03

 誰かに、抱きかかえられていた。支える力や感触から、見なくてもそれが男の人だというのは分かった。
 薄く開けた目の先に、白いシャツと浮き出た喉仏に顎先が見えた。やっぱり男子だ。
 わぁわぁと耳鳴りのような声もしている。
 頭がぐるぐるぐるぐる……ずきずきずきずき……痛くて。あたしは頭に手を当てて、また目をぎゅっと閉じる。
「今、保健室に連れてくから!」
 雑音ばかりな中、彼女の声だけが、はっきりと聞こえた。
 渡り廊下の向こうにある校舎の一階に、保健室がある。ここで倒れているより、すぐ近くの保健室で横になったほうがいいということだろう。
 軽い脳しんとうだと思う。あたしは、目を瞑ったまま、あたしを抱える誰だか分からない相手に身を任せた。自分の意識はある。大ごとじゃない。大丈夫。これは元サッカー部マネージャーの経験から。
 少しの間誰かの腕の中で揺られると、大人の女の人の声も聞こえて。あたしは、柔らかいところに寝かされた。多分、保健室のベッド。
 目を開けると、白衣を羽織った校医の赤木先生が、あたしの顔を覗き込んでいた。
「沢木さん、大丈夫?」
 保健室に来たのは初めてなのに、どうしてあたしの名前を知ってるの? ――って、そうか、沢木さんがことの顛末を説明したのか。
「大丈夫で、す、た、た……っ」
 今答えている最中にも関わらず、赤木先生はあたしの頭をぐりぐり触診する。
「うーん、こぶが出来てるわねぇ。どこか違和感あったりする?」
「当たったときは頭がくらくらしたけど、大丈夫だと……」
「うん、まぁ、大丈夫そうよね。あとは膝ね」
 赤木先生はそう言ってあたしの頭の下に水枕を敷くと、ベッドの周りのカーテンをぐるりと閉めた。そのとき向こう側に、沢木さんと数人の男子生徒が見えた。きっと、サッカーボールを蹴ったひとたち。相手が誰だか確認する間もなく、カーテンでベッド周りの視界は遮断された。
 ひとりになったと思ったらすぐに、また赤木先生がカーテンの間から現れた。手には、消毒液や薬らしきものがいくつか入ったプラスチックのカゴ。
「あらら、痛そ」
 顔を顰めながら、容赦なくあたしの膝に、消毒液をしみ込ませた脱脂綿を押しつける。
「……痛っ、っつ!」
「大丈夫よぅ、このくらい。あとは? どこか怪我して痛いとこある?」
「右腕が……」
「あー、ここね。擦れてる」
 あたしの腕を取って確認すると、またもや遠慮なく傷を消毒してくれる。艶々のピンクの爪がつく手入れのされた細い指先が、丁寧に動く。マスカラのたっぷり塗られた長い睫毛。グロスの光る唇。大胆に開いた胸元から覗く豊満な胸。どれもこれも大人の色気たっぷり。
 健全な青少年たちを扱う校医が、こんなにセクシーさを振りまいていいのかな、なんて思う。だって、こんなの、男子は堪らないんじゃないかな。
「少し休ませてくから、みんなは戻ってなさい」
 赤木先生は、あたしの傷口に塗り薬を擦り込みながら、カーテンの向こう側に言った。
 数人の話声がごそごそと、カーテン越しに聞こえる。
 少し経つと、その話声はなくなって静かになった。
「これでよしっ、と」
 赤木先生はピンと背を伸ばして立ち上がると、あたしの上にタオルケットをかけた。傷の処置はもう終わりらしい。
「ありがとうございます」
「いいえ。まぁ、ゆっくりここで休んでいきなさいな。担任の先生には言っておくわ」
「……はい」
「何かあったら呼んでね」
 赤木先生はにっこり微笑むと、カーテンの向こうに消えた。
 薄い布一枚隔てて一人になって、あたしは天井に向かって溜め息を吐き出した。
 ――ついてるんだか、ついていないんだか。朝から波乱万丈な一日。
 横になっていると、眠くなってきた。ここは教室と違って、空調がついていて涼しく心地良い。
 考えてみたら、今日は隼に会うために、いつもよりも早起きしたんだった。眠いわけだ。
 あたしは、遠慮なくこの場で午後の授業はさぼらせて頂くことにして、お腹の辺りにあるタオルケットを引っ張り上げて、目を瞑った。

 次に目を開けたとき、見慣れない天井とクリーム色のカーテンの光景に、ここどこだっけ、と思った。
 あー、そうだ。あたし、ボールが当たって、保健室で寝てたんだ。今、一体何時なんだろ? もしかして、五時間目の授業、終わっちゃったかな……?
