16
顔を上げると、啓人よりも彼女よりももっと向こう側に、黒い細身のスーツに身を包んだ背の高い男の人が見えた。
『花音』と、あたしを呼んだその人。
いつもタイミング良すぎだよ、零。
「……ンで……泣いてるんだよ」
ずかずかと零は大股であたしの元まで来ると、右手を取ってきた。
力強かった。
折れて吹き飛ばされそうになっていたあたしの心を、取り戻してくれたみたいだった。
零の手は、いつだって温かい。
あたしは緊張の糸がぷつりと切れ、また涙が溢れ出てきた。
「人の彼女、泣かさないで貰えます?」
わけが分からない様子の二人に、零はギロリと睨みを利かせた。
彼女は驚いて開いていた口をそのまま動かした。
「彼女って……どういうこと?」
「どうも。森さんと、婚約者の優香さんでしたよね?
お噂は花音から伺ってます。
花音がいつもお世話になっています」
「ちょっと……あなた、何なんです?」
「ああ、申し遅れました」
こういう者です、と、零は二人に名刺を差し出した。
受け取った彼女は、そこでまた大きく目を見開いた。
「『倉田 惣(くらた そう)設計建築事務所
二級建築士 倉田 零』
……倉田 惣って……あの建築家の倉田 惣?」
「息子です」
あたしは二人の会話に驚いて、横にいる零を見上げた。
建築士って――どうなってるの!?
それに、零のお父さんって、そんなに有名な人だったの!?
スーツ姿の、いつもとは違う雰囲気の、大人な零。
高級そうな黒の三つボタンのジャケットに、空の色のようなブルーのシャツ。
背が高くてスタイルの良い零は、スーツまでも上手く着こなしていて、本当に格好良かった。
あまりにも大人びている零に、戸惑ってしまうくらい。
建築士という職業が、今の零にはピッタリと当てはまる容貌だ。
藤下優香は、眉を歪めながら名刺を睨むと、今度は反撃のネタを見つけたようにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「へぇー、建築士の彼ねぇ……。
長瀬さんて、おとなしい顔して啓人と二股掛けてたんだ?
よくやるわねぇ」
何て答えられるか楽しみだわ、とでも言うような顔つきだった。
あたしはどうしていいか分からずにいると、零はその言葉を嘲るような笑みを浮かべ、言った。
「二股掛けてたのは、アナタの婚約者でしょう?」
彼女はカッとして一瞬にして顔が赤らんだ。
零は、そのまま澄ました顔で続けた。
「言っておきますけど、花音は二股なんか掛けてないですよ。
オレ、以前からの花音の知り合いで、ずっと好きだったんです。
彼女の隣の席が空くのを待っていたんですよ」
零は握っていたあたしの手を離し、さっきからずっと黙ったままの啓人の目の前へと足を進めた。
「あなたがいくら欲しがっても、この席はもう絶対に譲りませんから」
どくん、と、零の言葉に心臓が高鳴った。
喉の奥がカラカラに渇き、胸が甘く締め付けられるようにきゅうっとした。
何、この気持ち――。
嘘の。
この場のためだけの言葉だと分かっているのに。
啓人は、何も答えなかった。
零が現れてからずっと黙ったままだ。
零の存在にも言葉にも名刺にも、特別に反応を示すこともなく無表情なまま。
眉の形を歪めた彼女は、ずいと、一歩前に出た。
「ちょっとっ! 何なのっ! どういう意味よっ!」
「花音を泣かすくらい、あなたは自信がないんですか?
ちゃんと彼のこと、掴まえておいて下さいよ」
「な、何よ、それっ!」
「花音! 零くん!」
彼女が声を荒げたところで、奈緒子の声がそれを遮った。
奈緒子は小走りにあたし達に近づくと、目配せするようにウインクした。
「零くん、久し振り。
悪いわね、呼び出しちゃって」
「ああ、奈緒子さん、こんばんは」
ええっ!?
いかにも知り合いというような二人の振る舞いに驚いた。
二人とも役者すぎるよ!
