07
「珍しいね。真面目なお姉ちゃんが無断外泊なんて。
お父さんに、何も言われなかった?」
キッチンで胃薬を飲もうとすると、妹の雪乃(ゆきの)が入って来た。
身長が158cmで体型だってごくごく普通のあたしとは違って、雪乃は168cmの長身に手足が長くてスレンダー。
その上、出るところは出ていて、ファッション誌にでも出てきそうな体型。
おまけに、同じ血を引いているとは思えないほどの美人。
ようするに、あたしとは似ていない、ということ。
七つ年下の彼女は、都内の有名私立高校に通う二年生だ。
「帰らないなら心配するから連絡くらい入れなさいって、それだけ」
答えると、顆粒の胃薬を口の中にさらさらと流し込んだ。
「つーか、お姉ちゃん、朝から随分メイク濃くない?
何かあった?」
「ぶ……っ。けほっ、けほ」
鋭い突っ込みに薬が気管に入ったあたしは、急いでグラスの水で薬を流し込んだ。
あたしが思い切りむせているのを見て、雪乃はくっくと楽しそうに笑う。
「もう、変なコト言わないでよ。
別に何もないよ」
「そう?」
雪乃はまだまだ笑いながら、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、自分用のグラスをテーブルに置いた。
水を注ぐのに前屈みになった瞬間、長いストレートの髪がさらさらと雪乃の横顔を隠した。
それを細長い指がかき上げ、耳にかけ直す。
もう片方の手は、たかだかペットボトルを持っているだけなのに、随分と優雅に感じられるから不思議だ。
我が妹ながら、見とれるくらい、何をしていても様になる。
筋の通った鼻。くっきりした二重瞼に大きな瞳。つけ睫なんて必要ないほどボリュームもある長い睫は、上向きにアーチを描く。
ピッタリした細めの黒のニットが美しい体のラインを強調し、ツイードのリボン付きのショートパンツからはスラリとした形の良い長い足が伸びている。
そういえば零も、モデルみたいだよな、なんて――。
「何? ジロジロ見て……。
気持ち悪いなぁ」
雪乃は眉間に皺を寄せ、グラスに口を付けた。
「や、うん、雪乃ってスタイルいいなーって」
「何、急に?」
「別に、ただそう思っただけ」
「ふぅん……まぁ、お姉ちゃん、ちっちゃいもんね。
もっと牛乳飲んだら、成長するかも」
しかめっ面をしていたかと思えば、ニヤニヤしながらあたしの胸の辺りを見てくる。
「普通だもん!
それにどうせこの歳じゃあ、これ以上成長しません」
あたしは口を尖らせて、胸元をさっと両手で隠した。
そんなあたしを見て、雪乃は声を立てて笑い出した。
「や。身長の話だし。
もー、お姉ちゃんってば可愛いねー」
全く、もう!
昔から雪乃は、ハッキリキッパリとした竹を割ったような性格で、結構キツイことも平気で言う。
まぁ、よく言えば裏表のない性格。
あたしみたいに、どちらかというと言いたいことをハッキリ言えないタイプからすると、そういうところは潔く羨ましい。
それに、七つも年下のクセに、あたしよりしっかりしている。
「ね、さくら姉、元気だった?」
「え?」
「さっきまで、一緒だったんでしょ?」
雪乃に訊かれて、はたとした。
そうだった。
そう言えば、さくらと飲んでた、ってことになってたんだ。
さくらはあたしの中学生からの親友で、家が近いということもあり、お互いの家はよく行き来していた。
雪乃が幼少時から知っていることもあって、さくらにとって雪乃は妹のような存在で、雪乃にとってさくらは姉のような存在だ。
社会人になって、お互いに忙しく、会う回数も随分と減ってしまった。
家で会うということも殆どなくなったし、雪乃もずっとさくらと会っていないはずだ。
「あー、うん、元気、だったよ」
「そっか。
あたしも久し振りに会いたいなー」
「そうだね」
「で。どこに泊まったの?」
「えっ?」
「酔って帰れなかったって」
「しゅ、終電逃したから、お店にずっといたの」
答えながら、自分でもかなり怪しいと思った。
だったら、朝一に帰ってくるのが普通だろうから。
雪乃は左手を腰に当て、ジロジロと舐めまわすようにあたしを見た。
あたしは、思わず雪乃から視線を逸らした。
嫌な予感。
こういうときって、必ずと言っていいほど何か言われるんだよね。
「もう頭痛いから寝てくるね」
雪乃に何か感付かれそうで、あたしは早くこの場から退散したくなった。
「お姉ちゃん、目、腫れてない?」
「えっ」
「メイクで誤魔化そうとしてるでしょ?」
「ええっ!?」
思わず反応して両手を頬に当ててしまった。
あたしの馬鹿!
知らん振りしてればいいのに、認めてるようなものじゃん!
ふうん、と、雪乃は訝しげにあたしを覗き込んだ。
「彼氏に振られた、とか?」
「………」
「図星?
