09
見慣れない白い天井と白い壁、ぐるりと周りを取り囲むクリーム色のカーテンが映り込んだ。
今こじ開けたばかりの瞼が重たい。
微かに身体を動かすと、ギシリ、と、硬いベッドが軋む音がした。
……医務室?
あたしは、ゆっくりと上半身を起こした。
まだ頭が覚醒していないようにぼうっとする。
「良かった、気が付いた?」
黒髪をきっちりと束ねた清潔感のある真っ白な白衣を着た女性が、ベッドを取り囲むカーテンの隙から覗いてきたかと思うと、豪快な音を立ててそれが開かれた。
閉鎖的な視界が、一気に消毒液の香る広い医務室へと変わる。
「長瀬さん、貧血よ」
眼鏡の奥の瞳が、あたしに向かって優しく細められる。
小綺麗ではきはきしたこの女性の医務員さんは、元大病院の内科医だったらしい。
結婚してから、勤務時間のブレもなく忙しいとも言えないウチの会社の医務員になったと、誰かから聞いたことがある。
「貧血、ですか……?」
訊き返すと医務員さんは、ふっと安心感のある笑顔をして見せた。
「倒れたのは分かる?
膝を打ってるけど、痛くないかしら?」
膝?
掛け布団に隠れた膝のあたりに、見えないとは分かっていてもつい目を転じた。
言われてみると、そこで初めて気が付いたように膝がズキズキと痛み始めた。
もう少しあとに言ってくれたら、その分まだ痛みに気付かずに済んだかもしれないのに。
左腕に点滴が付いているのにも気が付いた。
針と細い管が繋がれ、その先には透明の薬液パックが少し古びたステンレスのスタンドからぶら下がっている。
「ちゃんと食べてるの?」
上から覗き込まれるように訊かれ、まだ動きの悪い頭で記憶を辿った。
「そういえば、おとといのお昼御飯を食べたきりかも……」
「おととい?
それって、二日近くも食べてないってこと!?」
医務員さんは、かなり驚いたのか、大きな裏返った声を上げた。
そして、呆れたように息を吐いた。
「食べなきゃ駄目よ。
ダイエットでもしてるの?」
「……そうじゃ、ないんですけど……」
「そんなに長い時間食べてないなら、軽い物から食べてね。
出来れば、お粥とか消化のいいもの。
あ、とりあえずこれでも飲みなさい」
医務員さんは、医務室用の小さな冷蔵庫の中からスポーツ飲料の500mlペットボトルを取り出し、はい、とあたしに手渡してきた。
「……ありがとうございます」
そういえば、食欲がなくて飲み物もろくに口にしていなかった。
ペットボトルの蓋を開けると、身体の中に注ぎこむようにゆっくりと飲んだ。
さっぱりとした口当たりのスポーツ飲料が妙に美味しくて、体内にエネルギーが補充された感じがする。
医務員さんはデスクに座り、カルテに何か記入していた。
そして書き終わったなという仕草のあと、デスクの上の電話の受話器を上げた。
「あ、もしもし、お疲れ様です。医務室の宮部です。部長いらっしゃいますか?
あ、はい。そう、長瀬さん、気が付きましたから。あ、はい……」
どうやら、ウチの部に報告してくれているらしい。
部長に電話が繋がれる間、医務員さんは受話器を持った反対の手を持て余しているのか、今まで使っていたボールペンを指でくるくると回していた。
器用だな、とぼんやり思う。
こういうことは苦手なあたしにとっては、尊敬する値。
啓人も器用だったっけ、と思い出す。
啓人の部屋に泊まりに行くと、彼が手料理を振る舞ってくれることもあった。
優しい人だったのに……。
あたしが倒れても、今、何も感じずに仕事してるのかな……。
苦しくなって、目を瞑り、息を吸い込んだ。
「あ、どうも、お疲れ様です。宮部です。
長瀬さんね、気が付きましたから。ええ、そう、今日はとりあえず帰ってもらって……。
え? ああ、はい。分かりました……」
聞こえてくる医務員さんの声のトーンが、途中で変わったことに気がついて、あたしは目を開けた。
何かあったのかな?
「失礼します」と、医務員さんは電話を切ると、こちらへ向き直り、目が合った。
「あのね、部長に、今日は長瀬さん帰らせてください、って言ったら、今そっちに行くからって」
「えっ……?」
「長瀬さんに、お話があるそうなの」
「話、ですか?」
話?
部長が?
わざわざここまで来てくれるなんて、何だろう……?
暫くすると、急いで来たのか、息を荒げた部長と奈緒子が医務室に入ってきた。
部長は、医務室に入るなりあたしを見つけると、満面の笑みを浮かべた。
小柄でふくよかな体つきに、いかにも人が良さそうな顔をした部長は、恵比寿顔という言葉がピッタリの笑顔だ。
「長瀬くん!
