12
車に乗り込むと海から一転し、山の方へと向かった。
零任せにして着いたお店は『花』という名の蕎麦屋だった。
道路に面した門を抜けると、石畳が古民家のような店舗まで案内するように伸びている。
その石畳を咲き頃の水仙たちが囲い、足を進めるたびに薄っすらと甘い香りが漂う。
森林の多い鎌倉山のひっそりとした雰囲気と気品を合わせ持った、古風で立派なお店だ。
「食べてないなら、重たくない物のほうがいいよね?」
と、そういうサラリとした気遣いをしてくれるんだ、なんて。
年下なのに、ホント感心しちゃう。
手打ち麺はこしがあり、鰹だしでとったつゆは上品だ。
胡麻油で揚げてあるというてんぷらも絶品。
どれをとってもあまりにも美味しくて、空腹の胃袋にするりと全部収まった。
食後には、四国東部で伝統的に生産されている砂糖「和三盆」を使用して作ったというあんみつも、二人して注文した。
てんぷら蕎麦をたいらげたばかりなのに。
「……美味しい」
お腹がいっぱいなことを忘れるくらい。
次々に口の中に入っていく。
「女の人って、デザートは別腹って言うよね」
「そう言う零だって、幸せそうに食べてるよ」
「オレも甘いモノ好き」
「コドモ」
「コドモはカンケーないじゃん」
零は唇を突き出して、けれどそのままスプーンに載ったあんみつをそこに運ぶ。
あんみつを頬張る零を見ていると、心底美味しそうで、見ているこっちも嬉しくなる。
本当に甘い物が好きなんだなぁ。
啓人は甘い物が苦手だったな、なんて思い出した。
一緒に食事に行ったとき、あたし一人でデザートを食べて彼を待たせるのが気になって。
「ゆっくり食べなよ」と言ってくれていたけど、そのうちあまり注文しなくなったんだ。
考えてみたら、今まで付き合った男の人で、甘い物が好きなんて人はいなかったな。
こんな風に一緒に「美味しい」ってデザートを食べられるのって、何だかいいよね。
「ねぇ、零はこのお店、よく知ってたね」
「前に家族で来たことがあって。
美味いな、って印象がスゲェ強く残ってて」
「そっか、家族で来たんだ?」
「オレんち、親が忙しくて家に殆どいないって言ったじゃん?
家族全員での初めての旅行が鎌倉でさ。……そのときに」
「初めてって……」
驚いて零の顔を見ると、「ああ、」と、苦笑いが返ってくる。
「父親も母親も働いててほとんど家にいないし、弟ともあんまり仲良くないし、オレも中学くらいからあまり家に帰らなくなったし。
一緒にいるってことがまずないからさ、家族旅行なんて縁がなかったんだ。
それにほら、今はオレ以外は向こうに住んでるし。
だから、最初で最後の旅行がこんな近場ってわけ」
そう言って零は、あんみつの最後の一口を放り込むように口に入れた。
あたしはスプーンを持った手を止めたまま、零の顔を見た。
「最初かもしれないけど、最後なんて悲しいこと言わないでよ」
「どーせ、もう行くことなんてねーよ」
「分かんないじゃない」
「分かるよ」
「未来のことは……一瞬先がどうなるのかなんて、誰にも分からないんだよ。
思っても見ないことだってあるんだから。あたしだって――」
零は、黙りこんでしまった。
その先の言葉が、言わなくても予想出来たからかもしれない。
今の自分を引き合いにして黙らせるなんて、あたしってば……。
あたしは、それ以上気にしないようにとにっこりと微笑んで言った。
「とにかく、ここは零の思い出の場所なんだね」
「だから……思い出、っつーほどのもんじゃないんだけど……」
零にとって、家族とのコミュニケーションが少ないから、こういうことを素直に認めるのはちょっと照れ臭いのかもね。
「ね、弟いるの?」
「うん。腹違いだけどね。
今、10歳かな? 親と一緒にアメリカにいるよ」
――10歳。
年が離れた弟なのに、仲が良くないなんて……。
あたしには想像し難い。
雪乃は、口が悪いけれど根は優しくて、あたしにとっては可愛い大好きな妹。
よく一緒に食事や買い物に行ったりと仲も良い。
先月は、雪乃の高校の文化祭にも行った。
ウチはこの年になっても毎年家族旅行にも行くくらい、家族仲もすこぶる良好だ。
「離れてると、たまには会いたいなーとか、思ったりしない?」
「全然っ。すっげー生意気だし」
「………。
でも、たまに会うと、一緒に遊んであげるんでしょ?」
「アイツとは、趣味が違うし。つか、ガキすぎるし」
「でもさ、ほら、ゲームとかならするんじゃない?」
「……する、にはするけど……。
すっげーへったくそで、相手になんねーし、アイツ、負けると怒るし。
結局、すぐやめる羽目になる」
何だ。
するんだ。
仲良くないって言っても、血の繋がった兄弟だもんね。
わざと拗ねているような零が可愛くて、あたしは笑いを堪えた。
「あたしにも妹がいるんだよ。今高校二年生。
あたしなんかと違って、すっごい美人でスタイルいいんだ」
「………」
零はまた、黙り込んでしまった。
あたし、今、変なこと言ってないよね?