そうかと思った」
「何で――……」
わかるの、と、言おうとしたら、「お姉ちゃんて、分かりやすいから」と返ってきた。
そして雪乃は、フローリングに派手な音を立てながら、椅子に腰掛けた。
「昨日、帰ってこなかったし、さくら姉と一緒に酔い潰れてるなんて、よっぽどのことだな、って」
ギクッとした。
確かに帰りたくなかったけれど、一緒にいたのは、さくらじゃなかったから――。
高校生の雪乃になんて、本当のことが言えるはずもない。
あたしはそれに答えられずにいると、雪乃が言った。
「あたし見ちゃったの。先週かな?
お姉ちゃんの彼氏が、他の女といるところ」
「女……?」
「茶髪で巻き髪の背が高くていやらしい感じの人。
デパートに友達と行って、たまたま通りかかったら見かけて。
二人で指輪を選んでたみたいだったから、おかしいなって思ったの」
藤下優香だ、と思った。
そっか……指輪なんて選びに行ってたんだ。
きっと、エンゲージリングだ。
あたしは二年間付き合って、指輪なんて貰ったこともなかったのに。
得体の知れないドロドロとしたものが下から込み上げてくる。
胸のあたりも、苦しい。
――嫉妬、だ。
あたしは、指先をぎゅっと握り締めた。
「森さんに、他に女がいるって言われたの?」
雪乃の質問に、あたしは小さく頷いた。
「……結婚、するんだって」
「えっ!?」
嘘でしょ? と、雪乃はオーバーなくらいの驚き方をした。
あたしは、横に首を振る。
「昨日、突然言われたの」
「突然?
それで、お姉ちゃん、分かった、って引き下がったの?」
あたしは仕方なく今度は首を縦に振った。
雪乃はあんなに驚いた顔を見せていたのに、すぐに普段と同じ澄ました顔つきになって、ふーん、と言った。
「森さんって、ウチに来たときは誠実そうに見えたのにな。
フタマタなんて、やるねー」
「………」
「でも、ま、確かに森さんって結婚相手には最適かもしれないけど、それだけって感じじゃない?」
「何それ……慰めてるつもり?」
「慰めてるって言うか、ホントにそう思っただけ。
別に、良かったんじゃない?」
雪乃はダイニングテーブルに肘をつきながら、素知らぬ顔であたしに向かってその言葉を吐いた。
あたしはムッとして、持っていたグラスを雑にテーブルに置くと、雪乃を上から見下ろした。
「……どういう意味?」
「だってお姉ちゃん、森さんのこと、本気じゃなかったでしょ?」
「なかった、って――!
本気に決まってるでしょ!」
「だって、本気で好きだったら、そんなに簡単に諦めちゃうかな?」
「簡単なんかじゃないよ!」
「簡単でしょ?
言われてすぐ引き下がっちゃうなら」
引き下がっちゃう、って――。
「じゃあ、どうしろっていうの?
もう、二人の結婚は決まってるのに!」
「どうも、でしょ?
だから、あたしには本気に見えないよ」
「何も知らないクセに!
勝手なこと言わないで!」
雪乃はあたしの怒声に目を細め、ふう、と小さく息を吐いた。
「だって、お姉ちゃん、昔から結婚願望が高かったでしょ?
森さんって、好きな人っていうより、結婚したい人って感じに見えたよ。
まぁ、仕事が出来て、若くて課長で、高収入で、それでいて背が高くてカッコイイんだもんね。
あ、そういや次男とも言ってたっけ?
結婚したい相手として、理想のひとって言ってもおかしくないよね」
「雪乃!」
かあっと血が上る感覚を覚えた。
思わず手が出そうになったのを必死に堪えた。
雪乃は、そんなあたしに鋭い視線を向けた。
「あたしはまだコドモだから、結婚とかそんな気持ち分かんない。
でも、本当に好きなひとと結婚した方がいいと思う。
安定とか、安心とか、そういうのじゃなくて、心の底から好きなひと。
だから森さんと別れたって聞いても、そうなんだ、って思うだけだよ」
ガタンと、椅子の音を響かせて、雪乃は立ち上がった。
あたしは、自分よりも背の高い雪乃を睨み上げた。
「好きだったもん! ちゃんと!」
悔しくて悔しくて、声を震わせながら叫んだ。
妹にそんなことを言われるなんて……。
そんな風に見られていたなんて……。
なのに、上手く言い返せない。
「憧れと好きは違うんだよ、オネエチャン」
雪乃はあたしにそう言い残し、キッチンを出て行った。
雪乃が出て行くと、急に体中の力が抜き出たような感覚になって、へたりと床に座り込んだ。
あたしは、テーブルの上に並ぶ二つの空のグラスを暫く見つめていた。
憧れと好きは違う?
何よ、それ。
ちゃんと好きだったよ。
確かに最初は憧れだったけど……。
だからって、雪乃に何が分かるの?
何でそんなこと言うの?
その日、あたしは一日中ベッドの上で転がっていた。
何かをする気力も起きず、食欲も湧かず、ただ時間が過ぎ去るのを待った。
目を瞑っても眠ることさえ出来なくて。
微かな二日酔いの頭痛と、きりきりと痛む胃が、眠れない実感を与えていた。