08
確かにあたしは昔から結婚願望が高かった。
理由――それはウチが幸せな家庭だったから……なのかもしれない。
父が26歳、母が20歳のときに二人は結婚し、翌年あたしが生まれた。
父は区役所に勤める公務員。
真面目な性格で、コツコツと努力するタイプだ。
母は古風で優しくてしっかり者の家庭を大事にするタイプ。
料理が得意で、子供の頃は毎日手作りのおやつを作ってくれた。
5歳の時には、今住んでいる一戸建ての家に引っ越した。
それまで小さなアパート暮らしだったから、自分の部屋が出来たのが嬉しくてたまらなかったのを今でも覚えている。
そのあと、雪乃が生まれた。
初めて握ったもみじのような手が、あたしに可愛い妹が出来たことを実感させてくれた。
7つも年下の可愛い妹。
お姉ちゃんぶって一生懸命お世話したっけ。
休日には、いつも色んな所に連れて行ってもらった。
大きな公園、ボーリング、映画館、水族館、動物園。贅沢して遊園地。
お弁当を持って、ハイキングやドライブ、海水浴やプールもよく行った。
夏休みの旅行は河口湖の貸別荘で、バーベキューが定番だった。
家族との思い出は、アルバムだけじゃなく心の中に沢山詰まってる。
家に帰ってくると、母が笑顔で出迎えてくれて。
温かい料理が待っていて。それを四人で囲って。
決して裕福ではないけれど、いつも幸せだと感じていた。
だからあたしも母のように、ハタチくらいで結婚して、子供を産んで、温かい家庭を作りたい――って、小さな頃から当たり前のように思っていた。
それが、何より幸せだと思っていたから。
何かになりたい、というより、可愛いお嫁さんになりたい、があたしの夢だった。
だから将来のビジョンもなく、とりあえず短大に進学。
仕事も就職難だったこともあって、内定をもらえればどこでも良かった。
数打てば当たる、で、何社受けたか分からないくらい就職活動をした。
その中で、引っかかってくれたのが、今の会社だった。
思ってもみなかった、大手会社内定。
本当に運が良かったとしかいいようがない。
ウチの会社は結構有名な家具メーカー。配属されたのは営業部二課。
それでも入社直後はやる気も一杯で、頑張ろうって思ってた。
でも仕事の内容はお茶汲み、コピー、電話の取り次ぎ、受注と発注、接待……。
あたしじゃなくても、誰でも出来る仕事。
そのうち、働くのなんて結婚するまでなんだから、に変わってしまった気がする。
営業部一課でバリバリと仕事をこなす彼。
ウチの会社の大きな取引先は、彼が取ってくると言ってもいいほどのやり手だ。
収入も歩合給が付いて、一千万円をゆうに超えていると噂されている。
その上、格好良くて優しいとくれば、誰だって淡い憧れくらい持つでしょう?
冷たい風が、びゅうっと音を立てて吹き付けてきた。
首が竦み、思わず身を縮めた。
駅から会社までの道のりが、果てしなく遠い気がする。
いつもなら、たった徒歩5分の距離だというのに、どうにも足が上手く動かない。
白い息が上がる。
それに合わせて視線を上げると、雲も殆ど見当たらない朝の薄い水色の空が広がる。
会社、行きたくないな……。
足が、止まった。
出勤中のサラリーマンやOL、学生達は、忙しなくあたしの横を追い越して行く。
「かーのん!」
いきなりかけられた声に、ハッとした。
「おっはよ!
何こんなところで立ち止まってるの?」
あたしに酷く不似合いの、元気な声。
ポンと、肩の上で手が跳ねた。
あたしは気付かれないように息を吸い込むと、ゆっくりと振り返る。
そこには同期で同じ課の佐藤 奈緒子(さとう なおこ)が、爽やかな笑顔をこちらに向け立っていた。
「おはよう」
「ね、ね、花音っ、聞いちゃってくれる?」
興奮した様子の奈緒子は、あたしの挨拶さえも待ち切れないように、目の前に左手を掲げてみせた。
思わず目を見開いた。
細長い薬指には、朝日を受けて光る物があって。
「どうしたの、コレ……?」
決して大きいとは言えないけれど、ハート型にカットされたダイヤモンドが、奈緒子の薬指の上でキラキラと小さな光を散らしている。
一目見て、すぐに分かった。
エンゲージリング、だ。
「昨日ダーリンからプロポーズされちゃったっ。
でね、でね、イブは札幌のホテル予約してくれてるんだって!