「はあああぁあ」
 思わず、盛大な溜め息。
 おもいきりサボっちゃったなぁ。そう言えば、お昼食べ損ねた。
 そう気付くと変なもので、急激に空腹感が襲う。ぐううううと、これまた豪勢な音がお腹から鳴る。
 ――と。ぶぶっと、いきなり噴き出す声がした。続いて堪えるようにクックと笑う声。
「だ、誰っ!?」
 あたしはがばっと起き上がり、カーテンを開けた。その途端、ずきんと、頭が痛む。
「いっ! ……たぁ」
 両手で頭を抱え込んだ。
 その姿が面白かったのか、笑い声が大きくなる。
「ちょ、ちょっとっ! 笑わないでよっ!」
 顔を上げて、その声の相手を睨む。
 隣のベッドであおむけに寝転がって、足までばたつかせて笑っている男。
 ――ムカツク! 一体、誰!?
「ヘンなヤツ」
 そう言いながら、息を切らせて笑いを堪え、こちらを向いた。
 意地悪そうで。けれど綺麗な顔の男。
 どきっとした。
 ――蜂谷 蒼生(はちや そうき)だ。隣のクラスの。
 喋ったことはないけど、ウチの学校ではある意味有名人だから知ってる。
 去年まで、J1チームで名門マルクスのジュニアユースにいたっていう男。10番を背負ってたのに、ユースへ上がらずにウチの学校のサッカー部に入ったって。一年でレギュラーなのはもちろんのこと、トレセンにも選ばれてるとか。
 その上、芸能人みたいに顔が綺麗で、女の子にはモテる。
 ――けど、軽くて。来る者拒まず去る者追わず、ってヤツ。
 あたしが、苦手なタイプだ。
「こ、ここで何してんの!?」
 思わず少し身を引いて警戒しながら言うと、彼は飄々とした顔で小首を傾げる。
「何って……寝てた」
「寝てた!? あ、赤木先生は!?」
「何か、用事があるとかで、どっか行った」
「ええっ!?」
 嘘でしょ、信じらんない! 女生徒の隣に男子生徒を寝かせて、男女二人っきりにしてどこか行っちゃうかな! 普通はしないでしょ! しかも、こんな危険そうな男と!
 そのとき、室内のスピーカーからチャイムが響き出した。
「……これって、五時間目、終わり、の?」
 赤木先生のことは取りあえず置いておいて、隣のベッドの彼に遠慮がちに訊いた。
 彼は素気なくあたしを一瞥する。
「六時間目の終わり」
「ええっ!? もうそんな時間!?」
 あたしが声を上げたところで、彼はするっとベッドから抜け出るように降りた。
「騒がしい女だなー」
 呆れたように言いながら、あたしの方のベッドに腰掛けてきた。
 な! 何なの!?
