14

零は「大丈夫、上手くやるし」なんて――何だか軽い調子だ。

確かに、啓人に裏切られたことも、藤下優香に蔑まれたことも、悔しくて堪らない。
見返してやりたいという気持ちが、心のどこかにないわけでもない。

それでも……。
そんなことをしていいのだろうか?

自分の中で判断を下すのは難しかった。

うん、と、賛成は出来ない曖昧なままで帰路に就く。
その車内でも、考えた。

なのに、悩んでいるあたしを余所に、零は一人でも楽しそうだ。

おまけに「家の人が心配するといけないから、いつも会社から帰るくらいの時間に送る」と、あたしさえすっかり抜け落ちていたことにまで気を回してくれて。

そんな零を見ていたら、零の提案に自分を委ねてみようと思った。
返事はしなくても、とうに零はやる気満々だけど、ね。

すっきり忘れるために、それくらいしてもバチは当たらないだろう。


帰宅ラッシュと重なり、道路は渋滞している。
ふと見つめたサイドガラスは白く曇り、沢山の車のテールランプがぼんやりと赤く映っていた。
まるで、キャンドルの先に揺れる炎のようで、幻想的に見える。


どうなるのかな、これから。
この先、どんな道があたしには待っているんだろう。
今は、何も見えない。

でも、きっと。
零が隣にいてくれれば、あたしは立ち直れるよね?
新しい恋ができるくらいに……。



溢れていた赤い光は次第に減り、ゆるゆると進んでいたはずの車はいつの間にか法定速度で走っていた。
楽しかった時間は、刻々と終わりに近づく。
つい30分前までは、まだまだ時間がかかりそうだと思っていたのに、日曜日に送ってもらったコンビニまでは、もう目と鼻の距離になっている。

ちょっと帰るのが寂しいなぁ、なんて。


「ねぇ、零?」

「ん?」

「ありがとう、ね」

「んー。
ねー、花音さん?」

「うん?」

「また、どこか行こーね」

「……うん」


答えたところで、一際明るい白い灯りが見えた。
夜のコンビニは、他の店舗よりもずっと人目を引くようになっている。

チカチカとウインカーが鳴って、コンビニの目の前に車は横付けされ停止した。

とうとう、着いちゃった。


「運転手お疲れ様でした」

「いーえ。オレも楽しかったし」


うん、と微笑んで、ドアに手をかけようとすると、「花音さん」と零が呼び止めた。
伸ばした手をそのままに、あたしは振り向く。


「明日からちゃんと会社行ける?」


少しだけ心配そうに零が訊いてきた。

あたしは、頷く。


「ちゃんと行ける。
今日、少しすっきりしたし、明日はもう泣かないよ」

「うん。なら、良かった」


零はにっこりと微笑むと、後部座席から昼間貸してくれたマフラーを取り出し、あたしの首にふわりとかけた。


「外寒いし、風邪ひかないようにね。
今日は海で冷えたから、早く風呂入って、よーく温まって寝なね?」


そう言って極上の笑顔をくれる。

憎いくらい可愛いことを言う。ホントに。
なのにあたしは、


「小学生じゃないんだから。
マフラーも、わざわざ借りなくても大丈夫だし」


こういうのが照れ臭くて、つい可愛くない返事が出てしまった。


「……大人だもんね?」

「そーだよ。大人だもん」

「だよね?」


零がそう言ったかと思うと、左の手の甲に柔らかくて温かいものを感じた。

あたしの手の甲に、零がキスしている。


「ちょ……! な、何っ!?」

「お別れの挨拶でーす」


にんまりと、それは楽しそうにあたしに口元を上げて見せる。
それとは反対に、あたしは驚いた変な顔。
――を、どうにか平静なものに戻す。


またもや年下に翻弄されるなんて!


「……こんなこと、しないんじゃなかったっけ?」

「挨拶って言ったじゃん。海外ではフツーでしょ?
もしかして、こういうのにもドキドキしちゃう? 大人なのに?」

「しませんっ」


全く、もう!


零の手を振り払い、あたしはさっさとドアを開けて外に出た。


「じゃあ、金曜日にね」


そう言った自分を、結局約束の確約だな、と、思いつつドアを閉めた。

零はひらひらと軽い感じで手を振って返してきた。
気をつけてね、とドアの向こう側で零の唇が動いたあと、車は動き出した。

あ、と。あたしは首元に気が付いて、そこに手を当てた。
結局、零のマフラーをかけたままだった。

まだどうにか間に合いそうな零の車を追おうとすると、

「お姉ちゃん!」

と急に後ろから声がかかり、結局足は止まった。

振り向くと、そこにはいかにも家からちょっと出て来たという出立の雪乃が立っていた。

あんまりの突然さと、啓人ではない男の人に送って貰ったのを見られたのではという後ろめたさみたいなもので、心臓はバクバクしだした。


「ゆ、雪乃、どうしたの?」

「どーしたのって、コンビニに買い物だけど。
つーか、どうしたの、はこっちのセリフだよ。
よく見えなかったけど、今の車、男じゃないの?」


やっぱり、見られてた……。
普通だったら、彼氏に振られたばかりなのに、男の人に車で送って貰ったら、どういうことって思うよね。


「あー……会社で具合悪くなって、送ってもらったんだ」


怪しいいいわけ……じゃ、ないよね?