昨日、花音に報告のメールしようと思ったんだけど、やっぱり会ってからビックリさせようと思って!」
奈緒子は嬉しそうな顔で、早口に捲くし立てた。
あたしは、奈緒子の勢いに圧倒されたこともあって、すぐには声が出なかった。
ううん、違う。
本当は、それだけじゃ、ない。
奈緒子は今の彼と付き合って、確か一年くらいだ。
早く結婚したいな、なんて言っていたのを聞いてはいたけれど、まさかこんなに早く決まるなんて。
しかも、タイミングが悪すぎる。
今のあたしの状況で、親友がプロポーズされるなんて……。
嬉しいはずの報告なのに、息苦しい。
「おめでとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
どうにか笑顔を作ったけれど、胸が痛んだ。
「ありがと」と、奈緒子は満面の笑みを見せる。
「ね、花音こそどうなったの?
森さんに大事な話があるって言われたのって、プロポーズじゃなかったの?」
ドキッとした。
こんなとき、なんて答えていいんだろう。
あたしと啓人が付き合っていたことを社内で唯一知っているのも、いつも相談に乗ってもらっていたのも奈緒子。
金曜日、彼から電話でそう言われたあと、すぐに奈緒子にメールした。
期待に胸が膨らんで。
誰かに聞いて貰いたくて。
あんな結末が待ってるなんて、あたしも奈緒子も露ほども思っていなかったし。
「プロポーズじゃなかったよ。
別に大した話じゃなかったんだ」
笑顔で答えた。
でも、上手く笑えた自信はない。
『フラレタ。
ホカノオンナトケッコンスル』
――なんて。
プロポーズされたと喜んでいる奈緒子に向かって、言えるはずがなかった。
それは奈緒子の、この嬉しい報告の雰囲気を壊してしまうのが嫌だったから、なんて――あたしはそこまでイイ子じゃない。
自分がとても惨めで情けなくて。
可哀想に思われるのも、嫌で。
本当のことが、言えない。
あたしもこうやって、奈緒子と同じように報告する予定だったのに。
それが、何?
何でこうなってるの?
「えー、そうなんだ……。絶対プロポーズだと思ってたのに。
花音と同じ日にプロポーズされて、挙げ句結婚式まで一緒の日? なーんて、一人で盛り上がってのにな、残念!」
「そんなに上手くいかないよ。
ね、急がなきゃ、遅刻するよ。行こっ」
一人盛り上がる奈緒子に、あたしはさっさと先に歩き始めた。
つい数分前まで足が動かなかったくせに、今は早く歩きたい。
奈緒子は「待って」と小走りで追いかけてきて、あたしの横に並んだ。
会社までの短い道中、奈緒子は、結納はやらなくてもいいかなとか、両親に挨拶がどうとか、隣で一生懸命話していた。
相槌を打ってはいたけれど、もちろん頭になんか入ってなくて、ただただ聞き流していただけ。
それでも一生懸命笑顔は作ったつもり。
奈緒子は自分の話に夢中で、おそらくあたしの不自然さに気付いていない。
頭の中は、ぐちゃぐちゃだ。
何から何を考えていいのかも、考えているのかも、自分では分からない。
会社のビルの目の前まで来ると、とにかく藤下優香に会いたくないという一心になっていた。
今は絶対に会いたくない。
こんな気持ちで、幸せそうな彼女を――啓人と結婚する女なんか、見たくない。
彼女がまだ出社していないことを願って、ビルの自動ドアを潜った。
けれど、その小さな願いさえ虚しく崩れ去り、社内に入るなり藤下優香の姿があった。
朝は会わないことのほうが多いのに、何でこんなにタイミングが悪いんだろう。
彼女は、出社して制服に着替えてきたばかりのようで、受付カウンターの所で何か作業をしていた。
女子社員にも可愛いと評判の制服が、私服社員の中でひときわ目立っている。
明るいネイビーの一つボタンのジャケットに、清楚で上品な白いブラウス。
首元にはタータンチェックのスカーフが、リボン結びで結ばれているのが可愛いらしい。
スカートは上品なミディアム丈で、前だけ大きめのプリーツになっている。
そんな女性らしい制服が、彼女には良く似合っている。
基本的には私服のうちの会社で、花形だといわんばかりの制服姿の彼女。
誰でも見とれてしまうような、グラビアアイドル並みの身体つき。
大きくパッチリとした目に、強調されたように長い睫。
ぽってりと艶のある妖艶な唇。その唇の右下には、小さなホクロ。
彼女の、トレードマーク。
このホクロが色っぽくて可愛いと、同期の男の子が言っていたのを聞いた覚えがある。
いや、彼女自身が可愛いと、男子社員には人気なのだ。
そんな彼女が、今、目の前にいる。
あたしの恋人を奪って、結婚するという女が。
奥底から湧き出てくるドロドロとした得体の知れないような黒いものが、あたしを飲み込んでいく。
ロビーから足が動かなくなってしまった。
床に足が貼りついてしまったように。
彼女なんて見たくもないのに、視線も固まったままで。
「どうしたの? 行こう」
異変に気が付いた奈緒子が、あたしの背中を押し、開いたエレベーターに強引に押し込んだ。
出社時間で混み合ったエレベーターの壁に、あたしは人を避けるように凭れた。
機械音が静かに響き、ドアが閉まった。
奈緒子は「花音」と、あたしのコートの袖を引っ張り、耳打ちしてきた。
「ね、藤下優香と何かあった?
