エピローグ
日差しが暖かい。
空は、綿菓子のような柔らかい雲が、果てしなく透明な水色の上にぽっかりと浮かんでいる。
けれどまだ冷たい風が、首筋をすうっと通り過ぎていった。
ざわざわと悪戯に、目の前の若木の枝を揺らす音が鳴る。
目の端に飛び込んだ淡いピンク色に、今しがた運ぶつもりの段ボールを手に持ったまま、思わず足を止めた。
――綻びかけた、桜の花蕾。
あの日と、同じ。
忘れられない、色。
「もう一年か……」
ぽつりと言葉が零れ、その場から桜の木を見上げた。
思い出すとどうしようもなく胸の奥が擦れるように痛んで、視界を狭めた。
「何がもう一年なんですか?」
アシスタントの由佳ちゃんが、同じようにパッキンを三つ重ねて抱えながら、あたしの横を通りざまに訊いてきた。
「禁煙」
答えながら、由佳ちゃんに並んで再度足を動かす。
「ええー?
店長、煙草吸ってたんですか?」
「うん。だけどもう、今はすっかりクリーン」
平然としてあたしに言い放った、語尾を伸ばした声を思い出す。
――『オレ、煙草吸う女嫌〜い』
そう言われたから止めたわけじゃないのに。
あの時取り上げられた煙草がきっかけで、吸わなくなったのは事実だ。
日々の忙しさに、時間の経過を忘れてしまう。
季節の花を追うことで、時間の流れの速さを思い知る。
巡り巡って、潤と出逢った時と同じ季節をまた迎えようとしていた。
あれから。
亜美さん達のウエディングの仕事を無事に一人で乗り切り、ライフスターの契約が切れたところだった。
レストランのオーナー、長谷川さんから電話があったのは。
友人二人の挙式の感動から、今後もレストランウエディングをやりたいと――それを是非、手伝ってくれないかと――。
あたしの花が、とても好評だった、と。
自分ひとりの力で、初めて掴んで、前に開けた仕事。
それはあたしにとても充実感をもたらせた。
そしてそれ以外にも、参列者や口コミをつてに、持ち込みの装花の仕事も稀に貰えるようになった。
何よりも、それは嬉しかった。
あたしの花を見て、記念となる日を任せたいと思ってくれること。
お店をやりながらのウエディングの花のプロデュースは、大変だけれどやりがいもある。
誰かの一生の記念となる日を飾れる事はとても幸福を感じるし、その人に合ったブーケやヘッドドレスを考えて作ることは楽しい。
あたしにとって、ひとつひとつの仕事が、宝物のような記憶。
だけど、潤に出逢わなかったら、やっぱりこんな風にはなっていなかった。
ライフスターの仕事があったからこそ、繋がっていったモノだから。
おかげで、お店を一人で回す事は無理があり、アシスタントを二人雇う運びとなった。
由佳ちゃんと、智恵ちゃん。二人とも良く働いてくれる。
由佳ちゃんは花屋のアルバイトの経験もあって、彼女に教わる事も多い。
智恵ちゃんは、プリザーブドフラワーが出来る。今、あたしも勉強中だ。
慎ましくも売り上げは伸びていっているし、借金も滞りなく返済も出来るし、順調と言える。
「今日、楽しみですねー」
横に並びながら、由佳ちゃんが微笑んで言った。
「うん。あたしが緊張してる」
「あははー。そーですね。
でも、なかなか出来る経験じゃないですよぉ、メイドオブオナーって。
あたし、まだ結婚式の参列って数回しかないんですけど、メイドオブオナーって、親友や友人が務めたりするもんなんですね。
確かに、全く知らない介添人さんよりも、ずっと素敵ですよね」
「うん。あたしもお願いされたときは驚いたけど。
でも、嬉しい。香織と敬太の結婚式だから」
「香織さんと敬太さんの結婚式なら、素敵だろうなー。
あの二人、お似合いですよねー。
香織さん、この間の衣装合わせ見たときなんて凄く綺麗だったしー。
敬太さんは格好良いしー。
いいなぁ、羨ましいー」
