06
バシャバシャと音を立てながら、自分の心の中のやましさを流すように勢いよく顔を洗った。
冷たい水が、気持ちまで引き締めるように、と。
タイル張りの床は痺れるように冷たく、足元から体温を奪っていく。
暖かかったリビングとは打って変わって、ココは気温が低い。
洗面所とは思えないほど無駄なこの広い空間が、より寒さを増長させているようだ。
あたしは、鏡に映る自分の顔を見つめた。
少し腫れた瞼。
――違う。
あまり腫れていない、だ。
零と一緒にいたことで、あまり泣かずにすんだのだ。
これが事実。
意地悪なことを言ったり、からかったり。
――でも、優しい。
今、彼のことを利用してるのは、あたし。
寂しさや喪失感や――どうにもならない空虚を、零に埋めさせているだけ。
ひとつ息を吐くと、ポーチの中から化粧品サンプルの使い切り小袋を取り出した。
クレンジング、洗顔フォーム、化粧水、乳液。
何かのときにと、入れっぱなしになっていたコレが、今役立つなんて。
まさか、見ず知らずのオトコと一晩過ごして使うなんて、思ってもみなかった。
啓人の部屋には、二週間に一度くらいのペースでお泊まりしていた。
だから、彼の部屋には一通りの物は置いてあった。
基礎化粧品に、お箸に茶碗、マグカップ。
白い洗面台の棚に、赤と青の歯ブラシがカップに並んで挿してある様を思い出した。
もう、捨てたのかな……。
脳裏を掠めた光景に、また苦しくなって、息が上手く出来なくなる。
そんな時だった。
「花音さーん」
零の呼ぶ声。
「携帯鳴ってるよー」
携帯?
そういえば、コートのポケットに入れたままだっけ。
「メイクしたら行くから、ほっといていいよー」
ドアに向かって返事をすると、分かったー、と、返ってきた。
邪気のない、零の声。
おかげで、頭に浮かんだ辛いものは、消えてくれていた。
やっぱりタイミングいいヤツ、なんて、ふと、笑みがこぼれる。
気を取り直し、あたしは鏡に向かい、化粧を始めた。
いつもより、ずっと濃くて。
少しでも零より大人に見えるメイク。
だって、武装しないと、どんどんあたしの中に踏み込まれる気がするから。
リビングに戻ると、さっきあたしが座っていた席に片付けたはずの湯呑があった。
白い湯気を立ち上がらせながら。
その目の前の席には、人懐っこい零の笑顔がある。
「さっき結局飲めなかったから。
お茶、今入れたばっかりだよ」
やっぱり……カワイイな。
こういうのって、ちょっと嬉しいかも。
「ありがと」
あたしは椅子に腰掛け、戴きますと、手を合わせた。
少しだけ警戒しながら、湯呑に口づける。
うん。
今度は、美味しい。
「大丈夫だった?」
心配そうに身体をテーブルに乗り出した零に、あたしは微笑んで見せた。
「ちゃんと美味しいよ。
ありがと」
良かった、と言わんばかりに、零は顔を綻ばせた。
幼さが残る彼の笑顔に、なぜかほっとする。
温かいお茶を飲んで一息つくような、そんな感覚。
どうしてだろう?
うーん……きっと、屈託がないから。
……だと思う。
「花音さん、電話は?」
「え? あ、うん、そっか」
あたしは湯呑をテーブルに置き、コートのポケットをまさぐった。
すぐに冷たく硬いものを掌に感じ、それを握り締めた。
啓人――の、ワケ、ないよ、ね……。
昨日、あんな酷いことを言われたばかりなのに。
それなのに、どこかで期待なんかしてしまう自分がいる。
取り出した携帯をすぐに開くことが出来ず、着信アリのマークを少し見つめた。
……まさか。
一息飲んで、携帯を開いた。
「あ」
着信履歴には期待とは裏腹に『自宅』の文字があった。
午前1時と8時、9時と、三回も。
「やっばーい!」
「どうしたの?」
「無断外泊しちゃった……」
やってしまった……。
もういい大人だし、外泊に関して、両親は特に何も言わない。
けれど、無断外泊というのは未だかつてしたことがなかった。
親元で暮らしている以上、必ず一言伝えるのがマナーだから。
何も言っていなかったのだから、帰って来なければ心配されてもおかしくない。
しかも、見ず知らずのオトコの家に自分から誘って泊まった、なんて――。
「そっか。帰るつもりで言ってこなかったんだ?」
「うん……」
コートはリビングに置いてあったから、携帯が鳴ったことに気が付かなかったんだ。
電話するの嫌だなぁ。何ていいわけしよう……。
頭の中でぐるぐる考えを巡らせていた時に、「ごめんね」と聞こえた。
「オレが、もうちょっと気ぃ使えば良かったね」
「ええっ? 何で零があやまるの?」
「いや、だって、オレんちに泊まってるじゃん」
「そうだけど、零は悪くないでしょ?」
て、いうか、ホントに自分が情けない。
自分より4つも下の子にこんなことまで言わせちゃうなんて。
一晩付き合って、って言ったのも、あたしで。
おまけに酔って覚えてない上に、彼の家に押しかけてるんだから。
自己嫌悪で次第に頭がうな垂れると、上から零が言った。
「家まで送るよ」
「え?」
「家まで車で送る」
「ええっ!?」
ちょ、ちょっと待って?
