15

大丈夫だと誓って意気込んで家を出たのに、いざ会社の前まで来ると躊躇して足が止まった。
自動ドアを潜ればすぐに彼女を目にしなくてはならないかもしれないと思うと、やはりあまり良い気分にはならない。

コートのポケットの中の携帯電話をまさぐった。
そこに付け替えられた元気の出るお守りを握り締めて、あたしは一歩を踏み出した。

他の社員が開いた入り口の自動ドアに、するりと一緒になって入る。


――いない。


まだ空の受付カウンターを目にして、一息吐く。


こんな風に、いつまでも嫌な気持ちで出社しなくちゃいけないのかな……。
そのうち何とも思わなくなるのかな……。


三日間という病欠は、あたしに考える時間を与えてくれたような気がする。
それでもそんなに時間があったにもかかわらず、ろくな答えは出てこなかった。

マーケティング部への人事異動も、今日手続きをしなくてはいけないのに、未だに受けて良いものか悩んでいた。

社員なのだから、辞令には従わなくてはならないのはもちろんだし、やってみたいとも思う。
けれど、これは自分の実力で勝ち取ったわけではない。
あたしみたいなただの腰掛けOLが行って良い部署なんかじゃない。
それが分かっているから煩悶する。

会社を辞めることも考えた。
でも、辞めてどうするの? やりたいことさえないくせに。

中途半端すぎる自分に、笑いまで込み上げた。
本当に情けなくて……。




「やっぱり、今日来るらしいよ。アイツ」


給湯室で電気ポットの水を入れ替えていると、後ろから急に囁くような声が言った。


「奈緒子……ビックリした……」

「おっはよ。
どう? もう身体は大丈夫?」

「あー、うん、大丈夫」

「そっか。良かった」

「ね、アイツって……藤下さんのこと?」

「そ。今日の忘年会に来るって。ついさっき、部長と下で会ってそう言ってたよ。
違う部署なんだから、わざわざ来るなっつーの。ねぇ?」


奈緒子は大袈裟に首を竦め、あたしに同意を求める。
あたしは、うんともすんともはっきり言えずに、曖昧な笑みを返した。

奈緒子は、もう一度渋い顔をすると、唇を尖らせたまま持っていた缶コーヒーを手の中で弄ぶ。
最近テレビCMで朝用コーヒーとうたっている新発売のモノだ。
奈緒子はプルタブを開け、ひとくち口づけると、今度はにんまりと嬉しそうな笑みを浮かべた。


「美少年、零くんだっけ?
どんな風に驚くかなぁ、あの二人」


奈緒子の声の大きさに慌てて、しーっと立てた指を唇に当てた。
給湯室はあたし達しかいないとはいえ、狭い空間のうえ廊下へのドアも開け放してあるせいで声が響く。しかも、出社時間で廊下の人通りも多い。


「声、大きいし!」

「あー、ごめんごめん」


えへへ、と微笑む奈緒子はどうも緊迫感がない。

奈緒子には、休んでいる間に電話で啓人のことも零のことも掻い摘んで話した。
そのときはまだ熱もあったし、事細かには話さなかったけれど、零との件は『花音がそんなことをするなんて』と、相当驚いていた。

いくらショックでアルコールが入っていたからといって、あんなに大胆なことをするなんて、自分でも不可解なんだから、奈緒子が驚くのは当然だ。


奈緒子は、飲みかけのコーヒーを一気に飲み干すと、近くのゴミ箱に向かって放り投げた。
空き缶はスカッとするような小気味良い音を上げながら、缶専用ゴミ箱に吸い込まれた。
「決まった!」と、ひとり奈緒子はガッツポーズをする。子供みたいだ。


「ねぇ、花音」

「ん?」

「花音はさぁ、その零クンのこと、好きになったの?」

「はあっ!?」


突拍子もない質問に、思わず声が裏返ってしまった。


「だから……っ!
そんな関係じゃないし!」

「そ? いいじゃん、トシシタ」

「だーかーらーっ!
そんなんじゃないってば!」

「あのねぇ、男の傷は男で癒やすの。
知ってる? 女って生物は、切り替え早いの。
すぐに恋が出来ちゃうもんなの」

「別に……すぐに恋したいわけじゃないし……」

「そんなに優しくて花音のことを思ってくれる人なんて、ナカナカいないと思わない?」

「そんなこと言ったって……。
しかも零には好きな人いるみたいだよ?」

「……ふーん。ま、いいけど。
今日会うの楽しみにしとこーっと」

「もう……。
奈緒子ってば、楽しんでるでしょ……」

「だってさぁ、あの森さんがあんなに酷いことしたんだからさ、ちょっとは仕返ししないとね?
一途だと思ってた花音ちゃんが、振った直後にイイ男連れてたら、普通驚くでしょ?
どんな反応するか、見てみたくない?
花音もその顔見て少しはスッキリしなさい!
こんなこと考えた零くんって、ホント面白い子だわっ!」


