花が開いたブルゴーニュ。中心からふんわりと花びらが広がり、蓮のような華麗さを持つ。一枚一枚が繊細で、触れると壊れてしまいそうなほどデリケートにも見える美しいバラだ。
無数の糸状の細くふわふわとした花で実のような蕾を包んだバーゼリアは、柔らかい質感を醸し出す。
まんまるの愛らしい形のピンポンマム。
ウサギのしっぽのようなラグラス。
柔らかい綿毛で覆われたレースを思わせる、シルバーの葉のダスティーミラー。
それにミスカンサスで、動きを出す。
出来上がったラウンドブーケは香織に似合う、とても可愛らしく優しい雰囲気だ。
何度も本人と相談して、ドレスに合わせて花の種類にもこだわった。
お色直し用のブーケはガラリと雰囲気を変え、大人の女性を思わせる、黒蝶という名のボルドーのダリア。
シンプルに一種類の花だけを使ったそのブーケに合わせた、ヘッドドレスにアームレッド。
装花は、『香織』の名前に因んで、香り豊かな花を選んだ。
会場の雰囲気や空気を、淡く優しく包み、染め上げる花びらたち。
微妙な濃淡を変えた、美しい白。
思い出は、目に映るものだけじゃない。
触れた感触や、香りも――五感が感じ取ってくれた全てが、色褪せることなく心に残って消えないでいて欲しい。
「えっ、嘘っ!? コレ着るの!?」
会場で今の今迄、装花をやっていたあたしは、小綺麗とは言えない作業着を着たまま、メイドオブオナー用に香織が用意してくれたドレスの目の前で、裏返った声を上げた。
身体にフィットした美しいプリンセスラインのトップは、肩と襟首を大胆にデコルテし、レースに刺繍、パールがあしらわれている。
スカートはミディレングスで、アシンメトリーなシフォンのフリルを幾重にもボリュームをつけてある。
だって、もっとずっとシンプルなものだと思っていたし。
メイドオブオナーって、ロングドレスを合わせるのが一般的だと思うし。
あまりにも華麗な純白のドレスに戸惑いを覚える。
「葵ちゃんに似合うと思ったんだ」
長く繊細なトレーンを引いたウエディングドレスを既に纏った香織は、ヘアメイクさんにピンクのチークを頬に乗せられながら、鏡越しにあたしに向かって微笑んだ。
メイクももう、仕上げにかかっている。
大人っぽく夜会巻きにしたヘアの天辺では、小さなクリスタルを連ねたクラウンが光を受けてきらめいた。
そのクラウンにもドレスにも引けを取ることなく、香織自身が輝いている。
「似合うって……。
だって、コレ、そういうのやるには華やか過ぎない?」
「花嫁様が用意するものですし、似合うっておっしゃってるからいいんじゃないですか?
私もお似合いだと思いますよ」
困惑気味なあたしへと、香織が答えるよりも前に、ニコニコしながらアテンドさんが言う。
そして背中を軽く押され、横長の大きな鏡の前にある香織の隣の椅子に、座るようにと促される。
「そーなんですか……」
そういうもんなのかなぁ……。
だけど、これじゃあ目立ち過ぎる気が……。
まぁ、あたしがいくら頑張っても、香織の綺麗さにには敵わないけど……。
何だか、不思議だった。
香織の横で、自分も変わっていく様を見るのは。
鏡の中のあたしは、少しずつ、いつもと違う姿を現していく。
幸せになるのはあたしじゃなくて、香織で。
今、この世で一番綺麗になるのも香織なのに。
自分まで綺麗になっていくのは、現実味のない映像でも見ているようだ。
結婚する、って。どんな気分なんだろう。
好きな人と、人生を共に歩むことを神様の前で誓い合う。
この先、ずっとずっと、二人で――。
ヘアメイクも着替えも終わり準備が整って、香織を控え室に残したまま廊下に出ると、待ちくたびれたのか、それとも緊張しているのか、妙に落ち着かない様子の敬太にばったりと会った。
「馬子にも衣装」
敬太の第一声はそれだった。
驚いたような、感心したような。そんな顔つきだ。
「自分だって」
眉を吊り上げて、軽く睨んでやった。
あーでも。
こうして見ると、敬太って結構イイ男だな。
背も高いし、肩幅もあって男っぽいし。顔だって整ってる。