「やっぱり花音、調子が悪いみたいなの。
零くん、送って行ってあげてね。よろしく」
奈緒子は零ににっこりと笑いかけると、今度は啓人と彼女の方を向いた。
「課長、長瀬さんを先に帰らせて下さい。
調子が悪そうだったから、私が彼のこと呼んだんです。
いいですよね? 部長には私が言っておきますから」
有無を言わせない言い方だった。
そして、奈緒子はあたしのコートとバッグを「はい」と手渡してきた。
本当に気が回るというか、用意周到というか、さすがというか……。
「じゃあ、下まで送って行きますから」
「失礼します」
二人は笑顔を添えながら啓人と彼女に一礼すると、あたしの背中を押して帰るように促してきた。
あたしは何の異論も反論もせずにそれに従った。
正直、どうしていいか分からなかった。
啓人と彼女を残し、奈緒子を先頭に三人でエレベーターに乗り込む。
啓人は、結局、怒ることも、驚くこともなく、何も言わなかった。
――何も。
そう、思った時だった。
「花音」
ドアが閉まる直前、後ろから呼び止められ、あたしは振り向いた。
「おめでとう。マーケティング部でも頑張れよ! お前なら絶対にやっていけるから」
啓人の声が、響いた。
低くて、優しい、啓人の声。
そこで、ドアが閉じた。
どうして――。
そんなこと、どうして言うのよ、今。
外の空気は冷たくて、吐く息は白い。
一気にアルコールが身体から抜けていくようだ。
上着を着ていない奈緒子は、寒そうに腕を両手でさすっている。
「森さんて、何考えてるのかなぁ……?」
「……うん」
「よく分かんない人」
「そうだね……」
「まぁ、藤下優香のあの顔を見られただけでも、少しはスッキリしたけどさ。
苛立っちゃって、ばっかみたい。あれ、自信がないのよ。だから花音に意地悪するの。
あんなやつの言うこと、気にしない方がいいよ」
「……うん」
隣で、零は黙ったままだった。
難しい顔をしている。
「零くんてば、暗いよぉ。
ちょっと、こっち来なさいっ」
奈緒子は「ほらほらっ」と、零の腕を取って引っ張り、道の端に連れていく。
きっと、奈緒子なりの慰めというか激励みたいなものなんだろうけど。
それにしても、初めて会った二人なのに、まるで以前からの知り合いのような雰囲気だ。
あたしは、空を見上げた。
どんよりとした黒い雲が広がり、月も星も全て覆われてしまった空。
雨、降りそうだなぁ……。
何だか、あたしの心境と似ている。
重たげに暗く曇っていて。
泣き出しそうだけど、泣くことも出来ない空。
あたし達が思っている以上に、啓人は大人だった。
驚かせてやるどころじゃなかった。
啓人は、零を見て何を思ったの?
本当に、何も感じなかった?
あたしにすぐ新しい彼氏が出来ても関係ないの?
藤下優香の言うとおり、あたしのことは遊びだった?
……まさか。
と、そう思ったけれど、胸の奥が痛んだ。
「花音」
ぽんと、後ろから奈緒子に肩を叩かれ、ハッとして振り返る。
「あたしは戻るから、気を付けて帰ってね」
「あ、うん。
奈緒子、色々、ありがとね」
「ねー、零くん、可愛いね。いいじゃん?」
「いいじゃん、て……」
「うっふっふっ。
じゃ、まったねぇ」
奈緒子は「頑張ってね」と、小声で耳元に言い残して、すこぶるご機嫌な様子で小走りにビルの中に入って行く。
頑張ってって、言われても……。
奈緒子の姿が完全に見えなくなると、横に零が並んだ。
「花音さん」
「うん?」
「……ゴメン」
「何で零が謝るの?」
隣を見上げると、零は険しい顔をしている。
あたしたちは、互いに正対した。
「だってさ、複雑な気持ちにさせちゃっただろ。
オレって……マジで子供だよな……。
驚かせてやろうなんて幼稚な仕返しを無理矢理させて、ゴメン……」
零は、申し訳なさそうにあたしに頭を下げた。
背の高い零が、あたしの目線よりも下の位置まで身体が曲がって。
実際、複雑な心境だ。
啓人を驚かしてやろうなんて、それは確かに幼稚で浅はかな行為だったかもしれない。
けれど、零と約束をしていなければ、あたしはあの場で打ちのめされたままどうにもならなかった。
零が来てくれたから、救われた。
零はいつも、あたしが必要な時に現れてくれる。
まるでおとぎ話の王子様みたいに。
「あたし、零が来てくれて嬉しかったよ。
あんなタイミングで現れるなんて、カッコ良すぎ」
「………」
「啓人に言った言葉もカッコ良すぎ。
嘘でもあたし、ドキドキしちゃった」
思い出すとドキドキする言葉。
あんな風に好きな人に本気で言ってもらえたら、どれだけ嬉しいか。
「だから、謝らないで。
ホントに、嬉しかったんだから」
ね、と、微笑んでみせると、ようやく零の顔の強張りがとれた。
「うん」
少し笑みをみせた零は、そんなところがやっぱり可愛いな、とか、思う。
「零、今日は電車で来たの?」
「ううん、車。向こうの駐車場に置いてある。送るよ」
「うん。ありがと」
「じゃあ、はい」
目の前に手が差し出された。
それは、手を繋げってこと?
