11
原宿駅の表参道口。
赤ベースに白いルーフのミニが、車道の端に寄って停まった。
零の車。目立つからすぐに分かる。
けれど、人目もはばからず地べたに座り込んでいるあたしは、まるで根っこでも生えてしまったように、立ち上がることが出来なくて。
そうこうしている間に、血相を変えた零が、左側のドアを開けて出て来た。
「花音さん!」
あたしの元へと駆け寄ってきた零が、身体を屈め、手を差し出してくる。
「大丈夫!?」
手を取れずにただ見上げると、ふわっと身体が浮いた。
零の手があたしの両脇を支え、立たせられた。
そのうえ、僅か十数センチほどの距離でいきなり覗き込まれる。
「あー、よかった。
まだ泣いてるのかと思った」
ホッとしたように、零が微笑んだ。
ドキッとする。
「遅くなってゴメン」
そう言った零に、「ううん」と、俯いて首を横に振った。
「どこかこの辺のお店で待っててって言ったのに。
寒かったっしょ?」
電話でそう言われたけれど、とてもそんな気にはなれなかった。
温かい場所で、ぬくぬくと待つことなんて。
悲劇のヒロインぶって、ただ自虐的に自分を痛めつけたいだけかもしれないけど。
あたしはもう一度首を振った。
「手、冷たくなってる」
零の手が、あたしの掌を包み込むように握った。
……温かい。
不思議なほど、身体中に安堵が広がった。
ついさっきまで立っていられないくらい、気分も悪かったのに。
すうっと、それがどこかに抜けていくよう。
「どこか、行きたいところある?」
訊かれて、何も考えていなかったことに気が付いた。
けれど、すぐに思いついた。
「……海」
「海!?」
零は驚いた声を上げる。
あたしは、一つ頷く。
「うん」
「海って――海、だよね?」
「うん。海。
なんか、見たい気分」
「見たい、って……海、寒いよ?」
あたしは零を見上げ、もう一つ頷く。
「彼とデートって、いつも都内のオシャレなお店とかで。
だから、そういうのじゃないところがいいの。
初めて行くような、自然の多いところ。
零が連れてって」
零は、少し考え込んだあと、可愛い顔で微笑んだ。
「オレも、花音さんと、初めて行くところに行きたい。
遠出の運転には、自信ないけどね」
「知ってる」
と、あたしも自然と笑みがこぼれた。
下り線の横浜横須賀道路は、平日の昼間ということもあるだろうけど、車の量もかなりまばらで少ない。
都内の混雑した誰しも強引な運転から抜け出せ、ここは空いていて良かった、と思う。
零の運転は、この間と変わらず不安定で、ハッキリ言って怖い。
けれど、その落ち着かない運転が、逆にいつものあたしを取り戻してくれた。
あたしまで一緒に運転している気分になって、道路状況に半分意識を持って行かれるから、啓人のことを思い出さなくて済む。
それに、零は、あたしがどうして泣いていたか訊いてこなかった。
啓人と同じ会社っていうのは知っているようだから、何となく想像はついたのかもしれない。
土曜日の記憶がないから、あたし自身どこまで話したかは分からないし、零がどこまで知っているのかも分からないけれど。
何も訊かれない分、車内での会話は至って普通だった。
さっきまでボロボロだった自分が嘘のようで、今笑っていられるのが不思議。
こんな状況なのに、一緒に居て楽しいと思えるなんて。
それともやっぱり、笑えるあたしが変なのかな。
車が走るにつれ、景色に緑が多くなってきた。
山の中に作られたような高速道路なんて珍しい。
冬でも青々と葉を茂らせた木々が、太陽の光で輝いて見える。
緑のトンネルみたいな道。
しばらくこういう自然の景色を見ていない気がする。
「緑が綺麗だね」
窓の向こうを見ながら零に言った。
けれど、零は周りを見る余裕は殆どないらしく、「うん」とだけ素っ気なく答えが返ってきた。
隣で笑って会話はするけれど、零の視線は絶対に前。
ハンドルを握る手もガッチリ。
必要以上に力が入っているのが窺える。
……慣れない高速に緊張してるなぁ。
そう思っている間に、本物のトンネルに入ってしまった。
『逗子』の看板で車は左車線に入り、ETCの料金レーンをすんなりと通り過ぎた。
カードはやっぱり親の名義なのかな、なんて、どうでもいいことをつい考えてしまった。
こんなことを考えられるくらい、自分に余裕があることに驚く。
高速を降りてナビの音声通りに進むと、海が見えてきた。
