02
彼に恋をすることは、あたしにとって息をするのと一緒だった。
誰かに教わることもなく、この世に生まれ落ちたときから出来ること――何も考えなくても、自然とあったこの感情は、息をすることと同等なくらい、あたしには当然のこと。
いつからか、なんて、訊かなくても、最初から。出逢ったときから。彼はあたしにとって、特別なひとだった。
けれど、隼があたしに対して持つ感情は、正直、よく分からない。
大切にしてくれていることは、分かる。他の女の子とは、少し違う存在だってことも。
中学時代、隼はめちゃめちゃモテるわけではないけれど、それなりに女の子にはモテた。明るくて、ムードメーカーで、友達だって多いし、柔軟で温厚な性格だし、優しい。それに、背もそれなりに高いし、顔だってそこそこカッコイイ。それでいて、サッカー部のエースだったんだもん。女の子が放ってはおかない。
なのに隼は、今迄、誰とも付き合ったことがない。同級生からも下級生からも、いくつか告白されたことをあたしも知っているけど、全て断ってた。それに、女の子とも、普通には会話はするけど、自発的に話す方でもない。
そんな風に、女の子に対して積極的じゃないけれど、あたしには男友達のように気軽に話しかけてくる。食べ物を平気で分け合ったり、ジュースの回し飲みだって平気。じゃれて身体に触れることだってある。彼にとって、そんな存在の女の子は、あたししかいない。だから、どこかでどうしても期待してしまう部分がある。
でも、それは、兄妹のように、当たり前に傍で育ってきているから、そういう感覚なだけの気もする……。『ひとりの女の子』としては、見てくれてはいないのかもしれない。
あたしが隼に告白したら。それで、駄目だったら。――今迄通りの付き合いは、きっと出来なくなる。それが怖い。だからずっと告白出来なくて。
――けど。
誘ってくれたってことは、期待、していい?
二人きりで行く花火大会は、あたしたちの関係を、少しでも変えてくれるのかな……。
*
下駄箱の扉を開けた途端、溜め息を吐いた。
「また……?」
小さく零す。
花火大会の約束をして、せっかく朝からいい気分だったのに。一気に台無し。
あたしは、その溜め息の原因を手に取った。
上履きの上にちょこんと載せてあったソレは、薄い水色の封筒。宛名も差出人の名前もないけれど、きっちりと封はされていて。これがラブレターという名のもの以外の何物でもないことは、この三ヶ月で認識した。
「サワ、おはよー」
いきなり後ろからポンと肩を叩かれ、びくりと身体が跳ねた。咄嗟に、手紙を鞄のポケットに捻じ込む。
振り返ると、クラスメートで仲の良い、倉沢ひながいた。
「お、おはよ」
「サワ、どうかしたの?」
ひなは下駄箱の扉を開けながら、あたしに首を傾げてみせる。
意外と勘が鋭いひな。あたしは何でもない素振りで、靴から上履きに履き替える。
「別に、何もないよ」
「そ? 行こー」
ひなに促され、教室に向かう。
……て、言うか。手紙、持って来ちゃったよ!
大体このご時世に、下駄箱にラブレターなんて、どうかと思う。
確かに、最初に下駄箱に入っていた手紙がラブレターだって分かったときは、古風だなって、印象良かったし、嬉しかったけど……。今迄男子と付き合ったことも告白されたこともないあたしにとって、そんな風にあたしを見てくれるひとがいたんだ、って。
――そう、最初にあたしの下駄箱に手紙があったとき。今まで、下駄箱にラブレターが入ってるなんて経験はもちろんないし、それがラブレターだなんて、これっぽっちも思わなかった。宛名だけ『沢木さま』ってあるのに差出人の名前はなくて、何だこの手紙! って、怪しくて怖いって気持ちの方が強かった。
恐る恐る封を開けたら、『放課後、テニスコート横の桜の木の下で待ってます』って――びっくりしたよ!