ぱんぱんっと、奈緒子は調子良くあたしの肩をはたいた。


あたし的には微妙な心境なんだけど……。
しかも、面白い子、って……。

やっぱり楽しんでいるらしい。









その日は、一日中落ち着かない時間を過ごした。

それでも、啓人は午前中から外回りで部署内にはほとんどいなかったのと、普段は大して忙しくもないのにさすがに年末らしい慌ただしい業務は、深く何かを考えている時間も余裕もなく、あたしにとっては救いとなった。

人事部に出向き、異動の手続きも行った。
たった紙切れ一枚で、あたしは来年からマーケティング部の人間となる。
実感なんて、とてもじゃないけど湧かなかった。
嬉しさも、全くと言っていいほど、感じられなかった。

あたしが休んでいた間の仕事は、奈緒子と一年後輩の宮下 薫(みやした かおる)ちゃんが分担してやってくれたらしい。
ただでさえ忙しい年末業務に、あたしの分の仕事まで上乗せしたら、残業も必然だ。きっと大変だったと思う。
お昼には「昨日の白鳥ホテルとの接待は、エロオヤジで最悪だった」とか、奈緒子がぼやいていた。

奈緒子には、本当に感謝してる。
薫ちゃんにも、何かご馳走しなきゃね。







「かんぱーい!」


部長の音頭に続いて、営業部一課と二課、総勢46名が高々とグラスと声を上げた。

皆一杯目のビールを軽々と飲み干し、近くに空のグラスを見つけるとすぐに注ぎ込む。
そしてそれもすぐになくなり、またすぐに同じ色の液体でグラスは埋まる、をくり返す。
目の前のテーブルには、これでどうだと言わんばかりの大量の料理とビール瓶。
これらを毎年ほぼたいらげてしまうのだから、さすが接待の営業部、といった感じだ。

あたしの右隣には奈緒子、左隣には薫ちゃんが座っている。
奈緒子も薫ちゃんも、共に三杯目だ。

そして、ひとつ向こうのテーブルの奥には啓人がいた。
もちろん、その隣には藤下優香が座っている。
あたしの席から、ちょうどよく見える席に。

彼女が彼に腕を絡ませ、寄り添い微笑む。
左手のほっそりとした薬指の付け根には、光るダイヤの指輪。

あたしの視界を独占する二人――。


「あー、あの二人、噂、知ってます?」


視線の先に気付いた薫ちゃんが、あたしに顔を寄せてきた。
あたしも奈緒子も、振り返って薫ちゃんを見つめた。

先週サロンに行ったというデジタルパーマのかかった薫ちゃんのブラウンの長い髪は、くるりと綺麗にカールしている。
睫のエクステに、何重にも重ね付けされたマスカラ。きっちり目を囲むアイライン。
イマドキの女の子、薫ちゃんは、忘年会ということもあってか、いつもより気合いの入ったメイクだなと思った。


「課長にー、彼女がいるのに、藤下さんが奪ったって噂ですよ」


睫を瞬いて声を低めた薫ちゃんに、奈緒子は知ってると言わんばかりの息を吐く。


「それで?」

「それでって……父親の権力かざして、結婚を脅したって。
これも知ってます?」

「知らないけど、そんなの予想はついてたわよ」


ふぅんと、奈緒子はテーブルに肘をついた。
あたしは黙ったままだった。
膝の上の拳に力が入り、掌にはじわりと汗が滲む。


「えー? 分かってたんですかぁ?」

「分かるでしょ、普通」

「じゃあもしかして佐藤先輩、課長の元カノが誰かってことも知ってるんですかぁ?」


ドキッとする。
元カノって――。

薫ちゃんのこの口調だと、その元カノがあたしだとは分かってなさそうだけど、それでもこういうのは心臓に悪い。
噂って、あたしのことも面白おかしく言われているのか……。


あたしは黙ったまま様子を窺っていると、奈緒子が答えてくれた。


「それは知らないけど……」

「なーんだ」

「なーんだ、って……。
どうせ薫ちゃんだって知らないんでしょ?」

「そーですけど。知ってたら教えて欲しいな、って」

「なーんだ……」

「先輩こそ、なーんだとか言わないでくださいよぉ。
じゃあ、課長のお母さんが……」


突然「皆さん!」と、主任の太くて大きな声で、薫ちゃんの声は遮られた。

元ラグビー部出身だという野沢主任は、体育会系というだけあって声が大きくよく通る。
ざわざわとうるさかった宴会場内は、ものの見事に静かなものとなり、野沢主任に注目が集まる。


