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「はー……ほんっと、わっけわかんないなぁ、森さんって」
奈緒子は溜め息交じりにそう言うと、デミグラスソースのたっぷりかかった部分の卵をすくって口に含んだ。
昼休み。
あたしと奈緒子は、持ってきていたお弁当を食べるのはやめて、会社近くの洋食屋へ出向いた。
休憩室や社食で話すと、他の人に聞かれてしまうかもしれないから。
まるで美味しそうとは思えないような不快感のある顔で、奈緒子はオムライスを次々に口の中に運ぶ。
あたしの目の前にも奈緒子と同じ、とろとろ卵のオムライスと、サラダ、コーヒーのランチセットが並んでいるけれど、一向に手をつける気になれない。
あんなことがあって、あたしは混乱していた。
啓人に対しても、零に対しても……。
「何かさ、森さんって、あたしの思ってたのとちょっと違ったなー」
奈緒子は口を動かしながら、腑に落ちない顔つきで言った。
「思ってたのと違った、って?」
「こんな人だったのかぁって感じ。
まぁ本当に脅されて結婚するんだったら『嫌いで別れたわけじゃない』って言うのも分からなくはないけどさ。
……で、花音はどうなの?」
「どうなのって……?」
「森さんのこと、まだ好き?
それとも零くんのことが好きになった?」
ようやくすくいとったオムライスを乗せたスプーンが、行き場をなくしたように止まった。
「……自分でも、よく分からない……」
本当に、それが正直な気持ちだった。
この間さくらに同じような質問をされたときには、はっきりと言えたのに。
だって、零に惹かれ始めていることは明らか。
それが恋愛感情なのか、自分でもよく分からないけれど。
でも、好きになったらいけないし、今なら引き返せる位置にある。
啓人については、本当に自分でもよく分からない。
結婚したい人だと思っていたのは確かだけど……。
付き合い始めも、彼の方から『付き合おう』と言ってきてくれて、それは凄く嬉しかったけれど、最初はもしかしたら憧れ意識の方が強かったのではないか――とも思う。
好きだったけれど、手の届かない存在で――見ているだけでもときめいて、話が出来れば一日中浮かれて……あたしなんかじゃ絶対に無理だって、付き合う前まではそう思っていたし。
二年も付き合って、好きだったことには変わりないけれど、どちらというと、あたしの方がいつも彼に合わせて気を遣っていた気がする……。
雪乃に言われたことが頭の中にこびりついたように残っていて、もしかしたらとも考えてしまう。
今のあたしにとって、啓人はどんな存在なんだろう……。
昼食時の店内は、会社員やOL達で満席になっていて、ざわざわとしていた。
その雑音が、耳障りに頭に響く。
「花音さぁ、雪乃ちゃんのこともあって、セーブしたい気持ちも分かるけど……。
でももう、零くんのこと、好きになってるんじゃないの?」
「そんなこと……」
「ないって言い切れるの?」
「………」
「女ったらしって……確かに慣れた感じはあるけど。
だけど、あたしは、悪い子には見えなかったよ。
ストラップも、もしかしたら理由があったのかもしれないし」
「そうかもしれないけど……でも、よく分かんないよ。嘘つかれたりもしてるし、何を信じたらいいのか。
それに、やっぱり雪乃が好きな人だし、これ以上は深入りしたくない」
奈緒子は呆れた顔をして、大きく息を吐いた。
「あたしには、何で花音が雪乃ちゃんにそんなにこだわるのか分からないけど」
持っていたスプーンをオムライスの皿の上にカチャンと乱暴に置き、奈緒子は続けた。
「好きになっちゃったらしょうがないんじゃないの? いくら姉妹でも」
まっすぐに見つめられる。
あたしは何も言えず、奈緒子の顔を見つめ返した。
奈緒子は雪乃の過去を知らないから、そんな風に言えるのだろう。
知っていれば、さくらのように反対する、きっと。
「確かに森さんはもう婚約も発表して、これ以上はどうしようもないけど、零くんに関しては違うでしょ?
