20

ガラス工房の店員さんは『全部手作りの一点物』と言っていた。
それを雪乃が持っているということは、零から貰ったと思うのが普通だ。


だけど、どうして?
あんなに嬉しそうにしていたのに、そんなに簡単にほかの人にあげられるものなの?
理由があったとしても、酷いよ。


ぎりぎりと、胸のあたりが締め付けられて痛い。
裏切られたような気持ちで一杯になった。


「どうしたの?」


電話を切った雪乃は、あたしの様子が変なことに気付き、首を傾げ覗き込んできた。
不思議そうに目を真ん丸くして。

あたしは邪念を取り払って、気持ちを切り替えるように首を左右にふるふると振った。


「何でもないよ。
お母さん、大丈夫だって?」

「うん。だけど、お姉ちゃん……」


そう心配そうに眉を寄せた雪乃の横にいるさくらが、あたしの腕を取って絡めた。


「あー、花音はほら、傷心中だから!
さっきまで相談に乗ってたとこだし!
今日はワインたんまり飲んで、早く森さんのことは忘れなさい! ね?
あたしもお腹空いたし、行こ行こっ!」


普段通りの態度が出来ないでいるあたしに気が付いたさくらは、そう誤魔化してくれ、雪乃の腕も取り、歩くように促した。


啓人のことで落ち込んでいる――と、思わせてくれたお陰で、あたしは少しだけ余裕が出来た。

けれど、食事中も帰る間も色んな想いが頭を巡り、せっかく久しぶりに三人揃ったというのに、楽しさを感じることはほとんどなかった。
笑い合って会話もしたけど、心からじゃない。
食事の最中も、ワインを空けるペースはどんどん早くなっていくのに、妙に頭の中が冴えているようだった。


誰かに貰ったものでも、あげてしまえるなんて……。
それはやっぱり、零が雪乃のことを好きなんじゃないか――。

そして、零にとってあたしは、友達以下の存在で……。

だけどそれならそれで良いはずなのに。嬉しいはずなのに。

手放しで喜んであげることが出来ないなんて、醜い。

そんな自分をまざまざと感じさせられた。


そして、それほどにまで気になっているのに、雪乃にストラップのことを自然に訊くことさえ出来ずにいた。




自宅に着いたのは22時頃だった。

あたしと雪乃は一緒にリビングに入った。
父は既に帰宅していて、ドアを開けた途端、そこには冷えた身体が爪先から温まるような、ほっとする空気があった。


「ただいま」

「おかえり。何だ、二人一緒だったのか?」

「おかえりなさい。一緒に紅茶飲む?」


父と母が笑顔で迎えてくれる。
雪乃は、ベージュのソファーに座る父の隣に腰を下ろした。

あたしも母の横に座る。
家族四人でテーブルを囲むときは、これが定位置。

母のふっくらとした手で紅茶の葉にお湯が注がれると、たちまち良い香りが部屋中に立ち込めた。
爽やかでいて甘味を微かに含んだ独特な花のような香り。ダージリンだ。

父は、50歳を過ぎたどこでもいる普通のオジサンだけれど、この年齢の男の人には珍しく、朝御飯はパン派だし、緑茶も飲むけれどどちらかというと紅茶のほうが好きだ。
紅茶には特にこだわりがあって、父の選んでくる茶葉はとても美味しい。
だからこうしてよく家族一緒に紅茶を飲む。


「何食べてきたの?」


カップに紅茶を注ぎながら母が訊いた。


「イタリアン。しかも、コースにしてもらっちゃった。
デザートが三種類のケーキの盛り合わせで、美味しくってー」

「雪乃は料理よりも、デザートメインでしょ?」

「そんなことないもん。
両方美味しかったし!」


家族四人揃って気分が落ち着いたせいか、さっきまでとは違って、雪乃に対しても本当に普段通りに接することが出来た。
家族って不思議だなぁと思う。


「ケーキって言えば、来週の日曜日は花音の誕生日でしょ。
その日、出掛けるの?」


けれど、母のその言葉で一気にあたしの気持ちはまた重たく早変わりした。


誕生日――零との、約束。


安心感とは正反対の不安定な気持ちがあたしを支配していく。


「その日は……家にいるよ」


答えると、父と母は想像していた通り驚いた顔をした。
そしてまた想像通りの言葉が返ってきた。


「森さんとデートじゃないの?
あちら、仕事が忙しいの?」


どうしよう……。
別れたって言った方がいいよね。良い機会だし。


「あの、実は……」


切り出した途端、雪乃の言葉が遮った。


「あー、森さん、忙しい人だからねぇ。その日は仕事なんだって。
だから今日は、お姉ちゃんの愚痴をたっくさん聞いたトコなんだよ。ね?」


――え?


