19
昨日の嵐のような天気は回復傾向に向かっていた。
昼過ぎまで雨は降っていたけれど、今はもう止んでいる。
けれどまだ厚い雲に覆われた空も、身体に纏わりつくような湿気の多い空気も、スッキリせずにいて良い気分にはなれない。
人ごみにいると、余計にそう感じるのかもしれない。
渋谷駅のハチ公口は人で溢れ返っていた。
土曜日だとあって待ち合わせも多く、あたしは一番見つけやすい交番の前に立っていた。
「花音!」
セミロングの髪を肩先でふわふわと揺らして、黒のシンプルなフラノのコートにパンツ姿の大人っぽい女性は、小走りにあたしに近づいてきた。
少し乱れた息を、ふぅ、と整えた後、友人のさくらは微笑んだ。
「待たせちゃった?」
「ううん、大丈夫。
あたしも今来たところ」
「ごめんね、急に呼び出して。
新規店舗の工事の進行状況チェックと、建築士と現場監督との打ち合わせがあって、急に午後から空いたからさ。
いつもは私、土日は仕事だから会えないじゃない?
久しぶりに花音に会いたいな、なんて思って」
三島 さくら(みしま さくら)は中学校からの友人だ。
卒業してからはお互いの高校も違い、その後の進路も全く異なるものだったけれど、たまに電話をしたりメールをしたり一緒に食事をしたりと、ずっと仲が良い。
何かあると、お互いに必ず相談もする相手だ。
高校を卒業後、彼女は宝石店の販売員となった。
仕事も出来て人望もある彼女は、今度渋谷の新規店舗を任され店長となるそうだ。
「うん。朝、急に電話がかかってきたからビックリしたよ。
でも、あたしも会いたいって思ってたんだ」
家にいたくなかった。
一人で考え込むのも嫌だったし。
そんな時にさくらから電話があって、嬉しかった。
誰かといた方が、気が紛れるから。
それに、啓人と別れたことも報告しなくてはならなかったし……。
「あー、ごめんね。何か、バタバタしちゃってて、急で。
昨日は忘年会もあったしさ。来週末は新規店舗の顔合わせだし、何か本当に忙しいんだよね」
「あたしも……昨日は忘年会だったよ」
「時期だよねぇ?
花音の部署、人数多いんだよね?
ウチはショップ内だけだし女ばっかりだから、ちょっとそういうのって羨ましいよ。盛り上がった?」
まあまあかな、と、苦笑いを返し、話を切り替える。
「それよりどこ行こうか?」
「ボーナス出たからね、買い物したいなぁ。代官山でも行く?
で、美味しいお店でご飯でも食べよ」
代官山――。
零のバイト先からは目と鼻の先だ。
夕方からのバイトだろうから、まさか偶然でも会うことはないとは思うけど……。
今はやっぱり何となく会いたくない。
あたしの返事よりも先に「行こう」と、さくらは楽しそうに東横線の方へと足を向けた。
女って、基本的にはショッピングが好きなイキモノだ。
特にこれといって欲しい物がなくても、行き当たりばったりのお店に入っても、それなりに楽しめる。
アレ可愛い、コレ可愛いと、買わなくてもつい長居して見てしまう。
さくらは、結局お気に入りのセレクトショップで、ツィードのスカートとツインニット、それにエナメルのパンプスを買った。
あたしは、違う店で見つけたパールとビーズを襟元にあしらったグレーのカーディガンを買った。
久し振りに会ったというのにもかかわらず、話も尽きない。
くだらないことで盛り上がって笑って。
だから、なかなか話は切り出せなかった。
歩き疲れて一息つくために入ったカフェで、あたしはようやく啓人と会社のことをさくらに話した。
零のことも、雪乃のことも……。
さくらの妹のつばきは雪乃の二歳上と学年が近いせいもあり、当時雪乃のどんな噂話が流れていたのかも知っている。
そのくらい、近隣の学校にも噂は広まっていた。
雪乃が被害者の一人ということは、他校生なんて知らないだろう。
それでも本人にしてみれば、少しの噂でも大きな問題で気になるものだ。
雪乃はそんなこともあり、学区外のエスカレーター式で、外部からの入学が少ない今の高校を選んだ。
そんな事情もさくらは全て知っている。
「もう、会うの、止めなさいよ」
一通り話し終わると、さくらは開口一番にそう言った。
あたしは小さく頷く。
「……分かってる」
「雪乃が好きな人か……厄介ね。
花音と身体の関係まであるなんて、余計に厄介。
雪乃が知ったら、ショックじゃ済まされないわ」
「分かってる、ってば……」
いつもは砂糖もミルクも入れるコーヒーを、黒い色のまま口に含んだ。
口の中だけでなく、身体の中も苦みが浸透していく気がする。
胃の辺りがキリキリと痛んだ。
「花音はその零くんのこと、正直に、どう思ってるの?」
テーブルの上で指を組んださくらは、質問を投げかけながらあたしをじっと見つめてきた。
小さな嘘も見逃さないようなさくらの瞳が、あたしの目の奥まで覗き込んでくる。
「一緒にいると楽しいし、ドキドキしたり、そういうのもあったけど……好きとかそんな感情じゃないし」
「……そうね。好きになっちゃ駄目よ。
今回は雪乃に譲りなさい。歳だって離れてるんだし」
「だから、譲るとか、そんなんじゃ、ないよ」
あたしは視線を落とし、カップの中のコーヒーを見つめる。
白く上がる湯気の下に映るのは、歪んだ顔の自分。
下を向いていても、さくらの視線が刺さってくる。
さくらは小さな溜め息を落とすと言った。
「私には好きになりかけているように見えるから心配なの」
あたしは顔を上げた。
「好きじゃ、ないし」
さくらはあたしの顔をじっと見たまま、ほんの少しの間沈黙し、またふうと息をひとつ落とす。
「ふーん。分かった。じゃ、そのことはもういいや。
森さんのことは? 納得してるの?
