21
「長瀬くん、マーケティング部から英会話スクールの資料が届いてるから、取りに来てくれって連絡あったよ。
で、ついでにこの書類、総務に届けてくれる?」
野沢主任は、軽い調子で書類の入ったA4のクリアーファイルをあたしのデスクの上にぽんと置いた。
「あ、はい」
「じゃ、よろしく」
『ついで』なんて、いつものこと。
あたしが断られないことも前提。
これも、あたしのココでの仕事のうちのひとつなのだ。
野沢主任が自分のデスクに戻って行くと、隣の奈緒子はキーボードを打っていた手を休め、疲れたと言わんばかりに腕を天井に伸ばしながらこちらを向いた。
「英会話かぁ。仕事の後に行くんだよね?
会社が負担してくれるんでしょ?」
「うん。まだ詳しくは分からないけど……」
「んー、新しい仕事を覚える上に英語も習うのかぁ」
「海外出張が多いし、英語は最低限なんだ。
慣れてきたら、フランス語とかも覚えなくちゃ」
「そっかぁ」
奈緒子はふーっと息を漏らしながら答えた。
いかにも大変そうだ、と言っているようだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
席を立つと、奈緒子はすぐにまたパソコンに向き合った。
悠長に休んでいる暇もないくらい、今の時期は忙しい。
その上、自分の分の仕事の他に、あたしからの引き継ぎもしなければならない。
伝えておかなくてはならないことが山ほどあるのに、お互いに自分の仕事が手一杯で、現状ではなかなか時間が取れないでいる。
あたしもさっさと用事を済ませてしまおうと、早足で部署を出た。
月曜日。週の始まり。
あと十日ほどで、冬休みだ。
刻々とあたしの誕生日は近づく。
とうとう一週間を切ってしまった。
――あれから。
零からの返事を見るのが怖くて、落とした電源を入れることを避けていた。
今日の朝、会社に行くことを機に、ようやく電源を入れた。
すると、すぐにメールの着信音が鳴った。
当然、零からのものだった。
『約束したじゃん。
とにかく待ってる。
Rei』
一通だけ。
短い文章で。
目にしたら、胸が苦しくなった。
けれど、あたしは返事をせずにそのまま携帯を閉じた。
しないと言うより、出来なかったの方が、正しいかもしれない。
ポーンという電子音が鳴り響き、下りエレベーターが到着した。
あたしは誰もいないエレベーターの中に、野沢主任から預かったクリアーファイルを片手に乗り込んだ。
マーケティング部は三階、総務は二階。
まずはおつかいの方から済ませてしまおうと、2の数字のボタンを押した。
左右から迫って閉ざされていくドアを、壁に寄りかかりぼんやりと見つめた。
扉が閉じたかと思ったとき、大きな骨っぽい手が隙間から押し入り、寸前でそれを阻止した。
強引な奇行に驚いてパッと壁から身体を離して身構えると、あたしの中の会いたくないひとの一人が、再度開いたドアの前に立っていた。
「啓人……」
いきなりのことに動けない間に、啓人はエレベーター内に乗り込み、閉ボタンと四階のボタンを押した。
すぐに扉は閉ざされ、二人だけが乗った小さな箱が下へと動き出す。
逃げられない状況の中で、あたしはどうしていいのかも分からず混乱していた。
どうしよう……。
頭の中はその言葉しか浮かばず、あたしは胸に抱え直したクリアーファイルをぎゅっと握り、下を向いた。
「お前さ」
啓人の低い呼びかけに、あたしは顔を上げた。
目が合うと、怖いくらい冷めた瞳があたしを見ている。
「ちゃんと、分かってるのか? あの男のこと」
「えっ……?」
「見る目がないな。
俺で懲りてないのか?」
一瞬で頭に血が上った。
この人は――!
どうして今そんなことを言うの!?
この間は、何も言わなかったくせに!
「もう関係ないでしょ!
ほっといてっ!」
思わず大きな声が出た。
けれど、彼は顔色一つ変わっていない。
「嫌いで別れたわけじゃないし」
最低!
この期に及んで何を言うのよ!
怒りなのか悔しさなのか、喉元までどうにもならない感情が込み上げた。
涙が急に溢れ出て、頬に伝った感触がした。
「あたしは嫌いよっ!」
叫ぶように言って唇を噛み、睨み上げた。
けれどやっぱり、啓人は顔色ひとつ変えない。
「それはこっちも都合がいいな」
啓人のその言葉と同時に、到着を知らせる電子音が高らかに鳴った。
扉は開かれたのに啓人はすぐに降りず、あたしのすぐ後ろの壁にバンっと音を立てて手をついた。
あたしは身体が固まり、微動だに出来ない。
大好きだったはずのまっすぐで鋭い瞳が、触れそうなほど近くに寄せられた。
「いいか? 男は選べ」
怒ったような口調でそう言い残した啓人は、ドアが閉まる寸前にまたその隙をすり抜けて行ってしまった。
「何、それ……」
全身の力がすうっと抜けた感覚に襲われ、冷たい床にへたり込んでしまった。
また動き出したエレベーターは、すぐに二階に到着する。
けれど、あたしは立つことが出来ず、降りられないまま扉は無情に閉じられた。
「もう……やだ……」
冷たい床に伏して、あたしはこぼした。
零に会いたい……。
辛いときに、いつも現れてくれる零。
今――そんな風に思ってしまった自分がいた。