 どきっとして、咄嗟に身体を後退させる。
 なのに、構わず彼は身を乗り出してあたしの顔を覗き込んできた。心臓が、素早く脈打ち始める。
 知らない男に、こんなシチュエーションでこんなに接近されて、どうしたらいいのか分からなくて。何故か動けない。
 目の前の顔は、やっぱり物凄く綺麗だった。
 高すぎないけれどすっと通った鼻梁。整った男っぽい眉。緩やかなラインを描く長めの前髪。シャープだけど大きなアーモンド形の瞳は少し茶色くて。吸い込まれそうで、逸らせなくて。
 すると、いきなり、あたしに向かって手が伸びてきた。
 前から伸びてきた掌は、抱きかかえるように後頭部に触れた。
「ひゃあっ! ちょ、ちょ、ちょっ……!」
 あんまりにも顔も身体も近くなって、驚いて身構える。
 けれど、逃げられない!
「痛い! 痛いってば!」
 思い切りぐりぐりと触られているところは、ボールをぶつけたところ。
「平気そうだな」
 彼は頭から手を離すと、すました偉そうな顔つきで言う。
 あたしの心臓は、ありえないくらいバクバクしてるのに!
「な、な、何! 何なの!?」
「一応、確認。オレがボールぶつけたし」
「えっ!? アンタが!?」
 声を上げた途端、ガラッと保健室のドアが開いた。
「あー、良かった。沢木さん、起きてたんだ?」
 彼女だった。沢木末央。
 ホッとしたような笑顔を浮かべて、あたしに近づいてくる。
「具合どう? 気持ち悪いとか、ない?」
「……あっ、うん。大丈夫みたい」
「良かった。ごめんね。私に話しかけてきたからこんなことになっちゃって」
 本当にすまなそうな顔をする。
「え。どうして謝るの? 沢木さんが悪いわけじゃないし」
「でも、私に話しかけなかったら、そんなことにはならなかったでしょ? せっかく、声かけてくれたのに」
「だってそれはあたしが……」
 言いかけた言葉を止めるように彼女は首を横に振る。
「でも、大丈夫そうで良かった。HR抜きでこのまま帰れるように、鞄持ってきたの。先生も了承済み」
 はい、と、人懐っこい笑顔で、あたしの鞄をベッドの上のあたしの横に置いた。
 なんだ、なんだ。すっごく感じのいい子じゃん。全然、イメージと違うじゃん。
「ありがとう」
 嬉しくなって、あたしも笑みを浮かべて彼女に言った。
 なのに、まるで馬鹿にするように、クックと堪えた笑い声がする。ほんの少しの間忘れていた存在。蜂谷蒼生。
 あたしはベッドの端に座っている彼を下から睨む。
「何で笑うの?」
「えー、だってさ、何か、くっせー友達ごっこってカンジ」
「……ごっこって! そういう言い方ないじゃん!」
 怒ってヤツに言うと、「アオ!」と、咎めるように彼女が言った。
 ――アオ?
 あたしは思わず彼女を見る。
「どうしてアオはそうなの!」
 まるでお姉さんのような口調で彼女は蜂谷蒼生に言う。『アオ』とは、彼の呼び名らしいけど……。
「大体、ちゃんと、沢木さんに謝ったの?」
「あー? 忘れてた」
「忘れてたって……! もうっ! ちゃんと謝って!」
 蜂谷蒼生は、チッ、と、舌打ちすると、面倒臭そうに立ち上がり、あたしを見降ろした。
「悪かったな」
「……え?」
「ボール」
 人差し指で頭をコンコンと差しながら、ちっとも悪くなさそうな顔であたしに言う。
 ボール……そうだ。コイツ、あたしにぶつけたって言ってたんだった。て、言うか。謝るの遅いでしょっ! しかも態度めちゃめちゃデカイし!
 そう思ったところで、ごめんね、と言ったのは、彼女だった。
「ほんっとにごめんね! このひとサッカーやってるし、すっごく痛かったでしょ?」
 彼女の方が、蜂谷蒼生よりもずっと申し訳なさそうな顔をする。
 けど、何で彼女が謝るの? あ。もしかして……。
 二人を交互に見た。付き合っているなら、彼女が謝るのも納得出来る。彼女の彼への呼び方も。考えてみたら、美男美女でお似合いの二人。……コイツの性格は置いておいて。
「今、オマエ、勘違いしただろ」
 蜂谷蒼生は、あたしに向かって盛大な溜め息を吐いた。
「……え?」
「オレたち、付き合ってねーからな」
 何で考えてること分かっちゃうの!?
