫大な金がかかる。
親父はもう定年退職してるし、兄貴は結婚して家族もいて地方勤務だから近くにはいないし、こんな状態で、今俺が会社を辞めるわけには、いかなかった」
「うん……」
「けどさ、こっちだって、結局は利用してるんだ。
優香の家は金があるからな。結婚すれば援助もしてもらえる。
俺は、最低なんだよ」
前をまっすぐ見つめる啓人の瞳は、辛そうに歪んだ。
あたしは、首を振った。
「あたしが啓人の立場なら、同じようにするよ……」
啓人は、少しの間押し黙っていた。
そして、あたしの顔をみつめてくる。
「本当は……お前と、ずっと一緒にいたいと、思ってた……」
「………」
「こんな風に……大事なモノを守るために大事なモノを諦めないといけないなんて……。
ごめんな、花音……俺が、幸せにしてやりたかった……」
頬を温かいものが伝った。
溢れ出した涙を、あたしは両手で慌てて拭った。
「あー、ごめん。あたし、泣いてばっかりだね」
「花音」
「分かってる。啓人が何であたしに、彼女と結婚する理由を言わなかったかも。
それが啓人の優しさだって、ちゃんと。
なのに、ごめんね。あたし、啓人を信じることも出来なかった……」
「花音が悪いところなんて、一つもないだろ」
そう言った啓人にあたしは引き寄せられ、抱きしめられた。
温かい胸。
力強い腕。
いつも一緒にいたのが当たり前で。
この空間が、あたしの落ち着ける場所だったのに……。
身体のずっとずっと奥の、手の届かないような場所から、どうにもならないもどかしさとやるせなさが込み上げた。
あたしの、好きだった、ひと。
大好きだった。
あたし達は、もう、別々の道を歩き出している。
「花音。お前、この間のあの男、好きになったのか……?」
「……うん」
「高校生って、知ってても、か?」
「啓人、知ってたの?」
「父親が有名なら調べればすぐ分かるだろ。
俺は……勝手だけど、お前には幸せになってもらいたい」
啓人の腕の力が緩み、二人の身体が離れた。
啓人のまっすぐな瞳に、あたしが映る。
その真剣な眼差しを受けて、一瞬雪乃の顔が脳裏を掠める。
それでも。
「それでも、好きなの」
これ以上どうにも出来ないし、好きになったらいけないのに。
けれど今は、そう啓人に言いたかった。
気付いてしまった自分の気持ちを。
あたしがハッキリと言えば、啓人も前に進みやすい。
「お母さんを大事にしてね。
優香さんのことも……」
「ああ……」
「今まで、本当にありがとう。大好きだった。啓人のこと。
それと……ごめんね……」
あたしは、椅子から立ち上がった。
啓人は、今日初めて見せる穏やかな微笑であたしを見上げた。
あたしも、指の腹で涙を拭い直し、微笑んだ。
「じゃあ」
「気を付けて」
涙で歪んだ道を、ゆっくりと歩き始めた。
振り返らずに。
キチンと話せて良かった。
あのまま啓人を恨まずに済んで。
本当のことを知ることが出来て。
あたしは、前に進めるよ。ちゃんと。
正面玄関に停まっているタクシーに乗り込み、次第に遠のき小さくなってゆく病院を見つめた。
来たときは、門から病棟までの距離がとてつもなく長く感じたけれど、今は、あっと言う間だった。
――『大事なモノを守るために、大事なモノを諦めないといけないなんて』
啓人の、その言葉が、頭の中に響いている。
あたしは――。
零が好きだと気付いてしまったのに。
雪乃のために、好きだというこの気持ちを、ちゃんと捨てることが出来るの?
胸を圧迫してくる気持ちに、押し潰されそうになる。
色んなひとの想いが入り混じり、苦しくて苦しくて、仕方なかった。