「具合悪いって、大丈夫なの?
それなら家の前まで送ってもらえば良かったのに」


ぎくっとした。
そう言われると、確かに。


「だって、ほら、家まで男の人に送ってもらったのをお父さんが見たら、騒ぎそうだしさっ」

「そっか。まぁ、そうだね」

「ところで雪乃、何買うの?
あたしもコンビニ寄っていこうかな。一緒に帰る?」


納得してくれたのかな、と思いつつも、話をさっさと切り替えることに成功した。

けれどなぜか、雪乃は目を泳がせると黙ってしまった。

少し様子がおかしい。


「どうしたの?」

「……ちょっと、一人でいたいって言うか……。
頭冷やしに、ブラブラ出て来たの……」

「何で?」


コンビニの明るい光で照らされた雪乃は、少し困ったような切ない顔つきだった。
吐いた息が、ピンク色に光った唇から白く上がった。

雪乃は少しの沈黙のあとに「ねぇ、お姉ちゃん」と切り出した。


「……あたし、好きな人が出来た」

「え?」

「今日、気付いちゃったの……」


雪乃に、好きな人が出来た――?


「本当、に?」

「……うん」


雪乃は恥ずかしげに小さく頷いた。
あたしの胸に、嬉しさがじわりと沁みていく。


「そっか、良かったね!」


けれど、雪乃はあまり浮かない顔つきをしている。
どうしたのだろうと思うと、顔を上げてあたしに苦笑してみせた。


「でもね、最悪。学校一の女ったらし。
いっつも取っ替え引っ換えで違う女連れてて、女なら誰でもいい男」

「ええっ!?」

「今日も、女からの電話で急に早退するし……」


ドキッとした。

まさに、今日のあたしと零と、同じ状況じゃないか。
それが零だなんてありえないと分かっているのに妙に緊張し始める。


「血相変えて走って帰る彼を見て、あたし、好きなんだって、気付いちゃったの」

「そ、う」

「そんな男を好きになるなんて、あたしってホントに馬鹿だよね。
姉妹揃って男運ないねー?」


雪乃はぺろっと舌を出し、渋い顔をした。


「同級生、なの?」

「うん。隣のクラス」


それを聞いて、ホッとする自分がいた。
同級生なら17歳だから、車の免許も持っていないはず。

雪乃の好きな人が零だなんて、ありえないけれど、少しでも可能性を否定したかったんだと思う。

それにしても、妹の好きな人と同じことが起きたなんて……怖い偶然だ。


「ソイツ、初めて話しかけてきた言葉が『雪乃ちゃんって可愛いよね。オレと付き合わない?』だよ。
マジ、最悪っしょ? ホント、そんな男だよ」

「……でも、好きなの?」

「うん。そうみたい。そんなヤツだけど……。
でもね、ホントは誰より寂しがり屋で凄く優しいひとなんだ。
最初はそうであれ、今はね、あたしを傷つける人じゃないって、分かってるから……」

「……そっか。頑張れ、雪乃」

「ありがと。
あー、そんなわけで、ちょっとボーっとしてから帰るから。
お姉ちゃんは先に帰ってて」

「分かった。気を付けてね」


手を振って、歩き出した雪乃がコンビニに入るのを見送ろうとした。
ところが、雪乃は入り口の自動ドアが開いたところでピタリと止まって入るのをやめ、こちらに振り返った。


「ね! お姉ちゃんもそのマフラー貸してくれた人、いい人で好きになれるといいね!」

「は……何言って――」


思わず、両手でマフラーを押さえる。


「だって、お姉ちゃんのこと好きじゃなきゃ、わざわざマフラーなんか貸さなくない?
コートにそのマフラー合ってないよー。じゃあねー」


雪乃は『お見通しだよ』という顔つきでニヤリと微笑んでから、肩より上で手をひらひらと振って、コンビニの中に入って行った。
あたしに反論の間も与えてくれずに。


「もう……違うのに」


思わず、溜め息交じりに一人ごちる。


好きじゃなきゃ、って――そんなじゃないんだけど……。

零にはちゃんと好きな子がいるみたいだし。
あたしに対しては使命感って言ってたし。

でもまぁ、わざわざ雪乃に言う話じゃないけど。


あたしはポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出した。
家までは、ここから3、4分の距離。


――雪乃は。
前の恋で傷付いて、しばらくずっと男の人が駄目だった。

中学二年生のとき――新任の数学教師に恋をした。
大学を出たばかりの彼は、校内の先生としては若くて、けれど中学生の女の子からしてみると、ずっとずっと大人で。
知的で優しいお兄さん的存在で、男女問わず生徒に人気が高かった。

