24
零のことが気になって仕方なかった。
今、そんなことを考えている場合じゃないのに。
一緒にいた女の人は、どういう関係?
他人の車を運転するなんて、きっと親しい間柄……。
瞼の奥に焼きついて離れない、笑みを含んだ唇。
胸がぎゅうっと締め付けられて。痛い。
それに――。
きっと、啓人と一緒にいたのを見られた。
どう思われたのかな……。
誤解……されているかもしれない。
……それならそれでいい。
なのに、苦しくなる。
ただただ、苦しい。
目の奥が熱くなって、固く瞼を閉じた。
啓人の冷たい手の温度だけが、あたしの掌に痺れるほど鋭利な感覚で伝わる。
……こんなじゃ、駄目。
啓人が不安なときなのに、あたしがこんな気持ちになってちゃ。
不謹慎すぎる。
閉じていた瞼をゆっくりと開き、隣の横顔を見上げた。
まだ顔色は悪い。
けれど、震えは止まっていて、少し安心した。
あたしは、重なり合った大きさの違う二つの手に視線を落とした。
こんな風に手が触れ合うことは、つい最近まで当たり前だったのに。
それなのに、今は違和感を覚える。
もう啓人とは、恋人同士じゃない。
心も通じ合っていない。
そう、思い知らされる。
別れたのに、手を握るなんて、変かな……。
変、なのかもしれない。
ずっと握りしめていた手の力を緩め、啓人の手の上に重なっている自分の掌をそっと離した。
けれど、すぐに今度は啓人があたしの手を掴んだ。
「ゴメンな」
啓人は一言言って、さっきのあたしのように、強く手を握ってきた。ぎゅっと。
前を向いている横顔は、瞼を閉じたままで。
とても、苦しそうに見えた。
あたしは、その手を振り解くことはしなかった。
そしてあたし達は、無言のままタクシーに揺られた。
道路状況は良くも悪くもなく、会社のある新宿から病院までは30分程だった。
その間に啓人の顔色も大分良くなり、体調は落ち着いたようだった。
タクシーを降りると、あたし達は走った。
啓人は受付で病室の番号を訊ねることもなく、病院内をよく知っているかのようにあたしの先を進んだ。
それは、啓人のお母さんがこの病院に入院している、ということを意味する。
エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がった。息を切らしながら、あたしはどうにか啓人の後を追う。
5階で啓人の足取りが緩やかになったかと思うと、病室の並ぶ廊下へと方向が変わる。
そして、一番奥の、ドアの閉まっている病室の前で足が止まった。個室のようだ。
壁に取り付けられている白いプレートに、『森 香奈枝』と黒のマジックで記入されている。
――初めて目にする、啓人のお母さんの名前。
一年程前に、一度だけ会った啓人の両親。
レストランで一緒に食事をしただけだったけれど、そのときは二人とも元気に見えて、病気だなんて全く感じなかった。
啓人は病室に向かっている最中の勢いがなくなっていて、そこに黙ったまま立っていた。
ドアを開けることに戸惑いがあるようだった。
小さな息を吐き出し、啓人はずっと結んだままだった口を開いた。
「お袋、心臓の病気なんだ。
次に大きな発作が起きたら、ヤバイって言われてて……」
ドクンと、心臓が大きく鳴った。
心臓の、病気?
大きな発作で――?