「一杯飲んで盛り上がってきたところで、本日の主役の森課長と長瀬君に花束贈呈があります!」


歓喜の声が上がり、薫ちゃんは「あ!」と、思い出したように大きな口を開けた。


「あたし長瀬先輩に花束渡す役なんですよー。
さ、行きましょ、先輩!」

「え、あ、うん……」


薫ちゃんに腕を取られ立たせられると、グイグイと引っ張られて、テーブルとテーブルの人でいっぱいの狭い間をすり抜けて前の方へと向かった。
お座敷ということもあり、皆くつろいで手足を伸ばしているものだから、誰かの手を踏みそうだ。
けれど薫ちゃんはそんなのお構いなしのようで、どんどん進む。
薫ちゃんの足元を見ている方が怖い。

どうにか前へと出ると、すでにそこにいた啓人の隣に並ばせられた。
当然の如く、その横には藤下優香がいる。


「じゃ、先輩はここにいて下さいね。
あたし、あっちなんで」


薫ちゃんはあたしを置いて、他の花束贈呈をする女子社員たちのところに行ってしまった。
ちらりと奈緒子の方を見ると、澄ました顔がこちらに手を振ってくる。
こういうとき、度量のある奈緒子が横にいてくれればいいのに。

落ち着かなくて下を向いたけれど、すぐ傍からの視線を感じた。
彼女だ、と気付いたけれど、一応目を上げてみると、ギロリと怖い顔で睨まれた。
あたしは思わずまた俯いた。
美人に凄まれると、迫力がある。


ああ、もうヤダ……。
役者は揃ったんだから、早く終わらせてくれないかな……。


そう思ったところで、大きな花束を抱えた一課の女子社員二人が、前に出てマイクを握った。


「森課長と専務のお嬢さんである受付の優香さんの結婚式は、来年の六月に決まったそうです。
優香さんは三月いっぱいで早々に退社されるとのことです。
おめでとうございまーす! これは営業部一同からでーす!」


啓人と彼女に花束を手渡されると、おめでとうの歓声が沸き上がる。


「では、森課長から一言いただきたいと思います」

「ありがとうございます。皆に祝福されて嬉しいです。
営業部はウチの社内でも一番の大所帯ですけど、式と披露宴には全員を招待したいので、是非皆さん来て下さい」


聞き慣れた低い声が隣で言った。
照れ臭そうな笑顔。

……こんな表情もするんだ。


「皆さん、ありがとうございます。
啓人さんは私にとって憧れの存在だったので、結婚が決まり、本当に嬉しく思っています。
三月で私は退社しますが、営業部の皆さんにはこれから夫婦共々お世話になります。どうぞよろしくお願いします」


続けて挨拶した彼女は、本当に幸せそうに微笑んだ。
さっき、あたしを睨んだことなんて嘘みたいな可愛い笑顔。
頭を下げたあと、啓人の方へと顔を上げ、お互いにはにかみ合った。

誰かが「お似合い!」と声を上げた。


……うん。
あたしもそう思う。
あたしなんかより、ずっとお似合いの二人……。

そのうち……ちゃんと、笑っておめでとうが言えるようになるよね……?


あたしの中の黒いもやもやとしたモノは、この間よりも薄れていると思った。
二人を見て、まだ胸の痛みはあるけれど……。
それでも、少しあたしの中の何かが変わっていた気がした。


そうだ。
こうやって、少しずつ少しずつ、時間が解決してくれる……。
きっと。


「先輩、大丈夫ですか? 表情、固まってますよ? 緊張してます?
ほら、笑って笑ってぇ」


薫ちゃんがあたしの顔の前でひらひらと手を振って、ニッと口角を上げて見せる。


「あー、うん……ごめん、大丈夫」

「次、あたしの挨拶ですからねっ」

「うん」


野沢主任経由で、マイクが藤下優香から薫ちゃんの手元に回ってきた。
ん、と、薫ちゃんは皆の前でかしこまる。


「えー、皆さん、もうご存知だとは思いますが、わが営業部の長瀬花音さんは、来年一日付けで、花のマーケティング部に異動となりました! おめでとうございます!
営業部では大変お世話になり、ありがとうございました!
マーケティング部での更なる活躍を期待しています!」


「おめでとうございます!」と、まぁるい顔の薫ちゃんが、これでもかってくらい嬉しそうな笑顔で、あたしにオレンジとピンクのガーベラのラウンドブーケを手渡してきた。

受け取ると同時に皆からも、おめでとう、頑張れの歓声が上がる。

泣くつもりなんてさらさらなかったのに。
思ってもみないほどの量の涙が、ぽろぽろと頬を伝っていく。


「ありがとう……ござ……いま……す……」


途切れ途切れそう言うのが精一杯で、それ以上は言葉にならなくなってしまった。
自分で、この涙の意味がよく分からなかった。

嬉しくて泣いているのか――。
惨めで泣いているのか――。








泣きはらした顔と気持ちを落ち着かせるために、あたしは一人でレストルームに行った。

鏡の前でボロボロになったメイクを直す。
……みっともない顔、だ。

パンダ目になった目の下をコットンで落としていると、ふと、思った。


そういえば、零はいつ迎えに来るのかな……。


あたしの方は忘年会の場所と終わる大体の時間は伝えたけれど、零から具体的なことは何も聞いていなかった。
メールも何度かきたけれど、『おはよ〜』だの『おやすみ〜』だの『具合はどう?』だの、日常の挨拶みたいなものばかりだった。
朝も『今日、行くからね』とはメールはきたけれど、それだけだった。

