23

12月23日――と、パソコンの画面の中のフォーマットに、今日の日付を打ち込んだ。

あたしの誕生日は、明日だ。

年末の業務と引き継ぎの忙しさに追われて、日めくりのカレンダーを捲るように、簡単に週末が来てしまった。


あれから、零からメールも電話もきていなかった。

あたしも、零から最後にきたメールの返事が出来ないままでいた。

そして、零から貰った元気の出るお守りも、外せないままでいる。
見る度に、胸がちくちくと痛む。
なのに……。



「あー、疲れたぁ……。
せんぱーい、そろそろ休憩しませんか?
あたしお腹空いちゃいましたぁ」


奈緒子の席の斜向かいで、薫ちゃんが椅子の背もたれをしならせ、大きな伸びをしながら言った。

奈緒子はキーボードを打っていた手を一旦止め、顔を顰めた。


「薫ちゃんさぁ。何かソレ、口癖じゃない?
まだ11時半前だけど」

「だってぇ、お腹空くと、あたしテンション下がるんですー」

「……テンションねぇ」

「いいじゃないですかぁ、今日は他に誰もいないんだし。
少し早めのお昼にしましょうよー」


甘えた口調の薫ちゃん。

天皇誕生日で休日のはずの今日は、引き継ぎが間に合いそうもないために、奈緒子と薫ちゃんとあたしの三人で休日出勤をした。
24,25日と、クリスマスは二人ともどうしても連休を取りたいのだ。
奈緒子は彼と北海道に行くと言っていたし、薫ちゃんだってクリスマスなのだから彼氏と過ごすのだろう。

元々、今日の出勤は、あたしが原因。
それでも、嫌な顔一つせず『頑張ろうね』と言ってくれる二人には、本当に感謝している。


「じゃあ、お昼行こっか。
今日は付き合わせちゃったお礼に、あたしがル・ブルヴァールのランチ奢る!」


あたしは完全に仕事の手を止めて、椅子から立ち上がった。

ランチくらいは奢らなきゃね。
ル・ブルヴァールは会社から結構近くにあるお洒落なフレンチレストランで、値段も手頃だし美味しい。
いつも昼休みには、なかなか時間の余裕がなくて行けないから、たまにはいいかも。
奈緒子も薫ちゃんも好きだし。


「やったぁ! 長瀬先輩好きっ!」


薫ちゃんは、子犬のように目をきらきらさせている。
女の子って、美味しい物にも美味しい話にも目がないよね。


「超ゲンキン……」


奈緒子は呆れた口調だったけれど、口元は笑っていた。





休日で正面玄関が開いていないために、あたし達はガードマンのおじさんがいる裏口から外に出た。
おじさんにすれ違いざま「お疲れ様です」と声をかけたところで、いきなりハッと思い出した。

財布をデスクの引き出しに入れたままで、バッグに入れてなかったこと。
『奢る』と自分から言ったくせに。


「ゴメン! 財布置いてきちゃった!
取りに戻るから、先にお店に行っててくれる?」


ホント、あたしって抜けてるよ、もう。


「じゃ、先に行ってランチコースのオーダーしとくから、あとからゆっくり来なよ」

「うん。ごめんね」


奈緒子と薫ちゃんを先に店に向かわせ、ガードマンのおじさんにまた会釈すると、あたしは急いで今通って来たルートを逆戻りする。

エレベーターが営業部のある七階に到着すると、休日で社員もいない社内の廊下を小走りした。
しんと静まり返った廊下に、カツカツと忙しないあたしのヒールの音だけが響き渡った。


あれ?


誰もいないはずの営業部に、明かりがついている。
三人で出るときに、ちゃんと消してきたはずなのに。


あたしたちの他に誰か休日出勤なのかな?


そう思いつつも、何となく身構えながら、足取りを緩める。
入り口からそっと中を覗き込むと、奥に男の人の後ろ姿が見えた。

ドキンと心臓が鳴った。


――啓人。


後ろ姿でも、すぐに彼だと分かる。
パリッと紺色のスーツを着こなした背の高いがっちりとした身体。
柔らかそうな黒髪。

室内に足を踏み入れられない。
緊張で鼓動が速い。

二人きりで顔を合わせるのは、やっぱり勇気がいる。
この間あんなこともあったばかりだし……。

ドアの陰に隠れて、入るか入らないか、どうしたものかと思案する。


……って。
あたしが悪いことしてるわけじゃないのに、何で悩まないといけないのよ……。


そう思っているうちに、啓人の携帯電話が鳴り、「はい」と、啓人が電話に出た。


電話中なら気付かれても何も言われないだろうし、今がチャンスかも……。


そっと部署内に入り込み、こちら側からは後ろ向きでいる啓人に気付かれないように、素早く自分のデスクに近づいた。

引き出しから財布を出した瞬間、いきなりガタンと大きな音がして、驚いて音の方を見た。


「啓人!」


思わず大きな声が出てしまった。

あの大きな身体が倒れるように床に膝をついている。

あたしは今度は迷わず駆け寄り、腕を取った。


「大丈夫っ!?」

「かの……ん……」


駆け寄らずにはいられなかった。
顔色は真っ青で、口元に右手を当て、小刻みに震えている。

――貧血だ!


床に転がった携帯電話から「もしもし!?」と、切羽詰まったような男の人の声が漏れている。
あたしは彼を支える反対の手で、その携帯を手に取った。


「もしもし? あの、私、同じ会社の者ですけど、森課長は貧血のようで……。
どうかされましたか?」

『森啓人の父親です! 母親が発作を起こしたので、至急病院に向かって欲しいんです!』

「えっ!?」


母親? 啓人のお母さんが!?