どうにでも転べるんだし、花音が好きになったならそれはそれで良いと思うよ?」
「………」
あたしの手はさっきから止まったままだ。
もうぬるくなったであろうオムライスは、デミグラスソースの上のクリームも綺麗にマーブル模様になったまま。
あたしの頭の中も、複雑に何かが混ざり合っていて、ハッキリとした単色にはなってくれない。
「それにね」と、奈緒子も完全に食事の手を止めて、顔の前で指を組んだ。
「あの日、あたしと零くんが道の端で少し話したでしょ?」
「……うん」
「あのとき、あたし、『花音が信じてる人に裏切られて物凄く傷付いてるのは分かってるよね? だから花音を傷付けたら絶対に許さない』って言ったの。
そしたら零くん、『それは絶対ない』ってあたしに言い切ったよ。真剣な顔で」
え……?
「恋愛感情で好きだからとかではないとしても、少なからず花音のことは大事に思ってる、って思ったの。
きっと、ホントに立ち直って欲しいと思ってるんだと思う。
それがどういう感情でなのかは分からないけど。
でもそれはあたしも同じで、花音には早く立ち直って欲しいし、新しい恋愛もしてもらいたい」
「奈緒子……」
「ねぇ、あたしは雪乃ちゃんのことはよく分からないけど、花音の味方なんだからね。
何があっても」
じんわりと目頭が熱くなってしまった。
こんな場所で泣いたら恥ずかしいだけなのに。
あたしって、本当に泣き虫だ。
だけど。
奈緒子に「味方」と言ってもらえたことで、あたしの中の汚い物が少しだけ剥がれ落ちたように思えた。
――雪乃に対する罪悪感が。
昼休み後は、啓人は外回りだったらしく、その日は顔を合わせることはなかった。
それはやっぱりホッとしたけれど、エレベーターの中でのことも一つのキッカケとして、あたしの頭の中はある考えが思い巡っていた。
それは、さくらに言われた『会社を辞める』ということ。
啓人と彼女と会社で顔を合わせたくない。
その気持ちは、どうしても心の内側にある。
けれど、それだけで会社を辞めようかと考え始めたわけじゃない。
お情けでもらえたマーケティング部への異動。
確かに、やりがいのある部署だとは思うけれど、あたしが前からやりたかったわけでも、やりたい仕事でもない。
きっと、自分が仕事の出来る人間だったら、こんな人事異動は一蹴したはずだ。
今の自分は、ただ流されているだけ。
楽な方にしがみついているなんて、あまりにも子供じみている。
いや。それが賢い大人の生きる術なのかもしれないけれど。
なあなあで適当に仕事をしていくのではなく、とにかく自分を確立したいと思った。
自分自身がやりたいと思える何かを。
何も出来ない、出来ていない自分が痛感させられて、自立した人間になりたいと切に感じた。
今までの自分だったら、こんな風に考えたことはなかったと思う。
普通に働くことが出来て、普通にお給料を貰って、普通に楽しく過ごせればそれで良い――と。
ずっとそう思っていたのだから。
だからって――簡単にやりたいことなんて、見つかるのか?
仕事を辞めて、自分の好きなことを始めようなんて、ただの甘い考えではないのか?
今までと違うことをいきなり始めようなんて、自分に出来るのか?
温かく快適なぬるま湯に浸かった生活を捨てて、未知の世界へ飛び込むのは怖い。
それでも、一歩でも踏み出したい気持ちが、次第に心の中に膨らんでいった。
あたしはその日、自宅に帰った後、自室でパソコンに向かった。
ジュエリーデザインの学校について、だ。
今なら四月生にも間に合う学校、随時生徒募集の学校、社会人向けの教室、通信制――自分が思っていたよりもずっと沢山あった。
辞めるか、辞めないか――それはまだハッキリとは決めかねていた。
けれど、平凡な自分の中の何かは変わっていく予感がして、ページを捲るごとに胸の奥に小さく疼くものがあった。