ああ、良かった、気が付いて!」
「部長、申し訳ありません。
ご心配お掛けして……」
ベットから立ち上がろうとすると、部長に「いいから」と、制された。
あたしは、すみません、と頭だけ下げる。
奈緒子に対してバツが悪いあたしは、顔を上げるときに部長の後ろに立つ彼女をそっと見て様子を窺った。
いかにも不機嫌な顔つきで唇をぎゅっと横に引き結んでいる。
何も聞かされずにこんなことになっているのだから、怒るのは当然だ。
「花音」と、奈緒子は、小さく息を吐いてあたしを見た。
どきっとする。
「気が付いて良かった」
そこで優しい笑顔を見せた奈緒子に、喉につかえていた物がポロンととれたようにホッとした。
どうやら、怒ってはいないみたい。
「……ごめんね、奈緒子」
「もうっ、心配したんだよ」
「うん、ごめん」
「大丈夫ならいいけどさっ」
「ああ、それより、長瀬くん!」
部長は、待ち切れないようにあたし達の会話に割り込んできて、その上いきなりがっしりとあたしの手を取った。
驚いて、ついそのふくよかな手を見つめてしまう。
「実はな、良い報告があるんだ」
「良い報告、ですか?」
「人事部から連絡があってな、君に人事異動の辞令が出たんだ!」
「えっ……?」
「凄いぞ、マーケティング部だ! 栄転だぞ!
マーケティング部だと、二課と違って女性社員にはかなりやりがいもある部署だからな。海外出張も多いし、これから大変だけど楽しみだな!」
人事異動?
マーケティング部?
「凄いじゃない、長瀬さん! おめでとう!」
医務員さんも喜びの笑顔で言う。
けれど、状況がよく飲み込めない。
捲くし立てたように言った部長の言葉が、少し遅れて脳に伝達したようだった。
一体、どういうこと?
何でいきなり……。
自分のことだと、実感も湧かない。
確認するように奈緒子を見ると、釈然としない顔をしている。
部長は握ったあたしの手をブンブンと縦に振りまくり、嬉しそうに続けて言った。
「君は地道に頑張ってたしな。
いやー、本当におめでとう!
森が君のことをかなり評価してたからなぁ」
「森さ……課長が?」
「ああ。長瀬くんが二課にいるのは勿体ないってね。
森が頑張って、上にかけあってたんだ。
それがまさか、マーケティング部に決まるとはな」
すうっと、血の気が引いた。
……そういうことか。
奈緒子が釈然としない顔をしていたのも、どうしていきなりマーケティング部に異動が決まったのかも、それで全てが分かってしまった。
あたしが彼のそばで仕事をすることは好ましくないから。
邪魔な存在でしかないから。
きっと、藤下優香も専務も、あたし達の関係を知っているんだ。
専務なら、簡単に人事異動をさせることが出来る。
啓人だけの力で、あたしをマーケティング部に異動させるなんて、いくらなんでも無理だろう。
マーケティング部といえば、ウチの会社の女子社員は憧れる部署でもある。
ウチの会社、HARUNA(ハルナ)は、国内の大手家具メーカーだ。ヨーロッパや欧米の家具を参考に、高級感のあるモダンでオシャレな家具製作を目指している。
そのため、マーケティング部は、とにかく海外出張が多い。
女性ならではの感性や意見も取り入れられ、かなりやりがいもある。
今のように、お茶汲み接待係のような誰でも出来る仕事ではない。
腰掛けOLのあたしなんか、到底手の届かない部署なのだ。
マーケティング部に異動させてやるから、彼は諦めろ、手を引け、ということだろう。
海外出張で顔を合わせることが少なくなるというのも、理由のひとつなのかもしれない。
部長はあたしの様子など気にしていないのか、それともあまりにも突然の朗報でビックリしすぎて返答が出来ないと思っているのか、一人で浮き足立って、「こんな年末に決まるなんてなぁ」とか、「急でびっくりするよなぁ」とか、あれこれ話している。
「今週末の忘年会は、君の栄転と森の婚約祝いとダブルでお祝いだな!
盛大にぱーっとやろうな!」
あっはっは、と、笑い声と一緒に、ようやく離れてくれたと思った部長の手が、バンバンっと、肩を叩いてきた。
――婚約祝い。
「そうですね……」
苦笑いを浮かべ力なく答えると、奈緒子は「部長!」と、苛立ったような大きな声を出した。
「長瀬さんは体調が悪いんですよ! もう帰してあげて下さいっ!
私が下のタクシーまで、送って行きますから!」
奈緒子の勢いに、部長は少し戸惑った表情を見せると、「悪い、悪い」と、ちっとも悪気はなさそうな顔で言った。
「つい、嬉しくてね。
じゃ、今日はもういいから、点滴が終わって落ち着いたら帰りなさい。
人事部には私から言っておくから、明日手続きしてくれ。
早退届も出しておくから、このままでいいよ。
佐藤くんが、荷物を持ってきてくれているから」
「はい、すみません。ありがとうございます」
あたしは返事をすると、自分の左腕から繋がれている点滴を見つめた。
一滴、一滴、透明の液体が規則的に落ちてゆく。
あともう少しで終わる点滴のへこんだ薬液パックが、あたしの心と似ていてギュッと胸が苦しくなった。