啓人は眉間に皺を寄せ険しい表情で、どこか遠くを見るようにドアを見つめている。
彼の緊張と不安さが、そこはかとなく伝わってくる。
「啓人、しっかりして」
あたしは啓人をまっすぐ見つめた。
瞳が頼りなく揺れている。
あたしの心臓も、ばくばくと身体に音を響かせていた。
今迄走っていたせいとは違う、耳鳴りのような響き。
啓人は腹を決めたように黙ったままあたしに小さく頷くと、ドアの取っ手に手を掛けた。
ゆっくりと目の前のドアが、啓人の手によってスライドされて開かれた。
「啓人!」
ドアが開かれると、こちらが動き出すよりも前に、啓人のお父さんが駆け寄ってきた。
「親父! お袋は?」
啓人は切迫した問い詰めるような声でお父さんに向かって訊いたけれど、その返答を待つまでもなく、向こう側から柔らかい女性の声が聞こえてきた。
「ごめんね、啓人。お父さんが慌てちゃって……」
反射的に、声の方を――お父さんの向こう側をぱっと見ると、真っ白なリネンに包まれたベッドの上には、啓人のお母さんが横たわっていた。
けれど、大事には至ってないという様子が見てすぐに覗えた。
あたしと啓人は顔を見合わせて、大きく安堵の息を吐いた。
ごめんな、と、お父さんはすまなさそうに言った。
「外泊中で家にいたときに発作が起きたから、慌ててしまったんだ。
忙しいのに呼び出して悪かったな。ビックリしたろ」
「するだろ、フツウ……」
「まぁ、ほら、取りあえず、二人とも中に入って」
「本当にごめんね、心配かけちゃって」
「……いいよ、もう。
とにかく、無事で良かったよ」
三人のまるで普段通りのようなやり取りを見ていたら、本当に大丈夫なんだなと感じられてホッとした。
ああ、良かった……。
そう思った途端、急に膝の力が抜けたように身体がふらついた。
床にへたりこむ前に、啓人の手が迷いもなく伸びてきて、あたしは支えられた。
「おい、お前が倒れてどうすんだよ」
ふっ、と、啓人は優しい笑みを浮かべた。
さっきはあたしが啓人を支えていたはずなのに、今の啓人はもう力強い。
「ゴメン、大丈夫、だよ。
ホッとしたら、力が抜けちゃった」
あたしがひとりでしっかりと立つと、啓人の手が離れた。
「大丈夫?」とお母さんの優しい声が言った。
「花音さん、ごめんなさいね。一緒に来てくれたのね。
久しぶりに会ったのに、私がこんなで……心配かけちゃって、本当にごめんなさい。
ゆっくりしていって、って言うのも変だけど、どうぞ座って、ね?」
「あ……いえ、あたしは……」
「花音は、たまたま会社で一緒だっただけ。
すぐに帰るよ」
口ごもったあたしの代わりに、啓人ははっきりとそう言った。
――そうだ。
もう別れたんだから、あたしがこんな所にいるのは変なのかもしれない。
啓人のお母さんのことは心配だけど、本来なら一緒にいるのはあたしじゃなく彼女のはずなんだから。
けれど胸が痛いのは、今までこのことを知らなかったということ。
知らずに別れてしまったこと……。
コンコンと、ドアをノックする音が部屋の中に割り込んだ。
すうっとスライドされたドアから、看護士が顔を覗かせてきた。
「森さん、先生のお話があるので、ちょっと来てもらえますか?」
「ああ、ハイ。
じゃあ、行ってくる。すまないね、花音さん」
「あ……いえ」
「良かったら座ってて」
お父さんはあたしにそう言って、壁に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子を広げると、看護士と一緒に病室を後にした。
わざわざ広げられた椅子を目の前にして、帰りづらくなってしまう。
婚約してるんだから、あたし達が別れたことは知っているはずだよね……。
やっぱり帰ろう、と思うと、お母さんが啓人に「お茶買って来て」と言った。
「せっかく来てくれた花音さんに失礼よ。
私も喉乾いたから、麦茶買ってきてくれる?」
「あの、あたしは、」
「花音さんは、座って、ね。
啓人、ほら、早く」
啓人はあたしに向かって困ったような顔をした。
それでも「わかった」と答えて、病室を出て行ってしまった。
お母さんと二人きりになってしまい、あたしはお父さんが広げてくれたパイプ椅子に腰掛けるしか選択はなかった。
古く錆びれたパイプが、ぎしりと静かな病室の中に音を立てた。
笑った顔が啓人と似ている、優しそうで綺麗な啓人のお母さん。
以前会ったときは、ふっくらとした顔つきだったのに、今は細く、やつれたように感じる。
「身体、大丈夫ですか?」
「ええ……花音さん、ごめんなさいね」
「謝らないで下さい。
私こそ……病気だってことも、何も知らなくて……今まで顔も見せなくて……」
すみません、と頭を下げると、お母さんは何も言わなかった。
沈黙にそっと顔を上げると、目の前ではお母さんの頭が深く下がっていた。
「どうしたんですか!?
