05
「……凄い」
室内を見回したあたしの口からは、感嘆の言葉が漏れた。
通されたリビングダイニングは、普通の―― 一般的に、庶民と言われる層の家のリビングではない。
まるで海外の高級リゾートホテルを思わせるような、スタイリッシュで生活感のない空間だ。
白い大理石のタイル張りの床に、漆喰の壁は粗い串目の横引き。
天井は高く、吹き抜けになっていて、ブラウンの無垢板がダイヤ柄のようになって張ってある。
スクエアの埋め込み型の照明に、ダウンライト。
大きな掃き出しの窓は、庭先のウッドデッキと繋がるオープンエアになるようだ。
上品なレザーの白いソファに、どこに売っているのだろうと思うような、見たことない葉の観葉植物。
大画面の薄型のテレビが壁にかかっているだけで、他の電化製品は収納してあるのか、見当たらず、スッキリとしている。
キッチンはアイランド型で、天板は小さなタイルが敷き詰めてある。それに、白のスクエアシンク。
最新のシステムキッチンではなく、いかにも特注といったようだ。レンジフードも、海外製だろう。形が変わっている。
キッチンの後ろは四枚の引き戸になっていて、冷蔵庫や食器棚、食品棚も見当たらないことから、パントリーか収納庫になっているようだ。
その戸も、黒に小さなスクエアのガラスが縦に並んでいて、可愛い。
他にも、飾ってあるガラス細工の小物や、窓、ドア、照明――とにかくどれをとってもモダンでお洒落なのだ。
オレの部屋――と、言っていたさっきの零の部屋だって、若い男の部屋のくせに、生活感のないどこかのモデルルームのような空間だった。
普通のオトコノコの部屋って、大体が乱雑じゃない?
エッチな本とか、洋服とか、ゲームとか、散らばっているような。
一夜限りのカンケイなんて――後腐れないように、ラブホテルが普通だと思っていたから、自宅と聞いて驚いた。
それとも、自宅だとお金がかからなくて手頃だから?
さっきの言葉――『今度は』っていうのも……あたしをセフレにでもする気?
「何、一人で悶々と考えてるの?」
零は、ダイニングテーブルの上――あたしの目の前に、湯気の立った湯呑をすっと差し出した。
このダイニングテーブルも、いかにもデザイナーズっぽい。
黒の天板に、シルバー色の金属の足。六人分の椅子がある、大きなモノ。
「あんまりカッコイイおうちだから、見とれちゃった、だけ」
ありがと、と、あたしは湯呑を受け取った。
「胃がムカムカするから、温かいお茶が飲みたいな」なんて言ったから、零はわざわざお湯を沸かして入れてくれた。
「親父が聞いたら喜ぶよ」
「親父?」
「建築士だから。
この家、親父の設計。」
「え、建築士?」
「うん」
「この家を設計したなんて……凄いね。カッコイイ」
それでか。納得。
あたしは、もう一度室内をぐるっと見渡す。
シンとしていて、あたしたち以外の物音も気配も感じられない。
「ね、おうちの人はいないの?」
「親父もお袋も、今、海外で仕事してる。
ま、たまに帰ってくるけど」
「え?
こんな大きな家で、一人暮らしなの?」
「そーだよ」
「そっか……寂しいね」
そう言ったら、零は俯いた。
黙ったまま。
あれ?
もしかして、悪いこと言ったかな……。
そう思った次の瞬間だった。
零は、ぶはは、と噴出し、お腹を抱えて笑い始めた。
しかも、涙まで目に溜めて。
「ちょ、ちょっと、何で笑うの!?」
「いや、だって……ぷくく……フツーは、いいな、とか言わない?
そんなこと言う人、初めて見た!」
あんまりにも笑って馬鹿にする零に、ちょっとだけ頭にくる。
だって、本当にそう思ったし。
普通に、寂しいよ、絶対。
「言わないよ。
絶対、寂しいよ」
怒った口調で言った。
零はまだ、テーブルを挟んで声を立てて笑っている。
……もう、知らないっ。
あたしはそれ以上は無視して、零が入れてくれたお茶を手に取り直す。
備前焼の、高級そうな湯呑。
それを両掌で包み込んだ。
温かい。
包み込む掌が、じんわりと温まっていく。
怒っているはずなのに、なぜか心の棘がほぐれていく感じだ。
「ねぇ、花音さーん」
もうっ。
一秒前まで笑ってたかと思ったら、今度は甘えた声っ?
「なあに?」
一応、笑顔で答えた。
だって、大人だもん。
「オレが寂しくなったら、この家に遊びに来てね」
笑い顔は、真剣なものに変わっていて、あたしの瞳をまっすぐに見つめてくる。
そんな零に、ドキッとする。
またそんなことを、こんな顔で言う。
あたし、からかわれてるのかな。
「分かんない」
……て。
何で、行かない、って言わないの、あたし。
自分に突っ込みながら、落ち着かなさを紛らわすように湯呑に口を付けた。
けれど、その口の中に入れた液体をいきなり吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえる。
口内は、罰ゲーム並みの苦さと渋さ。
一体、どのくらい茶葉を入れたのか。
金属的な黒みと紫蘇色をした湯呑のせいか、中身の色の濃さに気付かなかったけど――。
吐き出すわけにもいかなくて、とりあえず、ごくんと飲み込む。
けれど、あたしがあんまりにも変な顔をしたのか、零が気付いたようで表情が急変する。
「うわ! お茶まずかったっ?」
「すっごい、苦いんだけど……。
これ、茶葉入れすぎじゃない?