今まで手を繋いだときは、自然に手を取ってきたくせに……。
そんな風に差し出されたら照れ臭くって、妙に繋ぎにくい。
「手……繋ぐ、の?」
あたしってば、中学生みたいだ。
こんなことで戸惑っているなんて。
「今日は恋人じゃん?」
「だって、それは……」
「何だよー、大人でしょ?」
「……もう。
そーだよ。大人だよ」
あたしは、観念して目の前の手を取った。
零はニッと笑う。
こんな風のが、零らしい。
零はちょっと生意気で、いたずらぽく笑っているくらいの方がいいなんて思った。
ふと『いつも笑っている花音さんでいて欲しい』と言われたことを思い出す。
零も、こんな気持ちなのかもしれない。
あたし達は、歩き出した。
握った手が温かい。
あたしよりずっと長い足が、あたしの歩調に合わせて、ゆっくりとしたペースで前に運ばれる。
こんなふとしたことが、心地良く感じる。
クリスマスのイルミネーションに飾られた街並みの中、手を繋いで歩いていたら、誰から見ても恋人同士に見えるのかもしれない。
ううん。きっと、かも、じゃなくて、そう見られる。
しかも、零はかなり目立つ。
一緒に歩いていると、時折女の子が振り返ってこちらを見る。
こんなこと、初めて。
マンガやドラマの世界だけであることだと思っていたのに、実際にそんな人がいるなんて。
だから、何だか恥ずかしい。
自分が不相応だよな、とも考えてしまう。
年上で、特に綺麗でもスタイルがいいわけでもないあたし。
友達でも、恋人でもない、不思議な関係のあたし達。
「ね、そう言えば、さっきの名刺。建築士って……?」
「あー、あれ急遽作った。
だって、相手が相手だけに、学生じゃあハク付かないし。偽装、偽装」
零は、にんまり笑う。
偽装って……。
「あたしがビックリしたよ!」
「だろーね。
でも、予定だから。マジで取るから」
そう言った零は、真剣な顔になっていた。
「今まで、親父が親父だから、建築士になるのが当たり前みたいに周りには思われてて……それが凄く嫌だった。
でも、だからって特になりたいものもなくて……」
「……うん」
「でも、今はさ、なりたいんだ。なるって決めたんだ。
オレ、二級建築士の資格取って、家建てたいんだ。
普通の家族が住む、幸せになれる家。
親父みたく、デカイ建物じゃなくていいんだ。小さくても、幸せな家」
横顔を見上げた。
夢を語る零は、まっすぐでキラキラして見えた。
それに比べて、あたしは……。
何も、ない。
嬉しそうに語る零の口元から、白い息が上がる。
あたしはそこで持っていた紙袋を思い出した。
「零、寒くない?
借りてたマフラー持って来たよ」
「あー、うん」
「ハイ。ありがとね」
紙袋から取り出し零に手渡すと、ぽつ、と、冷たいものを頬に感じた。
続けて透明の粒が上からいくつも落ちてくる。
「あ。雨」
「あー、降ってきちゃったかぁ」
零は、受け取ったはずのマフラーをあたしの頭にぐるりと巻いた。
「駐車場、すぐだから走ろ」
「これ、マフラー……」
「濡れるよりマシっしょ?
花音さん、病み上がりだし」
雨はすぐに大粒のものに変わり、あたしたちは走った。
駐車場まではすぐ近くだったけれど、それでも急に本降りになった雨は容赦なくあたし達に打ち付けた。
車に乗り込むと、濡れたコートを脱いだ。
それさえ脱げば、中は大丈夫だった。
髪も零がマフラーを巻いてくれたお陰で、そんなに濡れていない。
「零、 大丈夫? スーツ、濡れちゃったでしょ。
天気予報では明け方から降るって言ってたんだけどな」
零の緩いパーマのかかったふわふわの髪は、濡れてぺしゃんこになっている。
あたしはバッグからハンドタオルを取り出して、零に手渡した。
「これ、使って」
「サンキュ。
ジャケット脱いじゃえば平気だよ。中はそんなには濡れてないし」
零はジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めて外し、あたしの渡したタオルで濡れた髪を拭き出した。
零のその仕草は、しっとりと胸元に纏わりつくシャツと濡れた髪のせいもあって、妙に色っぽかった。
なぜか、最初の日のことを思い出してしまった。
やだ……何考えてるの?
だけど。
あたし達って、そういう関係なんだよね……。
意識しだしたら、急に心臓がバクバクと音を立て始める。
「花音さんは、大丈夫?」
零はあたしの髪に触れ、顔を覗き込んでくる。
ドキッとして、あたしは思わず顔を逸らした。
もう、ホント……ヤバイ……。
あたし、意識し過ぎ……。
「全然、大丈夫……。
コートも着てたし、零のマフラーで濡れなかったし」
「でもさ、顔、赤くない?
もしかしてまた熱出ちゃった?」
髪から手が離れたかと思うと、その手はそのまま額に触れてきた。
零の掌の温度がそこから伝わってくる。
心臓はますます速く打ち付けてくるのに。
それなのに、掌の感触が気持ちよく感じるなんて。
――もう、駄目。
「そんな風に、触らないで。熱なんてないから」
どうにもならなくなってそう言うと、零は一瞬、止まった。
「……ゴメン」
言葉と一緒に、掌も間近にあった身体も離れた。
離れた手と身体に少しほっとして、あたしは車のシートに寄りかかった。
まだ、ドキドキしてる。
零もゆっくりとシートに凭れかかり、大きな息を吐いた。
「元彼……スゲエ格好良かったよな。
オレと違って、大人だし……。
花音さんが、すぐに吹っ切れないのも分かるよ」
「え?」
「分かる」
零はそう言って、苦く微笑むように少しだけ口角を上げた。