家まで送ってもらったら、自宅の場所がバレちゃうよね?
一回きりのオトコに、そんなことをさせたらやっぱりマズイよね?
普通どうするんだろ、こういうとき。
「え、や……いいよ、悪いよそんなの」
やっぱ、断るよ、ね?
「だって、オレの責任もあるから」
責任って言われても!
「零は悪くないし。
そんなのホント、悪いから。ホント、いいから。普通に一人で帰れるから」
「いいから、送る!」
「いいよ」
「送るってば」
「いいってば」
「駄目だってば!」
混雑する表参道を抜け、渋谷の高架下を通り過ぎ、車はひたすら246を走る。
日曜日のおかげで、車も人も馬鹿みたいに多い。
結局――あたしは、数分のやりとりの結果、年下のオトコノコに言いくるめられ、家まで送ってもらう羽目になった。
たった一晩だけのオトコに送ってもらうなんて大丈夫なんだろうかという心配も、一応はナビの道案内に素直に従ってくれているのを見ていると、徐々に薄れてきた。
さっき、自宅に電話したら、父ではなくて母が出た。
何となく父親ってこういうときにバツが悪いせいか、母でホッとした。
一応――友達のさくらと久しぶりに飲みに行って、飲みすぎて帰れなくなったと適当なことを言っておいたけれど、嘘が苦手なあたしは少しどもっていた。
きっと『彼氏』のところに泊まったと思われているだろう。
数メートル先に駐車車両があって、チカチカとウインカーが車内に鳴った。
あたしは、慌てて後ろを振り返った。
「ちょっと、危ないって! 車来てるって! ほら、ちゃんと見て見て!」
「見てるよー。
花音さん、右折とか車線変更する度にぎゃーぎゃー言わないでよ。
余計に気が散るじゃん」
「だって! 初心者なんて聞いてないし!」
「言ったら送らせてくれないっしょ」
ふん、と零は前を向いたまま小さく口を尖らせる。
当たり前でしょ!
初心者なんて聞いてないってば!
しかもミニだよ?
外車だよ?
それに加えて左ハンドルだよ?
「大体、ミニがどうして左ハンドルなのっ? 右でいいじゃない。
わざわざ左にする理由が分かんないっ」
イギリスは、日本と同じ右側車線。
英国製のミニは、普通に考えれば右ハンドルのはずなのに。
「オレに言われても。コレ、親父の車だし。
ヨーロッパ製の左ハンドルは、希少価値があるらしいんだよ。
ヤツは変なこだわりがあるからさ」
お父さんが建築士、って――零の言う通り、きっと色んなこだわりがあるんだろうけど。
確かに、お洒落でカワイイけど……。
でも、でも、初心者が左ハンドルなんて乗らないでよ!
ただでさえぎこちない運転なのに、十倍は怖さ倍増なんですけど!
「ね、いつ免許取ったの?」
あたしは、フロントガラスの向こう側の、ボンネットに貼り付けられた若葉マークをちらりと一瞥して訊いた。
ヘタクソだから、という言葉は、一応自粛する。
「8月」
「もしかして夏休み中に?
零って大学生?」
「……うん」
「やっぱり建築科とかなの?」
「……うん、まぁ」
「へぇー、頭いいんだね」
零はこちらに視線もよこさないまま、苦笑いした。
「そんなでも、ないよ」
あまり歓迎しない物言いだ。
こういうことを言われるのが、好きではないようだ。
さっき、玄関を出て、表札の横の住所に驚いた。南青山の文字があったから。
大きな――整い過ぎたくらいの作られた庭、高い塀。
駐車場には、ボルボとミニが二台並んで。
目を引くほど格好良くて、背も高くて、オシャレな建築科の学生。
お父さんは海外で仕事をこなす建築士。
傍から見たら、羨ましいほど揃い過ぎたステータス。
それだけを見て近づく輩もいるのだろう。
「零は、零だよ?」
「え?」
「あ、ほら、信号赤!」
一瞬だけこちらを向いた零に指を差しながら教えると、スピードが緩み、車はゆっくりと停車線の手前で停止した。
前のめりだったあたしは、車が止まったことに少しだけホッとして、シートの背もたれに寄りかかった。
何となく、窓の外を見た。
冬の澄んだ水色の空に、葉のほとんどを落とした街路樹が浮き立って、まるで絵葉書のように綺麗だ。
その中を鳥が横切っていく。
あれは、何の鳥だろう?