忘年会が終わる時間に合わせて、店の外で待っているつもりなのかもしれない。
――と。きっとそうだ、と自己解決をする。


しゃんとしなきゃ。


もう泣かないようにと、鏡の自分に向かい合って、気合いを入れ直す。

最後にRMKのピンクのグロスを唇に厚めに塗ると、レストルームのドアがギギーっと音を立てた。

カツリ、と床のタイルにヒールが落ちる音が響く。

鏡の奥のあたしの向こう側で、藤下優香が笑みを浮かべていた。

鏡越しに目線が合った。
振り返ることが出来ない。

ピリピリと電気が走ったような緊迫した空気が流れる。


どうしよう……。
知らん顔して、早く表に出よう……。


目線を逸らし、メイクポーチをバッグに突っ込むと、カツンと、もう一歩ヒールの音が鳴った。


「情けない人よね、あなた」

「え……?」

「ホント、情けないわ。
自分の実力でも何でもない人事異動で、皆から『おめでとう』って言われて泣くなんて」


さあっと全身の血の気が引くのを感じた。
目の前の視界がぐらりと歪む。


「啓人が本気であなたと付き合ってたとでも思ってるの?」

「………」

「あーんまりにも可哀想だから、人事異動させてやったのよ。
優しーい、あたしって。
まぁ、営業部で啓人の周りをチョロチョロされても困るけどねぇ」


返す言葉なんて、なかった。

とにかくここから逃げ出したくて、あたしは彼女の横をすり抜け、入り口のドアを押した。


「ちょっと、待ちなさいよ! 逃げる気っ?」


レストルームから出ようとするあたしの腕は、凄い勢いで掴まれた。

ピンク色のベースにパールがネイルアートされた爪が、腕に食い込んでくる。
痛くて、あたしは顔を歪めた。


「放し……てっ」


華奢な手を振り解き、あたしは廊下に出た。
ざわざわとした声が一気に流れ込む。

忘年会シーズンということもあり、ほとんどの客は大部屋の宴会客で盛り上がっていて廊下に出ている人はいない。
店員がトレーに山盛りにグラスと皿を載せて、忙しそうに往来しているくらいだ。
女二人が言い争っていたって、このうるささじゃあきっと誰にも気付かれない。

さっさと行こうとすると、彼女は追いかけるように後ろから罵声を浴びせてきた。


「アンタなんて遊びだって言ってるの!」


足が止まった。


この人は――ここまで言って何になるの?
あたしに結局何がしたいのよ。

啓人が好きだから、とか、遊びだとか、そういう問題じゃない。

蔑まれられている自分が、悔しくて悔しくて。
とうとう涙が溢れ出した。

あたしはゆっくりと彼女の方へと振り向いた。

白いファーの付いたベビーピンクのワンピース。
美容院でセットしたであろう、綺麗にアップされた髪。
グラビアアイドルのようなスタイルに、整った顔立ち――。

その整っているはずの顔が、歪んでいる。
吊り上がった目が、あたしを見ている。


「彼は、あなたを選んだんです。
それでいいじゃないですか」


そう言うと、彼女の顔色が急に変わった。
けれど、あたしの言葉に反応したわけではないようだった。

彼女の視線は、あたしを素通りしてその後ろに注がれていた。

頭だけ肩越しに振り返ると、そこには見慣れた顔があった。

啓人だった。


「優香、みっともないことするなよ」


低い声が響いて。

啓人はあたしの横を素通りし、彼女の手を取った。
その反対の大きな手で、彼女の肩をぽんぽんとなだめるように優しく叩いた。

そして、あたしに向かって、「ごめんな」と彼の声は言った。


こんなの――。
こんなの、見られたくなかった。
みっともないのは、あたしじゃないか。

こんな状況下でも、藤下優香をちゃんと彼女扱いしている彼――。
それに比べて、あたしは――……。


またじわりと涙が込み上げてくる。
堪えようと下を向いて、必死に歯を食い縛った。
握った拳にも、ぎゅっと力を入れる。

それでも、視界の爪先が歪み始めたその時だった。


「花音!」


甘ったるいけれど男っぽい声が、あたし達の間に割って入った。

update : 2007.01.〜(改2010.08.15)