窓を開けていないのに、鼻腔に沁みるような潮の香りが微かにする。
「おー。海だぁ!」
あたしより嬉しそうなトーンで零が言う。
子供みたい。
はしゃいだような笑顔が、カワイイ。
やっぱり綺麗な顔だな、なんて、つくづく思う。
横顔も、運転している姿だって、サマになっていてカッコイイ。
運転はヘッタクソなのに。
「来たね」
「うんっ」
海沿いの道路に出ると、太陽で照らされた水面がキラキラと乱反射しているのが見えた。
お台場や横浜とは違った自然の海を見せる道路は、新鮮に思えた。
初めて見るわけでもないのに、いつも都会の喧騒の中にいるせいか、不思議と感動が湧き上がって興奮する。
こんな自分が、やっぱり不思議。
最初に見つけた有料駐車場に車を入れた。
この季節の平日なせいか、駐車場内はガラガラだ。
どう考えても苦手そうな駐車がおかげ様でスムーズにできて、あたしはホッと胸を撫で下ろした。
ギアがパーキングに入り、サイドブレーキがきちんとかかったのを確認。
エンジンが切れてから車のドアを開けると、いきなり強い風がびゅうっと音を立てて吹き付けてきた。
あたしは思わず目を細めた。
「アハハ。花音さん、変な顔っ」
零が車の向こう側で笑う。
むっとして、思わず頬を膨らませた。
「もうっ。だって、風強いんだもん!」
ちょっと言われたくらいでこんな反応を返すなんて、我ながら子供だと思った。
だけど、零と一緒だと、何だかそうなっちゃう。
「花音さん、そこにいて」
零はそう笑顔を見せたあと、車からぐるっと回ってあたしの目の前で止まった。
腰を屈めた零に、間近で覗き込まれる。
零の顔が、すぐ前にある。
ヤバイ。
ドキドキしてるよ、あたし……。
それを見越したように、零はまた、ふっ、と笑う。
コレ、確信犯でしょ?
すぐ目の前で、零の柔らかそうな茶色い髪が、陽に透けてキラキラしてる。
濃いブラウンの瞳も。
透明な瞳に、吸い込まれてしまう。
零の顔が微かに動いた。
キスされる?
そう思って、思わず瞼を閉じた。
あたしってば、キスされたいの!?
自分に疑問を投げた瞬間、暖かくて、柔らかい物がふわりと首を覆った。
はっ、として目を開ける。
「え……?」
零がマフラーをかけたのだ。
自分の首に巻かれているマフラーを外して、あたしに。
オフホワイトのケーブル編みの、ふわふわのヤツ。
「ちょっとはあったかいでしょ?」
間近にあった零の顔が離れていく。
全くそんな気なんてないような顔が。
あたしは、一気に熱が噴き出した。
何やってんの、あたし!
馬鹿じゃないの!?
勘違いにもほどがある!
しかも、啓人のことで落ち込んでたはずなのに。
自分が信じられない!
どうにもならない恥ずかしさから、今零がかけてくれたマフラーに、鼻先まで顔を埋めた。
本当に、最悪。
なのに、いい匂いがする、なんて思った。
零のつけている、甘いフレグランスが鼻を擽ってきて、余計に身体が火照る。
「行こ?」
零は何も感じていないようにそう言って、あたしの右手を取った。
そうすることが、当然のように。
あたしは何も答えないまま一緒に歩き出した。
年下のくせに。
どうしても零のペース。
それに、温かいとか思っちゃうんだもん。
だから手が解けない。
こんなのって、どうなのかな、とも、思うのに。
波の音。
汐風。
横を通り過ぎていく、車の音。
二人の間にある音は、それだけ。
さっきまで、会話が飛び交っていたのに。
手を繋いで歩き出した途端、無言なんて。
意識しちゃうよ。
何か、喋ってよ。
心臓の速さが治まらない。
会話も探してみる。
でも、こういうときに限って真っ白になる。
馬鹿みたいに何も浮かばない。
何でもいいはずなのに。
声を出そうとした時だった。
「ねぇ」と、零が先に口を開いた。
「さっきさー」
「えっ?」
「花音さん、キスされるとか、思った?」
前を向いたまま何気なく言う零に、言葉が詰まった。
やっぱり見透かされていたらしい。
は、恥ずかしい……。
「だって、零、この間も不意打ちでしてきたし、だから……」
だから、なんて、零のせいにしている自体が大人げない。
年上なんだから、もっと堂々とすべきじゃないの、と、自分に突っ込みたくなる。
別に、キスくらい。
されたことくらい、大したことじゃない。
零はこちらを向いて、苦笑いした。
「だからさ、もうしないってば」
えっ?
