17
「なのにさ、他の男にべたべた触られたくないよなぁ」
零はまたひとつ息を吐き出し、瞼を閉じた。
自己嫌悪のように見えた。
――違う。
違うのに。
けれど、言えなかった。
言ってしまったら――あたしが零に対してドキドキしていたり、意識していることを見透かされそうで、怖かった。
あたし達は恋愛感情がなく、成り立っている。
それに、あたしが啓人のことを忘れられるように、って、零は一緒にいてくれるのに。
啓人のことを振切れたら、あたしたちの関係はそこで終わる。
――『花音はさぁ、その零クンのこと、好きになったの?』
朝の奈緒子の言葉が過った。
……好き?
まさか。
だってあたしは、啓人に振られたばっかりで……。
しかも、零とはまだ会って三回目だし。
すぐ隣の零を見つめた。
瞼を閉じて、シートに凭れたその姿が、駐車場内に灯るオレンジ色のあかりで浮かび上がる。
やっぱりカッコイイよね。
どんな姿でもサマになってる。
こんなカッコイイ人だから、きっと必要以上にドキドキしちゃうんだ。
うん。多分。
きっとそう。
……て。
零ってば動かないけど、まさか寝てないよね?
身体を起こして覗き込んでみると、ピシリと額に衝撃を感じた。
「痛ぁ」
「あんまり見ると、金取るよ?」
「だからって、デコピン?」
「見過ぎ」
「だって動かないから、もしかしたら寝ちゃったのかと思って」
「………」
ちょっと黙りこんだかと思ったら、零はぶぶっと吹き出した。
「んなワケねーじゃん!
マジで面白過ぎ!」
「そんなに笑わなくても……」
「だって、傷付いちゃったんだけど?」
「え?」
傷付いた?
「じゃあー、傷付いた花音さんのためにー、お誕生日はどっか企画しとくね?」
「誕生日?」
「クリスマスイブは花音さんの24歳の誕生日でしょ?
どーせ、暇でしょ? 一人じゃ寂しいでしょ?」
そう言って、零は微笑んだ。
さっきの、傷付いた、って、あたしのことか。
そうだよね。
「どうせって失礼ね。暇だけど……さ」
あたしはひねくれて答えたけれど、本当は凄く嬉しかった。
意地悪っぽく言っているけど、優しい零。
誕生日も、イブも、女の子にとっては、とても重要な大切な日。
「じゃあ、はい。約束」
あたしの顔の前に、零の小指が立てられた。
今度は迷わず、その長い指を自分の小指で絡めた。
「うん。約束、ね」
雨脚は更に強まり、風が葉のない街路樹を揺らして音を立てていた。
天候は予想だにしない大荒れとなっていた。
サイドガラスは叩き付けられた雨で外が全く見えない状態だった。
フロントガラスも、ワイパーが雨を拭っても、すぐに大きな水玉達が視界を邪魔する。
バケツをひっくり返したような雨とは、まさにこんな状態だ。
家の目の前まで送ってもらったのはいいけれど、この嵐のような雨の中、零を一人で帰すのは心配になってしまう。
「帰り、一人で大丈夫?」
「なんだよ……。花音さん、オレのこと馬鹿にしてない?
平気だよ。オレ、超が付くくらいの安全運転じゃん」
「だって、雨、酷過ぎるよ。
これじゃあ視界が悪くて危ないもん。心配だよ」
運転下手だし……は、伏せておいた。
せっかく、送ってくれたんだし。
「オレより、花音さんこそ家の前だけど、この雨じゃ濡れちゃうよ」
確かに、車を降りてから玄関に入るだけでも濡れるくらいの大雨だ。
でも、そんなことはどうでも良かった。
「あたしはもう家なんだから、いくら濡れても平気だもん。
だけど零は……」
「だーいじょうぶだって。
あ。ほら、またコレ頭に巻いてきなよ」
零はあたしの心配そっちのけで、さっきと同じように頭にマフラーをかけてきた。
「ちょっとでも濡れないように……って、花音さん、ひょっとこみたい」
あたしの顔を見て、ぷっと吹き出した。
自分で巻いたクセに!