小学生の時も中学生の時も、確かに結構モテたよな。
営業職という職業柄のせいで、スーツ姿は見慣れているけれど、目の前で黒のタキシードを着こなした敬太は、何だかいつもとは違って見えた。
「嘘。やっぱカッコイイよ。
タキシード、似合ってる」
ポン、と胸を拳で叩いて、曲がったブートニアを真っ直ぐに直してあげた。
ほんの数時間前にあたしが作ったモノ。
香織のブーケとお揃いで、白いバラはブルゴーニュ。それにバーゼリア、ダスティミラー。
敬太は面喰った顔をして、もう一度息を止めたようにあたしを見てから、くしゃりと顔を崩した。
「ばーっか。オマエもな。
あ。や。まぁ、オマエよりも香織のが絶対綺麗だけど」
「それはそれで微妙な言い方なんですけど……」
アハハ、と。顔を見合わせて笑った。
敬太との距離は、昔と変わりない状態で続いてくれている。
「敬太」
「ん?」
「香織を泣かせたら、許さないよ」
「泣かせる気なら、結婚なんてするかっつの」
「うん」
「葵」
「ん?」
「俺――葵への気持ちは、本当だったよ」
「………」
「だからこそ、自分の気持ちにきちんとケリがついた後、香織に100%向かえたし、自分にとっての存在の大きさを確認出来たんだと思ってる」
崩した筈の顔は、真摯なものに変わっていて。
曇りのない瞳で、あたしを見た。
「神様よりも前に、誓うよ、葵に」
「―――」
「香織を、幸せにする」
「うん」
何て幸せな笑顔をするんだろう。
揺るぎない力強さを併せ持って。
幸せに――なって欲しい。
誰よりもこの二人には。
あたしの大切な友達。
チャペルの扉が開くと、バージンロードの向こう側に、天井まで連なる大きなステンドグラスとガラスで出来た背の高いクロスを背景にして、神父と敬太が立っていた。
ずらりと並ぶ参列者が座るベンチの端には、あたしと由佳ちゃんで飾り付けたカサブランカの花が香りを放ち、そこから微かに鼻腔を擽ってくる。
入場して席に着くと、パイプオルガンがウエディングマーチを奏で出した。
開かれた扉から、香織の凛とした花嫁姿が目に入ってくる。
――眩しい。
陽光の中、たおやかでいて華やいだ大輪のゆりの花が咲いたみたいだ。
敬太へと香織を引き渡す香織のお父さんが、緊張しているのが手に取るように分かる。
敬太の横に並んだ香織を見て――ああ、二人は結婚するんだ、って、物凄く実感が湧いた。
誓いの言葉も。リング交換も。キスも。
今、世界は二人のためにあるように思える程、幸せそうで。
おばちゃんもおじちゃんも、同じように幸せそうで。
あたしも――幸せな気分になった。
キスの後、預かっていたグローブとブーケを、香織に手渡すのに近づいた。
香織の瞳には薄っすらと、涙が浮かんでいて。
その顔が、柔らかくあたしに向かって微笑んだ。
胸が、ぎゅっとする。
こんな風に、二人の新しいスタートに立ち会えて見られるのは、本当に本当に、ただ嬉しい。
あたしも泣きそうな気持ちを堪えて微笑み返し、つい今、敬太がリングを入れた指に、ゆっくりとグローブを嵌めてあげる。
リングは丸く、どこまでも終わりがない愛を表す。
そんな敬太の愛の詰まった指輪がグローブによって隠されると、香織はそっとあたしの耳に顔を近づけた。
「葵ちゃんは、退場しないでココに残って」
耳元で、そう告げられる。
――え?
一瞬、言われた意味を考える。
ブーケを返した後、神父が結婚成立宣言をして、メイドオブオナーは新郎新婦よりも先に退場する予定なのだ。
驚いたまま香織の顔を見つめると、またその顔が瞳を細め優しく微笑んだ。
涙は、もう滲んでいない。ただ、優美な笑顔。
「葵ちゃんに、プレゼントがあるの」
香織は戸惑ったままのあたしから、ブーケに手を伸ばしてきた。
あたしの役目で仕事なのに!
何やってんの!
慌ててブーケを手渡す。
香織は受け取ると敬太の手を取って、ゆっくりと正面へと向き直った。
敬太はあたしの方を見て、香織と同じように優しく微笑む。
訳が分からないままあたしも微笑み返し、自分の立ち位置に戻った。
だけど、プレゼント? ――って。
一体、何!?
