10

人事異動なんて……。

本来なら嬉しいはずのマーケティング部への異動の報告も、あたしには苦痛なだけでしかない。


奈緒子は、どう思ってるんだろう……?


あたしの少し前を歩く奈緒子の背中を見つめた。
長くて黒いストレートの髪が、サラサラと揺れている。

もう少しでお昼休みを回る時間だが、社内の廊下は就業中ということもあって人通りも少なく、ヒールの靴音が、二人分カツカツと響いている。
どこかの課の電話が鳴って、その音はすぐに消えた。
そしてまた同じように鳴って、同じように消える。


「奈緒子、怒ってる……?」


後ろ姿に向かって、恐る恐る聞いてみた。

返事を待つ間にも、コール音が割り込む。


奈緒子は足を止めて無言で振り返った。
キッとした鋭い瞳があたしを見つめる。


「すっごい腹立って、堪んない……」


低く、静かに、奈緒子が言った。


当然だ。
あたしの口からでなく、あんな形で啓人のことを知ったのだから。


「ごめ……」

「言っとくけど、花音に対して怒ってるんじゃないから」


俯いて立つ頭上で、奈緒子はあたしの言葉に被せてそう言った。


……あたしに対して、じゃ、ない……?


あたしは、顔を上げて奈緒子を見つめた。


「自分に対して腹が立ってるの!」

「え……?」

「ごめんね、花音。
あたしが浮かれてあんな状態だったから、言えなかったんでしょ」

「え……あ……」

「ホントにゴメン!
辛いときに気が付いてあげられなくて!」


そう言って、奈緒子はあたしに頭を下げた。


……何を、やってるんだろ、あたしって。


入社時からいつも一緒の親友。
そんな風に思ってくれていたなんて。
それなのに、本当のことも言えなくて、怒ってるなんて勝手に勘違いして……。


奈緒子が、凄く愛おしく感じた。
自分が悪いのにもかかわらず、笑みがこぼれた。


「ヤダ……何?
花音ってば、何で笑ってるの?」


眉を顰めて不思議そうな顔をする奈緒子を見て、今度は笑いがこぼれる。


「ふふふっ。奈緒子はやっぱり親友だよな、って」

「何よ、あたりまえでしょ!」

「ありがと。ごめんね?」

「意味、分かんないし!
さ、行くよ!」


『親友』という言葉が少しくすぐったくて気恥ずかしいのか、奈緒子は背を向けて先に廊下を歩き始めた。
あたしは慌てて奈緒子を追い、今度はすぐ横に並んだ。

「つーかさ」と、奈緒子はカツカツとヒールの音を立てながらこちらに顔だけ向けた。


「あんた達、上手くいってたんじゃなかったの?」

「そうだと思ってたのは、あたしだけだったのかも……」

「ね、森さん、専務と藤下優香に脅されたんじゃないの?
結婚しなきゃ会社はクビだとか、支社に左遷とか」


――そう。
そんなことは、あたしでも予想が立つこと。

でも――。


「そうかもしれないけど、あたしを選ばなかったのは事実だから。
彼は、彼女を選んだの。
おととい、急に彼女と結婚するから別れてくれ、って言われた」


奈緒子は少しだけ口を閉ざしてから、「そう」と、低い声で言った。


「酷いオトコだね」

「うん……」


ポーンと、電子音が鳴った。
ちょうど到着を知らせたエレベーターに、あたしと奈緒子は慌てて乗り込んだ。

ドアが閉まると、あたしはぎゅっと掌を握り締めた。

このエレベーターが一階に着いたら、また受付にいる藤下優香と顔を合わせなければならない。

憂鬱と悔しさが込み上げてくる。
けれど、心構えも出来ないうちに、エレベーターはすぐに一階に到着してしまった。
朝、出社する時は果てしなく長く感じた時間だったのに。

開かれた扉の向こうには、やはり『彼女』がいた。


「行こう」


奈緒子は、躊躇していたあたしの手を引いた。

あたしは早く目の前を通り過ぎたくて、彼女を見ないように俯きながら早足で歩いた。

緊張から心臓がドクンドクンと音を立てる。
さっさと歩きたいのに、なぜか上手く足が運べない。

自動ドアの少し手前まで来たその時だった。


「長瀬さぁん!」


遠くから、鼻にかかったような甘ったるい声があたしを呼んだ。
ヒールの高い靴音が、こちらに近づいて来る。

あたしの前で立ち止まった黒い上品なパンプスから、そっと目線を上に移した。

予想通り、甘ったるい声と上品なパンプスの主は、藤下優香だった。

目が合うと、彼女は意味を含んだような少し意地の悪い笑顔を見せた。


「さっきは急に倒れたからビックリしちゃいましたぁ。
大丈夫なんですか?
啓人さんも心配してましたよぉ」


――啓人、も?