「もうそういうの、しない」
零はそう言って、足を止めた。
自分の中に、明らかに今出来た小さなかたまり。
分からないけれど――もやもやと湧き上がった何かがあって。
あたしは払拭するように、強い口調で言った。
「されても困るし!」
零はそんなあたしを見て、ふっと笑った。
「だよね?」
そしてまた、どちらともなく二人で海岸に向かって歩き出した。
海風は冷たいけれど、雲のほとんどない青空が広がり、降り注ぐ陽射しは暖かい。
12月の割には、今日は気温も高いと思う。
視界を占める海は、なんて雄大で美しいのだろう。
夏の海とは違った冬の濃いブルーは、透明度を増したように澄んでいる。
乱反射で、水面が輝いていて。その上を滑るようにすすむ白い帆たち。
優しく、けれど重厚な音を立てながら、繰り返し白い波がさあっと広がり、引いていく。
そんな様を見るのは、なぜかいつまでも飽きない。
砂浜に直接座っているせいで、砂だらけだ。
パンプスの中にも砂が入り込んでいて、ジャリジャリして気持ち悪い。
グレーのヘリンボーン柄のツイードコートに、黒のフレアースカート、黒のタイツにヒールのあるパンプス。
……なんて。海には不似合いなカッコなんだろ、と思う。
あたしの右隣に座る零は、アバクロのマークが入ったカーキ色のアウターに、ヴィンテージっぽいデニム。それに、モカブラウンの革靴。
あたしと違って周りの景色に溶け込んでいる、というか、海が似合う。
格好もだけど、基本的にイイオトコっていうのは、何をしていてもサマになるのかもしれない。
砂の上に放り出された足も、風に揺らされる髪も、空を仰ぐ横顔も、どれをとっても絵になる。
バーでの零も格好良かったよな、なんて思い出す。
店の制服をぱりっと着こなしてドアから出てきたとき、女の子の視線を集めてたっけ。
零は、どうしてあたしのために来てくれたんだろう……?
どう考えたって女に不自由しないであろう零が、特別可愛いわけでも秀でるものがあるわけでもない、所謂普通の、しかも年上の女のところに。
あたしは、無意識に自分の横に作っていた砂山から手を離した。
「零、学校サボらせちゃった?
ごめんね。大学にいたの?」
「あー……別に。
オレ、どうせサボリ魔だし、気にしなくていいよ。
つーか、オレが勝手に来たんだし。
花音さんこそ、急に行くなんて言われて嫌じゃなかった?」
「あたしは、全然。
だって、嬉しかったよ。あんな風に心配してくれて」
「……うん」
少し照れくさそうに、零は笑った。
こういうトコロ、可愛いよね。
たまに見せる素直なトコロ。
零の笑顔を見ると、不思議とホッとする。
これって、美しさのせいなのかな?
ここまで整った顔の男の人って、実物で見たことなんてないんじゃない? ってくらいの美少年だと思う。
芸能人と言ったっておかしくない。
啓人も格好良かったけど、こういう美しさとはちょっと違う。
零は目鼻立ちがハッキリしていて、どこか外国人の血が入ってるんじゃないかとも思う。
瞳は大きいけれど、ちょっとシャープな感じや透明感のある色とか。柔らかそうで線の細い髪の毛や、きめ細かい肌も。
「零って、もしかして、ハーフとか、じゃ……ないよね?」
零は砂を弄っていた手を止めて、前屈みだった背を正した。
「どうも、クォーターらしいけど」
「らしい……って?」
何で曖昧なんだろ?