しかも、中の便箋にはきちんと名前が書いてあって、それが三年生のテニス部のひとだったんだもん。カッコイイって、クラスの子が言ってたから、名前も顔も知ってた。
そんなひとに呼び出されたなんて、めっちゃめちゃドキドキして、ドキドキして、これでもないってくらい緊張した一日を過ごしたんだから! だって、もし告白されたらどう答えよう、って!
放課後、桜の木の下で彼を待っていたら、あれ? って顔をされて。数分間、隣に立って沈黙。空気に耐えられなくなって、あたしから話しかけた。
……結果、手紙の相手が間違えてた、ってことが分かった。
告白されるかも、とか、何て断ろうとか、そんなことを一日中考えてドキドキした自分が物凄く馬鹿みたいで。恥ずかしかった。
その、彼の、本当の手紙の相手は。
名前の順で、あたしのひとつ前で。
下駄箱で、あたしの右隣の。
沢木 末央(さわき みお)だった。
サワキ ミレイに、サワキ ミオ。『ミ』の字まで、一緒の名前の女の子。
よりによって、その名前の似ている沢木さんが、モデルみたいな体型の物凄い美少女だって、どう? 完全に、あたしってば、引き立て役にしかならない。
あたしの名前が『末央』で、彼女の名前が『美麗』だったら良かったのに、って、入学してから何度も思った。だって、その方が、ずっとしっくりくる。
下駄箱で隣に並ぶ名前は、何だか、とってもみじめ。
皆だって、美しく麗しいという字が、あたしよりも彼女の方にぴったりだって思ってるわけでしょ?
だって、下駄箱にラブレターなんて古風な手口は、普通に考えたらないようなこと。その上、名前を間違えて他の人のところに入れちゃうなんて、更に輪をかけて有り得ないことが、入学してから三ヶ月で四回もあったんだから。今手にしているこの手紙が、自分宛てじゃないって、宛名がなくても中を見なくても、哀しいくらい分かっちゃうわけよ。
持って来てしまった手紙を返さなきゃ、とは思っていたけれど、あとでもいいか、という気持ちの方が大きかった。
あたしのクラスの一年六組は、校舎の四階にあって。わざわざ暑い中、一階の下駄箱まで行くのは、はっきり言って面倒くさい。けど、教室で直接彼女に渡すのは、さすがに抵抗があるし。どうせ、下駄箱を開けるのなんて外に行くときだから、帰りまでに戻せばいいや、って。
そんな理由で、もう昼休みになってしまった。
「サーワー、購買行くよー」
ひなと涼香(すずか)が、向こう側で手招きしてあたしを呼んでいる。
「あ、ちょっと待って!」
購買に行くついでに、手紙を彼女の下駄箱の中に戻しておこうかなと思う。
あたしは、鞄から手紙を取り出して、財布と一緒にバッグに入れた。ブランドムック本の付録で、ロゴの入ったコットン地のミニトートだ。
「お待たせ」
ごめん、と、教室のドアの前で二人に言うと、涼香はグロスでつやつやの唇を尖らせた。
「サワ、遅いー。焼きそばパン、売り切れちゃうじゃん」
「早く行こー」
ぽん、と、ひなに背中をはたかれて、あたし達は足早に教室を出る。
「あー、今日は何にしようかなぁ。やっぱ、クリームメロンパンかなぁ」
「太るけど、甘いモノやめられないんだよねー。あ、そう言えば、この間マツキヨで買ったチークめっちゃ良かったよー」
「今つけてるヤツ? あ、ホント、いーじゃん」
「うちも買おっかなぁー」
取り留めもない話で盛り上がりながら、三人で購買に向かう。
お菓子の話、メイクやオシャレの話、男子の話。会話の内容が占めるのは、大体そんなこと。
明るく奔放でマイペースなひなと、ちょっと気が強いけど姉御肌でさっぱりした性格の涼香。カラーリングした髪に、軽いメイクくらいは施すあたしたちは、地味でも派手過ぎでもない、普通の高校生。……だと思う。