ふと――思った。
啓人の車の助手席に乗っていたときは、安心しながらガラスの向こう側をよく見ていたな、なんて。
こうして、彼の隣で景色を見るのが好きだった。
気の向くままにぽつぽつとくだらない話をして。それが楽しくて。
そんな落ち着いた安心出来る空気があまりにも心地良くて、つい自然と居眠りしたこともあったっけ。
思い出して、溜め息が漏れた。
「花音さん、今、彼氏のこと考えてた?」
「え……?」
零は、鋭い。
あたしは、答えなかった。
「そんな顔、してる」
そう言った零の顔は、悲しそうに見えた。
そうかと思うと、すぐに笑顔に変わった。
「せっかくの日曜日だから、花音さんと一緒にどこか出かけたかったなー」
「え?」
「ほら、天気イイし」
「あー……そうだね」
適当に答えてしまった。
だって―― 一度思い出したら次々に思い浮かんできた。
もやもやとしたどす黒い気持ちが、胸にどんどん込み上げてくる。
明日――。
どんな顔をして会社に行けばいいんだろう。
啓人は同じ部署だから、避けることは出来ないし。
受付を通る度に、彼女の顔を見て。
きっと、いつもよりもずっと、幸せそうな彼女を。
目頭が熱くなり、喉をぐっと何かが圧迫する。
堪えようとしたけれど、瞳にみるみる水が溜まっていくのが自分でも分かった。
溢れた涙がこぼれて頬を伝わったとき、零の手が伸びてきた。
そして、その掌が、あたしの頭をくしゃくしゃと思い切り撫でた。
「あんな酷いオトコのことなんか考えるなよ」
「え」
「オレのこと、考えてよ」
何、言って……?
言葉が出る前に、グンと体が前に引き寄せられ、ダッシュボードにぶつかりそうになった。
きゃあっ、と思わず悲鳴を上げた。
青信号になったと同時に、零はアクセルを思いっきり踏んだのだ。
「ちょ、ちょっと危ないじゃん!
何するのっ?」
怒って怒鳴ると、零は何でもないようにさらっと言った。
「涙、止まったでしょ?」
あ……。
ホントだ。
もう……。
ホントに不思議なヤツ。
零といることで、あたし――落ち込んでいる暇があんまりないな……。
あたしは、シートに寄り掛かり直した。
前をしっかりと向いたままの零を、そこから見上げた。
色素の薄い柔らかそうな茶色い髪。
それに合わせたような色の、透明なビー玉みたいな瞳。
やっぱりカッコイイな、なんて思う。
綺麗な、横顔。
絶対、女の子の方が放っておかないよね……。
「ねぇ、せっかくの日曜日なのに、あたしに付き合ってていいの?
零、モテるでしょ?
可愛い女の子とデートじゃないの? 彼女は?」
ちょっとだけ嫌味も込めて訊いた。
「彼女はいないよ、別に」
「そうなの?
でも、デートする子は沢山いるでしょ?」
「いないよ」
「ええー?」
一見、遊んでそうで、女の子に慣れてる感じなのに。
意外に真面目なのかな?
……や。
なら、あたしとこんな関係にならないか。
そんなことを思っていると、「だってさ」と零が言った。
「好きな人とじゃなきゃ、意味ないじゃん」
「………。
そうだね」
それって、好きな人はいるってことだよね、彼女じゃなくても。
なのに、あたしなんかに付き合っちゃって良かったのかな。
零みたいに完璧に見える男子でも――恋愛が上手くいかない、ってこともあるのかな……。
そのあとの零の運転は、やっぱり下手くそで。不安定で。
家の近辺に着くまで、きゃーきゃー言いながらだった。
それでもなぜか、楽しいな、って感じたんだ。
昨日出会ったのが零で。
一緒に居てくれたのが――零で。
良かったな、なんて。
帰るのがちょっと寂しいな、なんて。
ナビの音声が『まもなく目的地です』と発すると、「そこのコンビニまででいいよ」と、あたしから言った。
零は、うん、と答えたあと、コンビニの駐車場内に車を乗り入れて停止した。
これでもう、サヨナラだ。
きっと、二度と会うこともない。
後腐れのない、大人な付き合い。
だけど、お礼だけはきちんと言っておかなきゃ。
「ありがとう」
「うん」
「おかげで、少し気が紛れたよ」
「……うん」
「じゃあ」
あたしなりの笑顔を作って、車から降りようとドアに手を伸ばした。
けれど、手を掛けると同時に、強く腕を掴まれた。
驚いて、振り向く。
「何?」
「花音さんは、このままでいいの?」
「え?