憧れていた先生から声をかけられ、誘われ、その上告白されて。
雪乃は舞い上がって二つ返事で付き合いだした。

彼に夢中だった雪乃は、すぐに身体の関係も許してしまった。
それは次第にエスカレートしていったけれど、雪乃は嫌われたくない一心で拒否出来なかった。

けれど――彼の方は、遊びにすぎなかったのだ。
同じ中学校内で、雪乃と同じように誘われたという女の子が他に三人もいたことが発覚した。
そこから、雪乃との関係が学校側に露見したのだ。

彼は、付き合いはあったが性的な関係はないと言い張り、雪乃もそれにはなにも答えなかった。
中学二年生の女の子が――答えられなかった、と言った方が正しい。
あたしも、雪乃の気持ちを考えると、訴えることができなかった。

雪乃は家族には全てを告白したけれど、問題が大きくなってしまうのはどうしても嫌だから黙っていてくれ、恥ずかしくて死ぬ、と泣き崩れながら両親に頼んだ。
両親は両親でどうすることが一番良いのか悩み、結局黙認し、被害届も出すことはなかった。

中学生という多感な時期の女の子だ。周りの生徒にも配慮して公にしないで欲しいと学校にも頼み込んだ。
被害者なのに、父は土下座までして。

学校側も、大きな問題になることは避けたかったのだろう。それ以上の言及はしなかった。

けれど、生徒と教師が付き合うということ自体が問題で、彼は内々で教育委員会に処分された。
念書を取り、教員免許を剥奪され、田舎に帰った。
それで、終わった。

雪乃は彼に裏切られたまま。


だから――そんなことがあったせいで、一番楽しい時期なのに、雪乃は恋が出来なくなってしまった。

その雪乃が新しい恋をしたなんて……。

相手が女たらしというのは、かなり気になるけど。
それでも、あの雪乃が好きになったひとだ。
『あたしを傷つける人じゃない』と言った言葉を信じたい。


歩みを緩めて、空を見上げた。

よく、東京は星が見えないなんて言うけど、そんなことはない。
目を凝らして探せば、ちゃんと見つかる。

それは消えそうなくらい、弱く小さい光だけど。


あたしは、星を探した。

そして、見つけた光の粒に向かって

「雪乃の恋が上手くいきますように」

と、願いを込めた。

キラキラと瞬く、小さな星。
消えそうでも、絶対に消えることはないから。







玄関の黒いアルミ製のドアを開けると、暖かい空気と美味しそうな夕食の匂いが、まずは出迎えてくれる。

パタパタとスリッパの足音を響かせながら、キッチンから母が顔を見せた。


「おかえり、花音」

「ただいま」


身体をふんわりと包み込んでくれるような、温かい感覚がする。
いつもと何ら変わらない情景。
けれど、ホッとする。あたしの、家。

こんな温かさを、零は感じたことがないのかな?
――なんて、ふと思う。


「花音、お腹空いたでしょ? 夕飯出来てるわよ。
ね、途中で雪乃に会わなかった?」

「コンビニで会ったよ」

「あの子、お腹空いてないから夕飯いらない、って出て行っちゃったのよ。
何かあったのかしら?」

「……ホントに空いてないんじゃない?
会ったときは別に普通だったよ。
何かあったようには見えなかったよ」


あたしは嘘を吐くのが苦手だ。すぐに顔に出てしまうから。
たかだかこんなことくらいでも、上手く誤魔化してあげられてるか疑問だ。


「ならいいんだけど。
あれ? 花音、朝そんなマフラーしてたっけ?」

「えっ?」


何でお母さんまで気付くの!


「し、してたよ」


答えながら、顔を見られないように、玄関の段差に腰掛けてパンプスを脱いだ。
すると、パラパラと砂が落ちた。
車に乗る前に、ちゃんと落としたと思っていたのに。

急にさっきされた手の甲のキスまで思い出されて。
顔が、火照り出す。


やだ、もう……。
赤くなってないかな……?


立ち上がると、母の視線を感じた。
じっとあたしの顔を見つめている。


え? 何、何?
やっぱり顔、赤い?
何か変?


「花音、顔赤いわよ?」


やっぱり!?


「熱あるんじゃない?」

「えっ?」


母はあたしのおでこにピタリと掌を当てた。
つい今の今まで水仕事をしていたようなしっとりとした冷たい手。
ひやりとして気持ち良い、と思う。


「やっぱり。熱いわよ」

「ええっ?」

「早く、着替えてきなさい。おかゆ作っておくから。
熱もちゃんと測ってね」




母の言う通り、熱を測ってみると38℃あった。

気付いてから症状が出るなんておかしな話だけれど、その後、せっかく作ってもらったおかゆもほとんど口にすることが出来ないくらい身体がだるくて、すぐに寝込んでしまった。

昨日あまり眠れなかったということもあったとは思うけれど、奈緒子からの三回の着信も気付かないくらい、朝まで深く眠りについていた。

結局三日間も高熱が続き、都合がいいのか悪いのか、次に出社するのは約束の金曜日となってしまった。

update : 2007.01.〜(改2010.07.08)