何か理由があったとも思わない?」
「理由があったとしても、彼女と結婚するのはもう決まってるんだから、忘れる。
気持ちも少し落ち着いたし」
「そう」
さくらは小さく答えると、まだどうにか微かに湯気の上がるコーヒーカップを手に取った。
飲みやすい温度になったコーヒーをぐいっと流し込んだ後、眉間にしわを寄せた顔から穏やかな笑顔に変えた。
「そういえばさ、春の新作モデルの写真あるんだ。見る?」
「見る!」
「意見とか聞かせてもらいたかったんだー」
さくらはヴィトンのモノグラム・ヴェル二の赤いヒューストンを手に取って膝の上に載せた。
いかにも仕事が出来そうなさくらに似合う、大きな高級バッグだ。
そこから透明な写真用のファイルを取り出し、テーブルの上で広げた。
重苦しい話題から、話が変わったのは、正直ホッとした。
それに、宝石やアクセサリーって、大好きな物の一つ。
見るだけでも楽しくなる。
「ほら、今度の店舗って若い子が多い渋谷でしょ?
だから自社ブランドで、値段も手頃なセカンドラインを立ち上げたのよ。
ジルコニアや淡水パールとかの安価な石を使ったりして価格を落としてるんだけど、品が良くて可愛いモノを目指してるんだ。
ほら、コレとか可愛くない? 花音好きでしょ?」
「可愛いっ!」
キラキラ光る指輪にネックレス、ピアス、ブレスレッド。
こういうのって胸がときめく感じ。
可愛いものとか、綺麗なものって、女の子にはやっぱり必需品。
身に着けると綺麗になるだけじゃなく、心も潤う。
さくらのように、こういう綺麗なものに毎日囲まれているのも羨ましいなんて思う。
まぁ、あたしには販売の仕事って向かなそうだけど。
「どう?」
「どれも可愛い!
でも、コレとか、もう少し石が大きくて、形がハートだったらもっと可愛いかも。
あと、こっちのはジルコニアじゃなくて、ピンクトルマリンとかピンク系だったらいいのになぁ。
あ、こっちも可愛い。でもあたしだったらパールの方がいいな。
あー、これ、これ、すっごく好み!」
夢中になって写真を見ながら話し始めて、ふと顔を上げるとさくらは呆けた顔をしていた。
「あー、ごめん。意見しすぎだよね?」
「ううん。
て、いうか、花音って案外そういうの向いてるんじゃない?」
「え?」
「こういうの、好きだもんね、花音」
「あーまぁ、アクセサリーとか、キラキラしたものとか可愛いモノは大好きだけど」
「今の仕事辞めて、何か好きなことしたら?」
「はぁ?」
あまりに唐突な意見に話が付いていけず、目を丸くしてさくらを見た。
さくらは真面目な顔をして、あたしを見つめ返してくる。
「ねぇ、だって花音はさ、マーケティング部に異動して、それでいいの?」
とん、とん、とん、と、ピンクベージュに塗られた中指の長い爪で、さくらはテーブルに音を立て出した。
「よくはないんだけど……でも、正直どうしていいか分からなくて、辞令に従ってるだけって言うか……」
あたしは答えると、コーヒーに手を伸ばした。
苦い。
自分でも良くないことだと分かっているばかりに、それを言われると急に気分は重たくなった。
「辞めるなら今じゃないの?」
「………」
「どうせ、営業部は出るんだし。
引き継ぎして、すぐ辞められるでしょ?」
テーブルに立てられる爪の音が一層早くなって、頭の中に響く。
「簡単に言うけど、だからって何かやりたいこともないし……。
それに、あたしだって、ちょっとは考えたよ」
「やりたいことなんて今から探したって遅くはないんじゃない?
もう24だけど、されど24よ?