いいって……何が?」
あまりに真剣な顔つきだから、どきっとする。
「もうオレと会えなくていいの?」
車内の狭い空間の、隣の席の――すぐの前で、零があたしに問う。
彼のブラウンの瞳に、あたしが映っている。
会えなくて、って――……。
「だって、一回きりの関係でしょ?」
自分にも言い聞かせるように、零に訊き返した。
楽しかったのは確か。
でも、こんな関係は良くない。
零は黙ってしまった。
けれど、あたしの腕を放そうとしない。
「帰るね。送ってくれて、」
ありがとう、の言葉が出る前に、零が遮った。
「でもさ、自宅バレてるよ。
住所、ナビに登録してあるし」
「は……?」
「花音さんの両親、オレみたいな年下のオトコを、娘から一晩付き合えって誘ったなんて知ったらどう思うかなぁ?」
ええっ!?
ちょっと! 何言ってるの!?
「バラされたくなかったら、ケー番とメアド教えて」
ニヤリと何かを企んでいるように微笑む零。
もしかして、あたしのこと脅してる!?
「や、それはちょっと……」
「ちょっとじゃないよ。
赤外線、使える?」
「や。えっと、あたし、ケイタイ機能あんまり分かんないし」
へらっと笑って、どうにかかわそうとする。
けれど「ん」と、零の手があたしの目の前に差し出された。掌の、ほう。
「じゃ、オレがやるから貸して」
「え」
「ケータイ」
零の掌がぴらぴらと動いて、よこせ、と言っている。
嘘でしょ!?
「大丈夫。変な電話とかしないから。
花音さんのが知りたいだけだって」
にっこりと、微笑まれる。
けれど、綺麗過ぎる顔が余計に裏がありそうで怖い。
参ったな……まさか脅されるなんて。
変な電話とかしない、って……一緒にいて、確かに変なことはしなさそうだったけど……。
これも、自業自得だ。
誘ったのは、あたしなんだから……。
深い溜め息をつきたいのを堪えて、そろそろと息を吐き出すと、渋々バッグの中の携帯電話を探し出す。
バッグから取り出した途端、それは横から奪われた。
零は自分の携帯も出し、あたしの携帯と何やらやっている。
赤外線通信――だ。
「オレのも登録してあるからね」
はい、と、携帯を返された。
まぁ、自分からはかけないだろうし……。
最悪、着信拒否にすれば、どうにかなるよね。
携帯電話を元の場所にしまいながら考えていると、またしてもいきなり手を取られた。
今度は腕ではなく、掌。
けれど、掴まれたというよりは握られたという方が正しいかもしれないくらい、優しく。
触れた部分があまりにも温かくて、ドキッとした。
思わず見上げた顔は、真剣なものになっていて、あたしの瞳を捉えるように見つめてくる。
心臓が、ざわざわと落ち着かなく動き始める。
「離、して……」
そう言うのが、精一杯になる。
零は、瞳を逸らさないまま、ほんの少しの沈黙の後、言った。
「オレ、花音さんと出逢ったこと、偶然じゃなくて必然だと思ってるから」
「え……?」
「あのとき、ちょうど横断歩道の信号が青で、走って渡ろうとしたんだ。
でも雪が降ってるのに気が付いて、ふと立ち止まった。
そしたら、花音さんが通りかかったんだ。
雪に気付かなければ、立ち止まることも、逢うことも、なかった」
「………」
「オレにとっては、奇蹟の雪」
な……何でそんなことを言うの……?
本気なのか冗談なのか、わかんないよ……。
「花音さんに、彼氏のことを聞いて許せないって――オレが傷を癒やしてあげたい、って思ったんだ。
だから、辛くなったら電話して。すぐに飛んでくるよ」
掴まれた手が熱を持ったようだった。
そこから、あたしのドキドキが伝わってしまうんじゃないかと思った。
何も言えずにいると、零はゆっくりと手を離した。
「ごめんね、引き止めて」
零は、ハンドルを抱きかかえるようにして寄り掛かった。
その姿が。
ガラス越しの陽に透ける茶色い髪と、ブラウンの幼い瞳が、カワイイな、と――思ってしまった。
「じゃあ」
あたしはそんな自分の気持ちが無性に恥ずかしくて、それ以上顔を見ずに急いで車を降りた。
振り返らずに、早足で車から離れる。
コンビニから離れたところまで急ぐと、足を止め、そこでようやく振り返った。
もう、零の車は見えない。
――『偶然じゃなくて必然』
零の言ったその言葉が、頭の中で繰り返しこだまする。
あたしは振り切るようにぶんぶんと頭を振り、また歩き始めた。
なのに――握られていた掌が、火照っているようで。
それを握り締めて、家へと向かう足を速めた。