「どこの病院ですか?」

『T大付属病院ですっ』

「……おい……かの……ん……」


力無く声を発し、あたしを制しようとする啓人を尻目に、あたしは「今連れて行きます」と電話を切った。


発作、って――病気だったの!?
そんなこと、一回も聞いたことがない――。
あたしは、何も知らない。


身体中から血の気が引いていく感覚を覚える。
嫌な汗も額に滲み出ているのが分かった。

あたしは、啓人の脇から自分の身体を入れ込み背中に腕を回し、彼を支えた。


「行こう! 早く!」

「お前には……関係ない……」


青い顔をしたまま、啓人は無理に自力で立とうする。


「何言ってるの!
今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ!」


ハイそうですか、なんて放って置けるわけないじゃない!

こんな時に『嫌いで別れたわけじゃない』と言われたことを思い出す。


そう。
本当に。
あたしだって、嫌いで別れたわけじゃない――。


あたしは彼の腕を取り、掴んでいる手に力を入れた。


「頑張ってタクシーまで歩いて!」

「放せ!」


啓人はあたしの手を振り解くと、またふらりと身体が左右に揺れた。


「貧血でしょ!
こんなときに、強がらないでよ!
啓人が倒れたらどうすんのよっ!」


あたしは、もう一度自分の肩で彼の身体を支え直す。

啓人は、黙ってそのままゆっくりと歩き出した。
その動作にホッとして、あたしは支えながら同じ方向に向かう。

裏口まで来ると、ガードマンのおじさんがすぐに気が付いて手伝ってくれ、タクシーを捕まえてくれた。

「ここまででいい」と言うのを無視して、あたしは啓人の後に続いて一緒にタクシーに乗り込んだ。


「T大付属病院まで」


啓人よりも先にあたしが運転手に行き先を告げた。
車は走り出し、啓人はあたしがついて行くのを容認したのか、黙ったまま瞼を閉じシートに凭れた。

真っ青だ。
小刻みに身体も唇も震えている。

こんな啓人を見たのは初めてだった。
いつもしっかりとしていて、大人で弱いところを見せない啓人。

だから心配で仕方ない。

震える彼の手を、あたしは握り締めた。


「大丈夫?」

「……悪い」

「病院に着いたら教えるから、今は黙って休んでて」

「ああ……」


素直に答える啓人に胸を撫で下ろし、あたしもシートに身体を預けた。
そして、窓の外の緩やかに流れる街並みを見つめた。
冬らしい遠い水色の空と、葉を落とした街路樹、立ち並ぶ背の高いビルは、寒々しく感じる。
握っている大きな手は、冷たい。


何で、言ってくれなかったんだろう……。
二年も付き合ってたのにな、あたし達……。
あたしは――啓人の何を見てきたんだろう……。


胸が苦しくなって、あたしは啓人の手を握った掌にぎゅっと力を入れた。


と、あたしの携帯電話の着信音が鳴り出した。

きっと奈緒子だ、と思った。

バッグから携帯を取り出して見ると、案の定ディスプレイには奈緒子の文字があった。


「もしもし? 奈緒子?」

『花音? 遅いけど、どうかした?』

「ごめん、ちょっと……今、タクシーの中で……病院に向かってて……。
理由は後で話すね……とにかく、そっちに行けなくなったの」

『は!? 病院!? 何!? どうしたの!?』

「本当にゴメン!
薫ちゃんには、上手く言ってくれる?
一時間くらいで会社に戻ると思うから」

『わけ分かんないんだけど!
けど、戻るってことは、花音自身に何かあったわけじゃないのね?』

「うん、あたしは大丈夫……ゴメン」

『分かったわよ。後で聞く。
ちゃんと話してよね』


奈緒子がそう言ったところで、車の左のサイドガラスに赤い車がパッと目に入った。

目の前の赤信号であたし達の乗ったタクシーがゆっくりと停止すると、左車線にも同じようにゆっくりとその赤い車が停止した。

特徴のある白と黒のサイドミラーが見える。

赤のミニ――。

なぜか心がざわめき、あたしは顔を向けた。

車のガラス二つ向こうの中に見えたのは、色素の薄い茶色のふわふわの髪。
黒いシートに寄りかかっている――端正な顔立ち。


零?


どうして、こんなときに妙な勘が働くのだろう。


すぐ横に停車している赤のミニクーパーの助手席――あたしの隣り合わせに、零がいた。

そして、零の向こう側の運転席には、きっちり切り揃えられたショートボブの髪にサングラスをかけた大人の女性がいる。
艶めいたピンクベージュのグロスが塗られた唇が異様に目について、その唇が楽しそうに零に向かって微笑んだ。

それを見た瞬間、頭を鈍器で殴られたような鈍い衝撃が走った。

「花音?」と、耳元で不審そうな奈緒子の声が響く。


「……あ……うん、ゴメン……」

『ねぇ、何かあったらすぐに電話してよ』

「……うん」


目が留まったまま、電話に心あらずになりながらも答えたところで、正面を向いていたはずの零の横顔はこちらを向いた。

視線が、絡む。
零の濃いブラウンの瞳があたしを捉え、大きく見開いた。

そうかと思うと信号は青に変わり、零の車は左折し、あたしの乗ったタクシーは直進したために、二つの車は道を別れてお互いに見えなくなった。


けれど――絶対に目が合った。ほんの一瞬だけど。
零も、あたしに気が付いたはず。


「じゃあ、気をつけてね」と、奈緒子の声を最後に電話が切れる。
あたしはまた「うん」と一言だけ答えた。

耳から携帯電話を下ろし、もう一度、啓人の手を強く握りしめた。

update : 2007.01.〜(改2010.09.22)