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「長瀬くん、マーケティング部から英会話スクールの資料が届いてるから、取りに来てくれって連絡あったよ。
で、ついでにこの書類、総務に届けてくれる?」


野沢主任は、軽い調子で書類の入ったA4のクリアーファイルをあたしのデスクの上にぽんと置いた。


「あ、はい」

「じゃ、よろしく」


『ついで』なんて、いつものこと。
あたしが断られないことも前提。
これも、あたしのココでの仕事のうちのひとつなのだ。


野沢主任が自分のデスクに戻って行くと、隣の奈緒子はキーボードを打っていた手を休め、疲れたと言わんばかりに腕を天井に伸ばしながらこちらを向いた。


「英会話かぁ。仕事の後に行くんだよね?
会社が負担してくれるんでしょ?」

「うん。まだ詳しくは分からないけど……」

「んー、新しい仕事を覚える上に英語も習うのかぁ」

「海外出張が多いし、英語は最低限なんだ。
慣れてきたら、フランス語とかも覚えなくちゃ」

「そっかぁ」


奈緒子はふーっと息を漏らしながら答えた。
いかにも大変そうだ、と言っているようだ。


「じゃ、ちょっと行ってくるね」

「行ってらっしゃい」


席を立つと、奈緒子はすぐにまたパソコンに向き合った。
悠長に休んでいる暇もないくらい、今の時期は忙しい。
その上、自分の分の仕事の他に、あたしからの引き継ぎもしなければならない。
伝えておかなくてはならないことが山ほどあるのに、お互いに自分の仕事が手一杯で、現状ではなかなか時間が取れないでいる。

あたしもさっさと用事を済ませてしまおうと、早足で部署を出た。


月曜日。週の始まり。
あと十日ほどで、冬休みだ。

刻々とあたしの誕生日は近づく。
とうとう一週間を切ってしまった。


――あれから。
零からの返事を見るのが怖くて、落とした電源を入れることを避けていた。

今日の朝、会社に行くことを機に、ようやく電源を入れた。

すると、すぐにメールの着信音が鳴った。
当然、零からのものだった。


『約束したじゃん。
とにかく待ってる。
 Rei』


一通だけ。
短い文章で。

目にしたら、胸が苦しくなった。

けれど、あたしは返事をせずにそのまま携帯を閉じた。

しないと言うより、出来なかったの方が、正しいかもしれない。



ポーンという電子音が鳴り響き、下りエレベーターが到着した。

あたしは誰もいないエレベーターの中に、野沢主任から預かったクリアーファイルを片手に乗り込んだ。

マーケティング部は三階、総務は二階。
まずはおつかいの方から済ませてしまおうと、2の数字のボタンを押した。

左右から迫って閉ざされていくドアを、壁に寄りかかりぼんやりと見つめた。

扉が閉じたかと思ったとき、大きな骨っぽい手が隙間から押し入り、寸前でそれを阻止した。

強引な奇行に驚いてパッと壁から身体を離して身構えると、あたしの中の会いたくないひとの一人が、再度開いたドアの前に立っていた。


「啓人……」


いきなりのことに動けない間に、啓人はエレベーター内に乗り込み、閉ボタンと四階のボタンを押した。

すぐに扉は閉ざされ、二人だけが乗った小さな箱が下へと動き出す。

逃げられない状況の中で、あたしはどうしていいのかも分からず混乱していた。


どうしよう……。


頭の中はその言葉しか浮かばず、あたしは胸に抱え直したクリアーファイルをぎゅっと握り、下を向いた。


「お前さ」


啓人の低い呼びかけに、あたしは顔を上げた。
目が合うと、怖いくらい冷めた瞳があたしを見ている。


「ちゃんと、分かってるのか? あの男のこと」

「えっ……?」

「見る目がないな。
俺で懲りてないのか?」


一瞬で頭に血が上った。


この人は――!
どうして今そんなことを言うの!?
この間は、何も言わなかったくせに!


「もう関係ないでしょ!
ほっといてっ!」


思わず大きな声が出た。
けれど、彼は顔色一つ変わっていない。


「嫌いで別れたわけじゃないし」


最低!
この期に及んで何を言うのよ!


怒りなのか悔しさなのか、喉元までどうにもならない感情が込み上げた。
涙が急に溢れ出て、頬に伝った感触がした。


「あたしは嫌いよっ!」


叫ぶように言って唇を噛み、睨み上げた。
けれどやっぱり、啓人は顔色ひとつ変えない。


「それはこっちも都合がいいな」


啓人のその言葉と同時に、到着を知らせる電子音が高らかに鳴った。

扉は開かれたのに啓人はすぐに降りず、あたしのすぐ後ろの壁にバンっと音を立てて手をついた。

あたしは身体が固まり、微動だに出来ない。

大好きだったはずのまっすぐで鋭い瞳が、触れそうなほど近くに寄せられた。



「いいか? 男は選べ」


怒ったような口調でそう言い残した啓人は、ドアが閉まる寸前にまたその隙をすり抜けて行ってしまった。


「何、それ……」


全身の力がすうっと抜けた感覚に襲われ、冷たい床にへたり込んでしまった。

また動き出したエレベーターは、すぐに二階に到着する。

けれど、あたしは立つことが出来ず、降りられないまま扉は無情に閉じられた。


「もう……やだ……」


冷たい床に伏して、あたしはこぼした。


零に会いたい……。


辛いときに、いつも現れてくれる零。


今――そんな風に思ってしまった自分がいた。

update : 2007.01.〜(改2010.09.12)