アイツ、森さんのこと狙ってたしね。気を付けなよ。」
「え……?
狙ってた、って?」
不思議そうに顔を見上げると、奈緒子は呆れた顔付きになった。
「まさか、気付いてなかったの?
花音はそういうとこ、鈍いからなー」
狙ってた?
いつから?
大体、あたしと付き合ってていつからあの子とも付き合い始めたの?
ああ……。
……頭が……痛い。
営業部に入ったときには、まだ啓人は出社していないようだった。
同じ室内にある営業一課と二課はしきりも何もなく、室内の見通しも良いおかげで、今までは出社するとすぐに彼の姿を見つけることが出来たのに。
それが密かな楽しみだったのに。
こうなってみると、最悪な環境だ。
今まだ、啓人が出社していないことが救いなだけ。
あたしは逃げるように、給湯室へと向かった。
正直、奈緒子の結婚話も聞いている余裕もないし。
運良くお茶当番で良かった、なんて思う。
入社してから、一度だって良いものだと思ったことなんてなかったけど。
あたしは、電気ポットの水を入れ替え、電源コードを差した。
茶ダンスから、急須と茶筒、人数分の湯呑をトレーに載せる。
始業のアナウンスの後に、朝の挨拶と申し送りがあり、お茶当番はそのあと皆にお茶を出す。
始業前にやらなくてはならないは、たったこれだけ。いとも簡単に終わってしまう。
それでも、この場に一人でいられることだけでもありがたい。
あたしは、少しでも時間を潰したくて、意味もなく茶筒を手に取った。
無駄に裏の生産地を見てみる。
その文字を見て、初めから静岡産のものだと分かっているのにと、苦笑した。
溜め息も、漏れた。
茶筒をトレーの上に置き直し、天井を見上げる。
そして今度は、壁にかかる丸い時計を見た。
始業3分前。
……ここにいられるのは、あと、少しだけ。
時間を確認した次の瞬間、奈緒子が慌てた様子で給湯室に入って来た。
「花音! ちょっとっ!」
奈緒子は廊下を走ってきたのか少し息が荒く、「早く」と急かすように手招きしている。
「どうしたの?」
「早く、早く! 部長が早く集まれって呼んでるから!」
「部長が?」
「専務がウチの部に来てるの!」
――専務。
訊き返す猶予も与えられないまま、奈緒子はあたしの手を引っ張った。
ぐいぐいと引っ張りながら走り出し、あたしはそれについていくだけだった。
……まさか……。
奈緒子と廊下を走りながら、どんどん不安が募っていった。
入社式と社報でしか見たことのない専務が、わざわざ営業部に来てる。
それは何を意味するのか。
あたしには大体予想がつくからだ。
いつもなら始業前はざわざわとうるさいくらいの営業部のフロアーも、あたしが戻ったときにはしんと静まりかえり、皆整列していた。
あたしと奈緒子は、その人だかりの一番後ろに回った。
人の間から向こう側に見え隠れしているのは、専務と部長、啓人、そしてさっきまで受付にいたはずの『彼女』。
予想通りで気構えは少なからず出来ていたはずなのに、見た瞬間、全身の血の気が引いた。
立っているのがやっとなくらいに、足の感覚もなくなる。
奈緒子があたしのジャケットの袖口を軽く引っ張り、「なんなの?」と囁いたとき、始業のアナウンスが流れた。
アナウンスのあと、部長の声が黒山の向こうから言った。
「皆、おはよう。
今日は、嬉しいお知らせがあります。
あ、では専務どうぞ」
いつもの、のんびりとした口調。
それが「おはよう」と、低く落ち着いた人物に変わった。
背が低く、痩せ型に眼鏡、白髪交じりだけれど綺麗にセットされた髪型の年配の男性が見えた。
数回見たか見てないかという顔だけれど、すぐに専務だと分かった。
如何にもといった独特のオーラと雰囲気がある。
専務は一度、ん、ん、と咳払いした。
「実は私事なんですが、嬉しい報告があります。
この営業部一課の森課長と、娘の優香が婚約しました」
社内は一気にざわついた。
驚きの声が頭の中に反響して、また頭が痛んだ。
割れるように痛い。
痛い。
「何!? どういうこと!?」
奈緒子は凄い形相で、けれど小声であたしに向かって言った。
あたしは、何も答えることが出来ない。
「じゃ、森君も挨拶して」
ざわめきの中、専務がそう言ったと同時くらいに、あたしは目の前が真っ暗になり、全く身体の感覚がなくなった。