目眩がする。
心臓は音を立てているのに視界が霞む。


あたしを追い詰めたいんだ、この女は。


何も答えられないでいると、奈緒子はあたしの代わりに冷めた口調で言った。


「そこ、どいてもらえます?」

「え」

「邪魔なんですけど」


彼女は一瞬にして顔を歪めた。


「何よ、人が心配してるのに!」

「心配してるなら、早くどいてくれます?
こっちは具合が悪いから帰るんですけど」


あたしは奈緒子と彼女のやりとりを横目で見ながらドキドキした。

だって、彼女は仮にも専務の娘だよ?


藤下優香は、ふん、と鼻であしらうように笑い、あたし達の横に移動した。
その次の瞬間には、奈緒子があたしの手を強く引っ張った。
あたしはなされるがまま、奈緒子の後に続く。
エントランスの自動ドアが開き、通り抜け様に、彼女の声が後ろから言った。


「結婚式には、長瀬さんもぜひ参列してくださいねぇ」


すぐにドアは閉まったはずなのに、はっきりとあたしの頭の中にそれは響いた。


……やっぱり。
あたし達のこと、知っていたんだ。


彼女の思う壺。
あたしは、簡単に打ちのめされた。


奈緒子は何も言わないまま、たまたま会社の少し前に停車していたタクシーの窓をコンコンとノックし、乗せてとジェスチャーした。

ドアが開かれると、ポンと、あたしの肩に手を載せる。


「気にするなって言っても無理だろうけど……。
とにかく、今日はゆっくり休んで。
夜、電話するね!」

「うん……ありがと」


どうにか微笑して返事をすると、奈緒子は運転手にあたしの自宅の場所を告げ、具合が悪いからゆっくり走ってとお願いしてくれた。

走り出した車内の窓から、奈緒子が手を振っているのが見えた。
けれど、それを見送るほどの余裕はあたしには残されていなかった。
大きく息を吐き、ゆっくりと白いレースがかかったシートに身体を凭せかけた。


……ああ、もう、ヤダ……。


彼女の蔑んだような言葉と、啓人の別れの言葉が、頭の中に渦巻く。


――『藤下優香と結婚することになった』

――『啓人さんも心配してましたよぉ』


目をぎゅっと瞑る。
そして、もう一度息を吐く。


――『別れてくれ』

――『結婚式には、長瀬さんもぜひ参列してくださいねぇ』


頭の中の声が消えてくれない。


ヤダ……。
誰か、助けて……。

助けて!


その時だった。
バッグからの微妙な振動に気付き、目を開けた。

携帯電話の着信だ。

会社だ、と直感した。
早退したせいで、きっと何かあったんだ。

バッグから携帯を取り出しながら、はぁ、と、大袈裟なくらい大きな息を吐き出した。

ハッキリ言えば、今電話なんて無視したい。
出て会話する気力もない。
けれど、社会人として、そんなわけにもいかない。
こうして、早退させてもらっているなら尚更。

あたしは、とろとろと通話ボタンを押して電話に出た。


「……はい」

「もしもし?」


全く想像もしていなかった声に驚いた。

温か味のある、ちょっと高めの男っぽい声。
名前を確認しなくても、すぐに相手は分かった。


「零……」


何で、こんなにタイミングいいの……?


「花音さん、会社ちゃんと行けた? 大丈夫? 心配でさ。
ちょうど昼休みくらいの時間だから、今なら電話かけても平気かと思って」


受話器越しに聞こえる零の声は温かい。

胸がぎゅっと苦しくなった。

もう、せり上がってくるものを抑えることが出来なくなって、瞳から涙が溢れ出てきた。
さっきまで、涙なんか出なかったのに。


「花音さん?」


零が、呼ぶ。
あたしは次々に溢れ出てくる涙で、何も答えることが出来ない。


「花音さん……? どうかした?」

「……っう」


口元を押さえたけれど、嗚咽を漏らしてしまう。
零に、聞こえてしまう。


「花音さんってば!
もしかして、泣いてるの!?」

「………」

「ねぇ、今、どこ!?
車の音が聞こえるけど、外!?」


答えられずに、馬鹿みたいに首を振った。
見えるはずも、伝わるはずもないのに。


「どこっ!?」


切羽詰まったような零に、何か答えないと、と、あたしは息を吸い込んだ。


「何でもない、から……」


そう言ったのに、零の返答は、望んでいるものじゃなかった。


「平気じゃないだろ!」


ううん。
違う。
本当は、それをきっと望んでた。

気付いて、欲しかった。


「今行くから!
どこにいるの!?」


零の声に、心臓がまたぎゅうっと苦しくなった。
だけど、これは嫌な苦しさじゃない。
全く説明のつかない感情。


あたしは――。
ズルイ女だろうか?

ズルくて、汚い女なのかな。


零にそう言われて、零に会いたくて会いたくて堪らなくなって。
一人でもいられなくって。
どうしようもなくなって。

「うん」

と答えた。

update : 2007.01.〜(改2010.05.26)