もしかして、お茶入れたことない?」
「ゴメン……。お茶くらい入れられると思ったんだけど……。
花音さんが、飲みたいって言ったから、オレ、入れてあげたくて」
ドキンとした。
また、そんなことを――女の子が嬉しいと思う、くすぐったい言葉。
年下らしい媚態。
しかも、まるで子犬が怒られてしゅんとするような顔つきも、可愛いんだけど。
「大丈夫。
お湯で薄めれば、美味しく飲めるよ」
つい、お姉さん風を吹かせて、微笑んでしまった。
折角入れてくれたんだしね?
入れたこともないみたいなのに。
気持ちは、嬉しかったし。
薄めるくらい自分でやろうと、あたしは椅子から立ち上がった。
「あ、オレがやるよ」
零も立ち上がって、指が伸びてきた。
触れそうになった指先に、思わず自分の手を引っ込めた。
と、その瞬間、指が湯呑に触れて倒れた。
あっと思うと、お茶がテーブルの上に緑色の波を広げる。
「きゃ……ごめん!」
「いいから、熱いから離れて!」
零がそう叫んだと思うと、身体が後ろに引き寄せられた。
咄嗟に腕を掴まれたからだ。
あたしの肩が、零の胸元に触れる。
「大丈夫?」
零が、至近距離であたしを見つめて言う。
優しい、心配した瞳で。
ぼたぼたと、床にお茶が滴り落ちる音が響く。
けれど、零はあたしを見つめたまま、掴んだ腕を放そうとしない。
あ、ヤバイ――。
そう思ったときには、もう遅かった。
柔らかくて温かい感触が、あたしの唇を覆う。
そっと、大切なものを包むように触れてくる。
優しいキス――。
体の芯が、痺れるような感覚。
二日酔いの頭の痛みではない何か――くらくらとした目眩のようなものに、あたしは瞳を閉じてしまった。
けれど、次の瞬間、頭の中を啓人が過った。
啓人の、唇の感触も――。
――あたしって、最低。
零の肩を、トン、と押した。
二人の唇が離れる。
「子供はもう、オシマイ」
あたしは、自分の中の気持ちを打ち消すように、零を咎めた。
キスが嫌じゃなかった、という気持ち。
昨日、彼氏に振られたばかりだというのに。
すかさず零が、真剣な眼差しを向けて言う。
「子供じゃない」
「コドモだよ。零、年いくつ?」
「……ハタチ……」
ハタチ?
零の返した言葉が刺さる。
あたしより、四つも年下のオトコノコ――。
「ほら、やっぱり子供だ」
あたしはわざと笑って、零の鼻を、きゅ、と軽くつまんだ。
零は無言で踵を返した。
キッチンの後ろの収納に、タオルを数枚取りに行き、そのまま床を拭き始める。
顔は見えないけれど、怒っている模様。
子供なんて言って、機嫌悪くさせちゃった……。
だって、ああでも言わないと……。
一日経って、ほんの少し冷静になれて――こんなことはやっぱり良くないと思う。
けれどこのままだと、なし崩しにまた関係を持ちそうで怖い。
零には、不思議な魅力がある。
人を惹きつけるような。
だから、怖い。
あたしも、零が取ってきたタオルでテーブルを拭き始めた。
広い室内に、微かな水音と、テーブルと床を拭く音が混ざる。
大体拭き終わると、テーブルの上に倒れたままの湯呑を起こした。
それを手にしたら、なぜかキスの瞬間が鮮明に思い出された。
感触まで。
ヤダ!
もう、あたし、絶対変!
頭の中に浮かんだソレを、振り払うようにぶんぶんと首を振る。
そして手早く湯呑をキッチンのシンクに下げると、ちょうど零も床を拭き終わり、お茶でびしょ濡れになったタオルを持って、あたしの前に立った。
何か気まずい……な。
そう思うと、零の唇があたしの耳元に近づいて、ぼそりと囁いた。
「花音さんは、子供とあんなコトするんだ?」
身体が固まる。
それとは反対に、みるみる頭に血が上がっていく。
また、絶対、顔が真っ赤だ。
確かに、あたしが誘った。
あたしが、零とシタイと思った。
誰かに優しく、慰めて欲しくて。
零に何をされてもおかしくない。
あたしが――悪い。
「それは……」
しどろもどろになる。
何て答えていいか、分からない。
良い言葉も、見つからない。
あたしのその様子を見て、零は、勝った、とでもいった顔でにんまり笑った。
「花音さんからかうと面白い。
マジ、カワイイ」
こ、このぉ!
カワイイ、じゃないよ! 全く!
優しいのか、意地悪なんだか、ちっとも分かんない!
ムッとしたけれど――でも、言われた通り。
四つ年下の子と、あんなことをしたんだ。
あたしは自分のやましさが恥ずかしくて、この場からとりあえず逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
「顔洗いたいから、洗面所貸してね」
と、椅子の上に置いてあった自分のバックを掴み取るようにして、足早にリビングを出た。