「母親は、オレが三歳のときに事故死してるんだ。イギリス人と日本人のハーフだって聞いたことがある。
小さかったから殆ど記憶もないし、六歳で今の母親がきたから、子供ながらに本当の母親のことなんてあまり訊ける状態じゃなかったんだ。
母方のじーさんばーさんはイギリスに住んでるし、父親の再婚後は全く会ってないしね」
「そう、なんだ……」
「でも、別に今の母親と上手くいってないわけじゃないし。
まぁ、仕事が忙しくて、小さい頃から放っておかれてたんだけど。
それでオレ、あんまり家族の温かさとか愛情とか、わかんないんだよね。だから……」
そこで零は口ごもった。
「だから、まぁ、色々」
と、終わってしまって、気になったけれどそれ以上は訊けなかった。
こういう話って、聞いて悪かったかな、とは思うけれど……。
でも、零のことが少し分かって嬉しいと思う。
もっと知りたいと思うのは、イケナイことかな?
あたしはまた、目の前の海を見つめた。
変わらず、けれど同じ表情を見せない海は、地響きのような音を立てながら波を打ち寄せては引いてを繰り返す。
海って大きいなぁ、なんて、当たり前のことを思う。
「花音さんは?
海見て、ちょっとは元気出た?」
「うん。
海を見られたのも、だけど。
でもね、零に会ったから、すっごい元気出たんだよ」
これは、本当に素直なあたしの気持ちだった。
零からあのとき電話がなければ――零に会っていなければ、きっと今、こんなに穏やかな気持ちにはなっていなかった。
ん、と、零は小さく頷いた。
「そっか。元気になってくれたなら良かった。
オレ、来た甲斐があったってモンじゃん?」
零は、そう言ったかと思うと、曲げた膝の上に顔を乗せ、そこから見上げるようにあたしをじっと見つめてきた。
二つの瞳がまっすぐに向かってきて、そんな風に見られると何だか落ち着かなくなる。
「……何?」
甘さを含んだような空気に耐えられなくて、それを切るようにぶっきらぼうに訊いた。
「もしかして、花音さん、オレに惚れた?」
思わず、女とは思えない音で吹き出した。
「なっ……! ないから!」
左右に思い切りぶんぶんと手を振って反論の言葉を出すと、零はくくくっと楽しそうに笑い出した。
何!? 何で笑うの!?
「ちょ、ちょっと! 大体、彼氏に振られたばっかりなの知ってるじゃん!
それで、零が慰めてくれてるんでしょっ?
変なこと言わないでよ!」
「いや。だから、ジョーダン」
零の言葉に、眉を顰めた。
冗談?
「うん。ホント、ちょっとは元気出たんじゃない?」
ニッと笑う零に、毒気を抜かれる。
……元気、って……。
はああ、と、大きな息が出て、膝に顔を埋めた。
その途端、ぐうう、とくぐもった音があたしのお腹から発せられた。
腹減った、と抗議するような大きな音。
さ、最悪っ!
こんなときにっ!
一瞬の沈黙のあと、零は、あははと声を上げて笑い出す。
「すっげー音!」
「だ、だって!
しょうがないでしょ、二日もろくろく食べてないんだもん!」
「二日?」
「そーだよ。
別れ話のあと、食欲なんてなかったんだもん。
だからさっき、会社で倒れたの」
驚いた顔のあと、すっかり笑顔を失くした零は、申し訳なさそうに「ゴメン」と言った。
「倒れた、って……身体、大丈夫なの?」
心配そうに言う零が、何だか可哀想に見える。
いや、可愛く見える――なんて言ったら、怒るかな?
「もう平気だから、そんなに気にしないで。
点滴打ってもらったから、今は全然平気なの。
だからね、多分気持ちも落ち着いてきたから、お腹が空いたんだと思う。
何か食べに行こっか?」
そう言うと、零に笑顔が戻った。
「オレも昼飯まだなんだ。腹減ったー。
もちろん、花音さんの奢りね?」
パンパンっと音を立てて砂を払いながら、零は立ち上がった。
そして、あたしに手を差し伸べてくる。
まだ砂浜に座り込んだままのあたしからは、その姿が随分と大きく見えた。
「お姉さんが何でも奢っちゃうよ」
あたしは、零の手を取った。
すっかり冷え切ったあたしの手と違って、掴んだ零の掌は凄く温かかった。