まぁ、その、マーケティング部とやらに異動することをチャンスと思うかも花音次第だけど。
でも、私はお情けでもらった人事異動なんて、クソみたいなモンだと思うわけよ」
「うん……」
それは、自分でも分かってる。
それでも、友達にハッキリ言われるのはキツイ。
「花音さ。せっかくこういうの好きなんだし、好きな物からキッカケ生んでみてもいいと思う。
何か、考えてみたら?」
「……うん」
好きなこと。
やりたいこと。
さくらの言ってることは真っ当だ。
それが出来るならば、一番良いのかもしれない。
けれど、就職難のこのご時世で辞職するということは、あたしにとってはかなり大きな問題だ。
プライドを取るか、安定を取るか――休んでいる間に考えても答えが出なかった。
ただ流れに身を任せて、結局あたしは異動を受けてしまった。
マーケティング部への異動は間近だ。
もう、はっきりと答えを出さなくてはならない。
カフェを出ると辺りは薄暗く、どこもかしこも電飾たちが光を灯していた。
さくらは「綺麗だね」と喜んでいたけれど、今のあたしは、クリスマスのイルミネーションなんて綺麗すぎて眩しくて嫌いだった。
しかも啓人に振られたことも、零に出逢ったことも思い出させる景色なんて。
代官山なんて行きたくないと、断れば良かったなんて、今更また後悔する。
「中目まで歩こうか?」と言うさくらの提案を断り「やっぱり地元でご飯を食べようよ」と、今度こそは半ば強引に駅の方へと向かった。
だって、絶対に今、零に会いたくなかったから。
もし会ってしまったらどんな顔して良いのかも、どんな会話をすればいいのかも分からない。
それにもう、会わない、って決めたんだし――。
少し歩いたところで、数十メートル先に、背が高くて目立つ女の子が見えた。
見覚えのあるファー付きの白のロングダウンコートに、ブーツインしたスキニーデニム。
茶色いさらさらの長い髪が揺れている。
すぐに雪乃だと分かった。
それなのに、さくらにそれを言うことも、雪乃に声をかけることも躊躇した。
「あれ? ねー、花音、あれ雪乃じゃない?」
結局あたしが言うより先に、さくらが気付いて指差した。
何で妹なのに自分から声がかけられないの?
何をそんなに気にしてるの、あたしは――。
「ゆーきーのーっ!」
さくらが大きな声で呼ぶと、雪乃はこちらに振り返った。
そしてあたし達を見つけると、驚いた顔のあと、人懐っこい笑顔に変わる。
「お姉ちゃん! さくら姉!」
雪乃は息を切らせて近づいて来て、さくらと両手を掴み合ってきゃあきゃあとはしゃいだ。
「さくら姉、久しぶり!
会いたかったんだよー! 元気だったっ?」
「元気よー。雪乃こそ。
何? 一人なの? 何してたの?」
「友達とちょっと。
その子、バイトに行っちゃったから、あたしは帰るとこ」
心臓がドクンと鳴った。
友達? バイト?
もしかして、零?
胸が痛い。
これは雪乃に対する罪悪感からなの?
何でこんなに、気になるのよ……。
「そうなんだ? うちらこれから戻ってご飯行こうって言ってたところ。
帰るなら、雪乃も一緒に行こうよ」
「えっ、いいの!?」
雪乃は、嬉しそうに声を上げてあたしを見た。
そこで会ってからまだ一度も口を開いていない自分に気付き、あたしは慌てて二人と同じような笑顔を作った。
本当に何をやってるんだろう。
こんな自分を、雪乃に気付かせちゃいけない。
「じゃ、雪乃の好きなところに行こうよ。
何食べたい? お姉ちゃん、奢るし」
「ホントっ?
じゃ、恵比寿にあるイタリアン! いつも気になってた店があるの!」
「いいよ。ボーナスで出たしデザート付きで」
「やったー!
高校生にはナカナカ行けないお店だからさー」
雪乃は手袋をした両手をパチンと合わせてにんまりと笑った。
本当に嬉しい顔をするときは、右の頬っぺたにえくぼが出来る。
普段は大人っぽい雪乃も、こうやって笑うとやっぱり幼くて可愛らしい。
嬉しそうな笑顔の雪乃を見て、今度こそあたしも自然な笑みが浮かんだ。
さくらはそんなあたしの気持ちに気付いたのか、肩にぽんっと手を置いて微笑んだ。
「あー! いっけない!」
と、雪乃は急に思い出したような声を上げた。
「あたし、お母さんに夕飯までには帰るって言っちゃった!
お父さんゴルフでいないし、一人で平気かな?」
「じゃあ、電話してみれば?」
「うん。そうする」
雪乃は、ダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
雪乃の長い指で包まれたその携帯に、赤く光るものが見えて、思わず目がそこに留まった。
「あー、おかーさん? 雪乃。
今、お姉ちゃんと偶然会ってね」
雪乃が耳に当てた携帯電話は、いつもの小さな人形やアクセサリーのジャラジャラ付いたものではなかった。
ストラップがひとつ、シンプルにそこに光る。
それはあたしが零に買ってあげたはずの、赤いダイヤ型カットの恋愛のお守りだった。