もしかして、その前に弟とのことを言ったりしたから、怒っちゃった……?
零は頬杖をつき、不機嫌な顔つきであたしを見る。
「そんな風にさ、言うことないんじゃない?」
「えっ……あ、ゴメン……!
あんまりそういう話、したくないよね」
「じゃ、なくてぇ……、あたしなんか、とか言わなくたっていいじゃん。
花音さんは、十分綺麗だよ。
きっとその妹よりも、オレはタイプだと思うよ」
「え?」
ちょ……っ!
零って、どうしてこういうコトをサラリと言っちゃうの?
穏やかだった心臓は、バクバク言い出した。
あたしは慌ててお茶を一口飲み、気持ちを落ち着かせる。
社交辞令なのは分かってるんだけど……。
でも、そんなことを言われたら、誰だってドキドキするよね?
こういうこと、女の子みんなに言ってるの?
年下の男に翻弄されているのが少し悔しくなって、あたしは微笑んで返した。
「零のが、ずっとカッコイイよ」
……て。言ったのはいいけど。
何でニヤニヤ笑ってるの!?
「へー。花音さんにカッコイイとか言われちゃったっ。
そう思ってくれてるんだ?」
「え……あ……そ、それは……だから……そうだけど……」
「そっか、花音さんにとってはオレってカッコイイ部類なんだ?
それって、花音さんにとって、タイプなわけ?」
零は目の前でニヤニヤと笑っている。
絶対、あたしよりうわ手だ。
ああ、もう、全然駄目じゃん! あたしって!
だってそうきちゃうと、逆に答えられなくなる。
慣れないことはしないほうがいいみたい……。
うんと答えていいものか悩んでいると、バッグの中で携帯電話が短く鳴った。
メールだ。
あたしは助け舟に飛びついた。
きっと、あたしがちゃんと家に帰れたかどうか心配した奈緒子だ。
そう勘違いしていたうちが幸せなことに、携帯のフリップを開いた途端に気が付いた。
身体が硬直する。
差出人の『啓人』の文字に。
何で……?
何で、メールなんてしてくるの?
そのまま閉じようか一瞬悩んだけれど、あたしは結局メールの中身を開くことにした。
『体、大丈夫か?』
それだけの、短い文章。
だけど――。
「どうしたの?
もしかして、メール、元彼?」
ハッとして、携帯から零に目線を移した。
零は、怪訝な顔をしている。
――元彼。
そう。
たった三日前は、『彼』だったはずなのに。
もう今は、『元彼』なんだ。
「うん、元彼。
大丈夫か、って」
「大丈夫か、って……」
何だよそれ、と、零は今度は怒った顔つきに変わった。
「何でわざわざ元彼がメールしてくるんだよ。
花音さんを裏切ったくせに、そんなメール」
「ホント……だよね……」
自嘲しながら答えると、頬に温かいものが伝っていった。
気が付いて堪えようと思ったけれど、次から次へと涙は溢れ出してくる。
あたし、何で泣いてる?
これは悔しいからなの?
それとも、こんな状態でもまだ啓人が好きで、心配してメールをくれたことが嬉しいとでもいうの?
開いたままの携帯を握り締めた。
そのとき、手の甲に何かがふと触れた。
ああ、これは、啓人がいつだかお土産でくれたストラップだ。
貰ったときは、凄く嬉しくて。気に入っていて。
取ることもせずにこのままにしてあったのは、ココについてる、って――啓人から貰ったものがすぐそばにあるだなんて、いつも一緒だったなんて、思い出すことも出来ないほど、『元彼』という存在になってしまったのがあたしにとっては過去のことじゃないから。
もう、あたしたちが元に戻ることはありえないって、さっきも痛感したばかりなのに。
「泣かないでよ、花音さん」
心配そうな零の声が言った。
そして次には、グリーンと黒のチェックのシャツがテーブル越しに伸びてきて、それがあたしの涙を拭った。
「ゴメン。オレ、ハンカチ持ってないんだ」
「シャツ、汚れちゃうよ……」
「そんなこと、気にしなくていい」
「………」
あたしはバッグの中に自分のハンカチが入っているのに、差し出された零のシャツに顔を埋めた。
さっき貸してくれたマフラーと同じ香りがする。
その香りが、あたしの胸を更に締め付けた。