 思わず眉を顰めてヤツを見ると、
「勝手に勘違いされると、メーワクなんだよ」
 ふん、と鼻を鳴らされる。
 ……初対面なのに、何か、本当にいかすかないヤツ……。
「幼馴染なの」
 そこでそう言ったのは、沢木さんだった。
 あたしは、驚いて、また彼女の方に首を向ける。
「幼馴染!?」
「そう。マンションの隣同士なの」
「ええっ!? そ、そうだったんだ!」
 うわぁ。びっくり! この二人が幼馴染なんて、思いもよらなかった。あたしと隼みたいに、どっちかが好きとかないのかぁ? ……て。余計なお世話か。
「あ、じゃあ、お弁当、一緒に食べる相手、蜂谷くんだったんだ?」
 勝手に納得しながら訊くと、彼女は首を振った。
 そしてあたしに苦笑いして見せると、作ったように明るい調子で「アオ」と、蜂谷蒼生の方を向いた。
「沢木さんのこと、家まで送っていって。今日、部活ないでしょ?」
「はあっ!? 何でオレが」
「ボールぶつけたの、アオでしょ。当然のことじゃない。沢木さんをひとりで帰らせるわけにはいかないでしょ」
 蜂谷蒼生に言う彼女に驚いた。
「ちょ、ちょっと待って!」
 だって、そんなの困るんだけど! このひとに家まで送られるなんて!
 そんなとき、保健室のドアがいきなりガラリと開いた。
 三人共、そちらに注目する。赤木先生だった。
「あら。沢木さん、起きた? 具合、どう?」
「え……? あ、えーと……大丈夫です」
「頭、まだ痛い?」
「ちょっとまだ痛いですけど……でも、大丈夫です」
「もう六時間目も終わったし、帰るならタクシー呼ぶわね」
「あ、ハイ……」
 すみません、と言ったところで、あたしと赤木先生との会話に割り込んだのは、沢木末央だった。
「赤木先生、沢木さんをひとりで帰らせるのは心配なので、蜂谷くんが送ります」
 ……え。と?
「あら、そう? 確かにその方がいいわね」
「だから、何でオレが」
「蜂谷、ちゃーんと責任持って送りなさい」
 赤木先生はにっこりと微笑んで。
 いや、いや、だから……! 勝手に話を進めないで!
「ところで蜂谷、私がいない間、変なことしなかったでしょうね?」
「してませんっ!」
 即座に否定するあたし。ようやく会話に参加。
 ……て、赤木先生、その質問って、先生の言うこと?
「するわけねーだろ、こんな色気のねぇ女に」
 ふん、と、蜂谷蒼生は鼻を鳴らす。
 な、なんか、失礼っ!
 ……て。もしかしなくても、送ってもらうことになってる!?
「ならいいけど」ふぅん、と、赤木先生は、首を竦める。「この間みたいに、保健室のベッドでヘンなことされたら堪らないからね」
 赤木先生の言葉に、あたしの身体は固まった。
 ちょっと……! ヘンなそんなヤツとどうして二人っきりにするのよ! その上一緒に帰らせようとするわけ!? 絶対イヤなんだけど!
「……スゲー顔」
 そう。多分、あたし、表情におもいきり出ちゃった。いや、出したと言ったほうが正しい。
 その変な顔のあたしの手を、言った張本人が、ぐいっと掴んだ。
「帰るぞ」
「ええっ! ちょっと待っ……!」
 強引にベッドから立たせられて、あたしは呆気に取られたまま蜂谷蒼生に手を引かれた。

 

update : 2012.02.02(11.07.29〜11.12.13)