驚いて雪乃の顔を見ると、そういうことにしとけと言わんばかりの笑顔を向けられた。
「そうだったの」と、父も母も納得してしまい、あたしも素直にそれに従って「そうなんだ」と答えてしまった。


「お姉ちゃん、もう寝たら?
ワイン大量に飲んでるんだし、お風呂も明日の朝でいいじゃん」

「……ああ、うん、そうする。
頭痛いし……」

「じゃあ、早く寝なさい」

「うん、おやすみ」

「おやすみ、花音」


傷が癒えていないあたしに両親があれこれ訊ねてくるのを避けるために、助け舟を出したのだと思った。

あたしはまた雪乃のソレに従い、足早にリビングを出た。



顔を洗ってから自分の部屋へ戻った。
真っ暗な部屋。
けれど照明を点ける気になれず、窓のブラインドを上げた。
外の防犯灯で薄っすらと室内が照らされる。
ガラス越しに見える月が、流されていく雲の間から黄金色に輝いているのが見えた。

疲れ切って、あたしはベッドにどさりと寝転がった。
天井に向かって大きく息を吐き出す。

途端、携帯のメールの着信音が鳴った。
あたしはすっかり重くなってしまった身体を仕方なく起こし立ち上がると、バッグの中から緑色に小さく点滅する携帯電話を取り出した。

ディスプレイを開くと、ドキッとした。


――零だ。


『24日14時に大丸の正面玄関で待ち合わせ!
当日すっげー楽しみにしててね。

Rei』


心臓がぎゅうっとした。


――『じゃあー、傷付いた花音さんのためにー、お誕生日はどっか企画しとくね?』

そう言った零の甘い声と笑顔が脳裏を掠める。
あたしのために、一生懸命プランを考えてくれたんだろう。


だけど、行けないよ……。


携帯のディスプレイと一緒に瞳を閉じて深い溜め息を吐いた。
そしてそのままテーブルの上に置くと、ブラインドを下げた。

パジャマに着替えて、再度ベッドに横になる。
シーツが冷たい。

ブラインドの隙間からほんのり入る明かりで、テーブルの上の携帯の――元気の出るお守りが微かに光る。


元気出ないよ、零……。
何が本当なのかも、自分がどうしたいのかも、よく分からないよ……。


コンコンと、ドアをノックする音がしたかと思うと、すぐに部屋のドアが開かれた。
あまりにもビックリして、上半身を素早く起こした。
廊下から入り込む光で浮かび上がった雪乃の細いシルエットが、そこにあった。


「お姉ちゃん?
まだ起きてる?」

「え……うん」


返事をすると、雪乃はドアを閉めた。
なぜか、心臓が緊張を始める。


「ねぇ、お姉ちゃん、久しぶりに一緒に寝ていい?」

「……え、急に、どうしたの?」

「うん、何となく。
たまにはいいでしょ?」


許可を得ないうちに、雪乃はあたしの横にするりと入ってきた。


「えへへ。何かこういうの何年ぶりかな?
昔はこーやって、しょっちゅうお姉ちゃんのベッドに潜り込んでたよね?」

「そうだね。雪乃は小さいころ甘えっ子だったからなぁ。
いつの間にか大きくなっちゃったんだね」

「そうそう。お姉ちゃんは縮んだよね?」

「失礼ね……。
雪乃が大きくなりすぎなの!
そのくせ顔は小さいから、嫌んなっちゃうよ」


あはは、と笑う雪乃の隣に、あたしも横たわった。

雪乃の甘い香りがあたしを包む。
ふんわりと香る、甘くてホッとする匂い。

その香りのお陰か、もう緊張はなくなっていた。


あたし達は、それから二時間ほど暗い中で喋った。

昔飼っていた犬のこと。
初めて行った映画のこと。
今年の夏に行った旅行のこと。
大好きなスイーツのこと。
オシャレと洋服のこと……。

不思議と――お互いに啓人のことも零のことも話題には出さなかった。
女子特有のくだらない話は楽しくて、いつまでも喋っていたいなんて思った。

次第に口数が減ってくると、雪乃が小さな頃、あたしのベッドに潜り込んできたときと同じように髪を撫でてあげた。

眠くなってきたのを見計らってこうしてあげると、雪乃は安心した顔ですぐ眠りについたっけ。

瞼を閉じ、微かに開いた唇から漏れる吐息が、次第に規則的になる。
こうしてみる雪乃の寝顔は、子供の頃と変わらない。
昔の記憶が重なる。
可愛いあたしの妹。


無垢な雪乃の寝顔を見ていると、愛しさと苦しさが同時に湧いた。


ちゃんと、しなきゃ。


あたしはベッドからそっと抜け出し、テーブルの上の携帯電話を手に取った。
そして、零にメールを打った。


もう会えない、と。


携帯の電源を落としてバッグにしまうと、あたしは雪乃の横に戻り、瞼を閉じた。

update : 2007.01.〜(改2010.09.01)