もしかして、気分が悪いんですか!?」
慌てて立ち上がると、違うの、と、下がったままの頭が左右に振れた。
「本当に、ごめんなさい……」
そう言って顔を上げたお母さんの瞳には、涙が浮かび上がっていた。
大粒の涙は、今にもそこから溢れ出してしまいそうだった。
あたしは驚いて、バッグからハンカチを取り出して手渡した。
「どうして謝るんですか?」
「私のせいなの……」
「え……?」
「あなた達が別れたのは、私のせいだわ……。
私さえ、いなければ……」
「どうしてそんなことを言うんですか。
そんなこと、あるわけないじゃないですか」
あたしの言葉に、お母さんはかぶりを振った。
渡したハンカチは使われないまま、白い手の中で筒状になって握りしめられている。
「私、最近急激に悪くなって……心臓移植しなくてはならないくらい悪くなってしまって……。
それで、お金も沢山かかるから、啓人は専務のお嬢さんとの縁談が断れなかったんだわ……。
啓人は、花音さんのこと、とても大事に想ってたのに……私が、壊したの……」
啓人のお母さんの瞳に溜まっていた涙が、とうとう頬を伝う。
真っ白なカバーのかかった掛け布団の上に、ぱたぱたと涙の粒が落ちていき、灰色のしみがいくつも出来ていく。
あたしの中にも同じように、いくつもの波紋が落ち、滲みて広がった。
――心臓移植。
そんなに悪かったなんて……。
だから……だから、啓人は、彼女と結婚するの?
「……ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめん……なさい……」
嗚咽交じりな謝罪の言葉が繰り返される。
胸が押し潰されそうなくらい苦しくなって――苦しくて、苦しくて、仕方がなかった。
初めて耳にする、真実。
知らなかった。
ただ、啓人のうわずみだけの言葉を鵜呑みにして。
自分だけが傷ついていると、傷付けられたと思ってた。
どんな内情があるかも知らず、訊くこともせず。
奥深くまで、触れようとしなかった。
そして、あたしと別れたことで、どれほどまでに彼女に大きな傷を残してしまったんだろう。
――自分のせいだと。
誰が悪いわけでもないのに。
真実を知って、ショックなのはもちろんだけれど、そのことよりも、お母さんの気持ちを考えると、そっちの方がずっとずっと苦しかった。
「違うんです」
と、あたしは、言った。
「だから、謝らないでください」
お母さんは、ゆっくりと、泣き顔を上げてあたしを見た。
あたしは、膝の上に置いていた掌をぎゅっと握り締め、言った。
「あたしが、他に好きな人が出来て、啓人さんと別れたんです。
啓人さんもお母さんも、悪いところは何もありません。
優香さんとの婚約話は、たまたまそういうタイミングだっただけなんです。
だから勘違いしないで下さい。悪いのは、全部あたしなんです」
あたしは、何も知らないくせに、啓人に酷いことを言ってしまった。
嫌いだなんて、言わなきゃ良かった。
「嘘だわ、そんなの。分かってるの。全部私のせいなのよ。
ねぇ、花音さん、顔上げて……」
お母さんは、ベッドから身体を起こして、あたしの肩を揺さぶる。
あたしは、そのか細く頼りない手をそっと取った。
「本当です。あたしが原因なんです。申し訳ありません。
あたしは好きな人が他に出来て、啓人さんのことを振ったんです。
そんなときに、啓人さんを想う優香さんの気持ちが、彼の心に触れたんだと思います。
優香さんは、啓人さんのことが本当に好きだから……だから、きっと幸せになってくれると思います」
「だって、そんな……」
「そんな思いをお母さんにまで背負わせてしまって、本当に申し訳ありません。
もう、ご自分のせいだなんて、思わないでください。あたしが悪いんですから」
そう言って、もう一度頭を下げた。
あたしが悪者になれば、一番良い。
皆が上手くいく――。
いつの間にか溢れていた涙が、床に滴り落ちた。
握り締めた啓人のお母さんの手は、とても温かくて。
ひたひたと、沁みた。
あたしは自分のせいと言ったけれど、本当にそういう気持ちだった。
罪悪感も身体の奥から湧き上がって広がった。
『好きな人が出来た』
それは、本当のこと。
順番は違うけれど。
別れて間もないというのに。
零が好き
あたしはそんな気持ちに気付いてしまった。
こんなときなのに、気付いてしまった――。