夢見心地のように、宙を見ながら由佳ちゃんが言った。
「そうだね」
――『あたしも負けないから』
固く誓って握り合った掌を思い出す。
香織は。
あの後、敬太に会いに行った。
そして、もう一度気持ちを告げたのだ。
何も言わずに中途半端に別れたままならば、もう一度、本当の自分の気持ちを知って欲しいと。
同じ駄目でも、その方がきっぱり出来ると。
暫く、二人は会わなかった。
その後、敬太から香織を迎えに行った。
夏も終わりかけた頃だ。
結婚するとの報告を聞いたのは、12月の初めだった。
白い息を切った香織が、赤く頬を染めながら満面の笑みを浮かべて、店のドアを勢いよく開けて駆け込んできたんだ。
「店長!」
いきなり、目の前のドアが、あの時と同じように勢いよく開いた。
素っ頓狂な声を上げて、ドアを開いてくれたのは、智恵ちゃんだった。
20歳になったばかりの智恵ちゃんは、童顔でちょっとぽっちゃり。笑うと口の両端にえくぼが出来て、とても可愛らしい。
あたしはパッキンを抱えたまま、その場で足を止めた。
「どうしたの?」
「差出人のない手紙があって、気味悪いんですー!!
宛名が店長宛てなんですけど……、名字はなくて、ただ『葵さま』って……。
宛先も書いてないし、切手も貼ってなくて!
何だか怖くないですか? 字もキタナイし……」
如何にも気味が悪そうに、智恵ちゃんは封筒の端を摘まんで顔の前で揺らして見せた。
由佳ちゃんは、その手紙に顔を近づけて、眉を顰めた。
「うわ。ホント! 『葵さま』って……。何か、怖っ……!」
ウエディングの仕事をやりだしてから、お客様から、お礼を兼ねた手紙を貰うようになった。
だけど確かに、こんな風に直接店の郵便受けに投函してあることは初めてだ。
しかも、差出人が書いていないなんて……。
あたしは取りあえず店内に入り、持っていたパッキンを床に置いた。
「貸して?」
……誰だろう?
受け取って、表裏を見渡した。
言われた通り、表に『葵さま』と、乱雑なボールペン字で書いてあるだけだ。
封筒も普通の細長い薄手の茶封筒で、特別なものは感じない。
「やー!」
まるで、カミソリでも出てきそうな高い声を上げている智恵ちゃんと由佳ちゃんの前で、封筒の封を破って難なく開いた。
中から出てきたのは、カミソリでも手紙でもないモノだった。
手に取って見たモノに、思わず、笑みが零れる。
そんなあたしに二人は不思議そうな顔をして、手の中の薄く細長い紙を覗き込んだ。
「あ! 舞台のチケット!」
『花霞』
4月26日 18:00開演
新東京ホール
「ホントだ。『花霞』って、あたしも知ってますよ。
主演の中川 彰って、凄い演技が上手くて。何でも、オーディションで受かったらしいですよ。
あ、でも、店長は知らないですよね?」
「いいなぁ。演劇チケットって高いしー。
あたしも噂の中川 彰観てみたーい!
だけどコレ、名前なくて誰が送ってきたか、店長分かるんですか?」
急に興奮した様子に変わった二人に、あたしは答えた。
「うん。分かるよ」
彰くんは。
あの日、矢沢カンナとのドラマ共演の条件を手に入れた筈なのに。
結局、彼女との共演を見る事はなかった。
それは、彼自身が断ったのか、それとも会社側のただの口約束にすぎなかったのかは分からない。
だけど、こうして今、彼は自分自身の力で役を掴み取ったのだ。
それをこのチケットが証明している。
あのときのあたしの言葉を、のし付けて返すとでも言われたようだ。
「えー。誰ですか? チケット送ってきてくれるなんてー。
あ、差出人名ないくらい親しい間柄っ?
いつの間にか彼氏出来たんですかっ?」
つい今迄、気味悪いと言っていたことを露ほども感じさせない口振りで訊いてくる由佳ちゃんに、クスクスと笑いが漏れる。
「トモダチ、だよ」