「失礼ね! せめてジプシーって言ってよ」
「ほら、その膨らんでるほっぺ。かっわいいね、花音さんっ」
言われて頬の膨らみを引っ込めた。
もう。ホント、零といるとあたしのが子供みたい。
「それ、褒めてるの? けなしてるの?」
「褒めてるの」
ぽんぽんっとあたしの頭の上で、零の手が跳ねる。
可愛い笑顔付きで。
ホントにニクイ奴……。
「……ありがと。
洗濯して返すね」
「別に洗濯なんてしなくていいよ。
それより、風邪ぶり返さないようにね」
「うん。
今日は本当にありがとう」
ありきたりの言葉が、上手く零に伝えきれていない気がした。
零があのタイミングで来てくれて、本当に嬉しかったのに。
それが伝わっていないような気がした。
車を降りて家まで走っても、ほんの僅かな距離なのに、思っていたよりも雨に強く打ち付けられた。
玄関の軒下に入るとほっと一息吐き、流れ落ちる雨垂れの間から、零の車が出るのを見送った。
完全に車が見えなくなってから、あたしは玄関のドアを開けた。
「ただいま」
一歩入り込んだ瞬間、目の前の廊下に父が立っているのが視界に飛び込んで、心臓が飛び出るほど驚いた。
「びっくりした」
「なんだよ、こっちこそ。
おかえり花音」
父は、ブルーのチェックのパジャマに肩へとタオルをかけた姿で、いかにも今風呂から上がったばかりの様子は湯気でも出ていそうに見えた。
たまたまお風呂から上がった時間とかち合ったのだろうけれど、玄関のドアを開けた瞬間に父の姿というのは、零と一緒だったことに後ろめたさを感じる。
まだ、啓人と別れたことを話していないし……。
やっぱり、なかなか両親には言いにくい。
あたしと彼との結婚を望んでいたのは、知っているから。
親からしてみたら、彼は理想の結婚相手なのだろう。
理想――。
それは、あたしも思っていたこと。
「お前、何だ? その頭」
ドキッとする。
あたしは、慌てて頭のマフラーを外した。
「雨、凄いから、濡れないようにだよ」
「そうか。凄い雨だもんなぁ。
でも、タクシーで帰ってきたんだろ?」
「う、ん」
「お前、忘年会だったんだろ?
今年は随分帰りが早いなぁ」
「……うん」
答えながら、パンプスを脱いだ。
何となく、顔が見づらい。
「お母さんは?」
「今、風呂に入った。
雪乃は台所にいるぞ。何だか、写真を見てる」
「そう」
「お父さんはもう寝るからな。
明日、ゴルフで早いんだ」
「そっか。天気回復するといいね。
おやすみ」
「おやすみ」
父は鼻歌まじりに二階への階段を上って行った。
あたしは妙にほっとして、ふうっと息が漏れた。
そのままキッチンへ向かうと、父の言っていた通り、雪乃がダイニングテーブルの上に沢山の写真を広げていた。
「ただいま」
「おかえり。
早かったね」
「うん。病み上がりだし、ね」
答えながらコートを脱いだ。
こんな嘘でも、やっぱり苦手だ。
雪乃は写真を捲る仕草を止めて、こちらをじっと見た。
そして、にやりと笑った。
「そっかそっかぁ。
例のマフラーの人に送ってもらったんだぁ?」
ドキッとして、思わず持っていたマフラーに目を落としてしまった。
雪乃って、本当に鋭い。
「そんなんじゃ、ないし」
「ふーん」
「写真凄いね。何の写真?」
にやにやと意味を含んだように笑う雪乃を誤魔化すように、あたしは話を逸らした。
「文化祭の。今日、久しぶりに麻衣(まい)と会って。
やっと文化祭の写真持って来たんだよ。遅いっつーの。ねぇ?」
「麻衣ちゃん元気?
中学卒業してからは、あんまり家にも来なくなっちゃったしね」
「んー、でもまぁ、外でたまに会うけどね。
お姉ちゃんが写ってるのもあるよ。一緒に見る?」
「うん、見せて。
今の高校生って凄いよね、写真」
「ケイタイでもデジカメでも撮りまくりだよ」
椅子を引きながら、テーブルの上のバラバラに置いてある写真を覗き込んだ。
コスプレなのか衣装なのか、メイドのような皆格好をしている。
制服姿で男女混じってピースサイン。
飾り付けされた教室。段ボールで作られた店。
如何にも、高校の文化祭といった写真たち。
いいなぁ。高校生だぁ。
こういうのって、羨ましい。
あたしも遊びに行って、久し振りに懐かしい気分で楽しかったな。
椅子に腰を据えると、束になっている写真を手に取って、1枚ずつ捲っていった。
――と。雪乃の隣のクラスの、お化け屋敷の写真が出てくる。
甦る浅い記憶。
雪乃に一人で行ってこいって言われて、怖くて焦ったら躓いて、お化け役の人に抱きついちゃったんだよな……。
思い出したら恥ずかしくて顔が火照った。
あたしってば、鈍くさいよなぁ……もう24歳にもなるのに。
手を止めたあたしに雪乃が気付き、覗き込んできた。
「あー、お化け屋敷?
お姉ちゃん、お化けに抱きついたんだよねー?
しっかりしなきゃね! 24歳!」
にやにやと意地悪っぽく笑う。
「分かってるよ、もう……」
それ以上言われるのが嫌で、さっさと次の写真を捲った。
けれど、次の写真でも、またあたしの手は止まって動かなくなった。
その写真に目を見張った。
楽しそうに笑っている、見覚えのある顔。
雪乃と同じ高校の制服を着た、笑顔の可愛いオトコノコ。
――零。
零、だ。
何で!?
写真に釘付けになったまま、固まって動けない。
「どうかした?」
雪乃は訝しげな顔をして、また手元の写真を覗き込んできた。
雪乃も一瞬、躊躇した。
あたしの手の中の笑顔に視線を落としたまま「それ……」と、声を漏らした。
そして、
「……その人があたしの好きなひと」
と、雪乃は言った。