購買は、渡り廊下を通った隣の校舎の一階にあって、いつもの如く混んでいた。カウンターの上に置かれたトレーの中のパンとパックジュースは、瞬く間に減っていく。カツサンド買えるかなぁ、なんて考えながら、あたしたちは、群れになっている一番後ろについた。
「……あ」
人垣の向こう側に、彼女の姿を見つけた。
――沢木 末央。
パンに群がる生徒を素通りして、長いストレートの黒髪を背中で揺らしながら颯爽と歩いていく。
凛とした横顔。――けど、どこか寂しげにも感じた。
ふと、思った。彼女は、いつも誰とお弁当を食べているのだろうと。
彼女――沢木 末央は、友達がいない。少なくとも、クラスには。他のクラスの女の子とも、一緒にいるところを見たことがないし、いつもひとりでいる。
男子にはかなりモテるけど、正直、女子には疎まれている。中学時代に、友達の彼氏を取っただの、すぐに色目を使うだの、男をとっかえひっかえしてるだの、そんな噂がいくつもあって、「あのコには近付かない方がいい」って、女子は皆言ってる。あたしも、入学当時、席がすぐ前だったけど、話したことはなくて。彼女の方から話しかけられたこともないし、休み時間になるとすぐに教室を出て行ってしまうようで、特にそういった機会もなかった。
噂のことは置いておいても、つんとしてて愛想はないし、笑わないし、自分から話さないし、同級生なんてまるで見下しているような冷めた目付きで、人を寄せ付けない。とびきり綺麗だけど、あれじゃあ、友達も出来ないでしょ、って、確かに思う。
……だけど。
「ね、あたしの分、適当に何か買っといて」
あたしは、ひなに五百円玉を押しつけた。
「え? ちょっと、サワ?」
ひなと涼香の不思議そうな声が聞こえたけれど、あたしは急いで人混みを抜け出す。そして、彼女の後姿を探した。
「あれ……?」
つい今、この辺りにいたのに、もう見当たらない。あたしは小走りで、彼女が歩いて行った方向へと向かう。
――いた!
中庭に面した渡り廊下のところに、彼女は立っていた。中庭の方をまっすぐに見ている。
風に揺らされるのは、髪と短いスカートの裾。そこからすらりと伸びたまっすぐな脚。端正な横顔は、絵になるほど、やっぱり綺麗だった。
「沢木さん」
自分と同じ名字に『さん』を付けて呼ぶのは、何だか妙だな、とも思いながら、あたしは彼女に声をかけた。
彼女はこちらに振り向く。
「沢木さん……?」
同じ名前で返されるなんて変なの、と、またしても思いつつ、あたしは彼女のすぐ傍まで近寄る。
「沢木さんが、購買を横切るのを見かけたから」
言いながら、彼女の手元を見た。握られた手からぶら下がるお弁当の袋。
「いつもひとりで食べてるの?」
「え……?」
「お弁当」
驚いた顔。あたしを見る目が少しだけ泳ぐ。
彼女が口を開きかけたところだった。
「危ない!」
そう言った誰かの声が耳に届いて。次の瞬間――頭に衝撃を受けた。
一瞬目の前が真っ白に濁ったように歪んで、膝と腕に痛みが走った。揺らぐ視界の中――目の前にサッカーボールが転がっていて、このボールが頭に当たって、倒れて膝と腕を打ったと理解する。
頭がぐらんぐらんとしていて。耳の中もわんわんと鳴っている。
痛みにぎゅっと目を瞑り歯を食いしばっていると、大丈夫? とか、そんな慌てた声が、少し遠くでいくつも重なり合うように聞こえる。
「だ、いじょう、ぶ……」
ふらふらしながらもそう言って、あたしは立ち上がろうとした――そのとき。誰かの手によって、あたしの身体がふわりと浮いた。