神父の落ち着いた声が、チャペル内に響く。
悩んでいる間にもまたパイプオルガンから音楽が流れ出し、二人は参列客からの祝福と拍手を受けながら、チャペルを後にした。
すると、いつの間にか近づいていたアテンドさんが、あたしの手を取った。
「このままこちらに残って下さいね」
「……は、い……」
そう答えながら頭の片隅で、ブーケトスにはやっぱり参加できないのかな、なんて考える。
あれよあれよと、参列者もチャペルから退場していく。
すぐに皆いなくなった。
「今、新郎新婦様からのプレゼントを持ってきますね」
アテンドさんはそう言い、彼女もすぐに消えてしまった。
あたし一人だけ、取り残された気分になる。
大きな両開きの扉の向こう側から、わあっと、歓声が聞こえてきた。
きっと……フラワーシャワーだ……。
それにその後はすぐに、ブーケトスがある。
……欲しかったな、ブーケ。
自分で作ったものだけど……
だけど……。
だけど……。
キャンドルよりもずっと高い位置に掲げられた十字架を見上げた。
ガラスで出来たその十字架は、オレンジ色の柔らかな照明と、ステンドグラス越しに差しこむ日差しに彩られ、厳かにそこに佇んでいる。
あたしはきらきらとガラスから放たれる光を、見つめた。
信じるって、あの日決めた筈だし。
信じられるって、そう思っていたし。
それは揺るぎ無いものだったのに。
あの日から、会わなくても。
電話もメールさえなくても平気だったのに。
何で――。
また、遠くで大きな歓声が聞こえた。
目の奥が、熱く痺れ始める。
急に込み上げてきたモノは抑える事も出来ず、膨らんで弾けた。
今にも漏れそうな嗚咽を抑え込むように、震える手を口元に当て下を向く。
とんがった白いパンプスの足先も、踏みしめている濃い色をした木の床も滲み、涙がそこに零れ落ちていく。
ぱたぱたと音を立て、次々に。
立っていることも出来なくて、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
永遠の愛を誓い合った二人を、間近で見てしまったせいだろうか。
新しい人生を踏み出した親友が、あたしから離れていってしまうような気がするせいだろうか。
自分にいつ訪れてくれるか分からない――先がはっきりとは見えない約束を待つことがこんなに苦しくなるなんて。
ケジメをつけるまで会わない――って。
それは、よく分かってるの。
だけど、会いたい。
会いたいよ――潤。
ギイッと、古びて軋んだドアの開く音がした。
アテンドさんが戻ってきたのだろうか。
だけど、涙を拭う気にも、立ち上がる気にもなれなかった。
そんな気力も尽きてしまったように身体が動かない。
それなのに、零れ落ちていく涙は止まらないでいる。
こんな日にこんな風に泣いているなんて、どうかしてると思われるだろう。
声を掛けられずにいるのか、様子を窺っているのか、沈黙が続く。
外のざわざわとした声だけは聞こえてきて、それが徐々に小さくなり始める。
「何で泣いてんの?」
耳に入り込んだ声に、一瞬、時間が止まった気がした。
次々に床に濡れた跡をつける涙も、そこでぴたりと終止符を打ったように途絶えた。
濡れた目元を拭わないまま、ゆっくりと顔を上げる。
そして、声の主の方へと、歪んだ焦点を合わせる。
――嘘。
これは夢?
それとも、あたしが作り出した幻?
「葵」
優しく奏でるように耳を通り過ぎる、あたしの名を呼ぶその声――。
「な、ん……?」
上手く声が出せなくて、語尾が掠れた。
もう一度息を吸い込み、喉から押し出す。
「……何で?」
カツカツと、木の床に高い足音が作り出され、それが近づく。
「敬太と香織ちゃんとは、連絡取ってたんだ」
何、それ――?
敬太と香織と?
「だって……っ! あたしには一度も――」
「約束だったし。
葵と連絡なんて取ったら、声聞いたら――会いたくて仕方なくなる。
中途半端なんて、もう嫌だった」
ピタリと。あたしの前で艶のある黒い革靴が止まる。
「ちゃんと、ケジメつけてきた。
帰れって言われても、もう戻る場所なんてない」
「――っ!」
「ただいま」
大きな手が差し伸べられる。
あの笑顔と一緒に。
「潤っ」
叫ぶように声を上げながら、手を取った。
彼が引き寄せるのと、あたしが飛び込むのは同時だった。
――温かい。
力強い腕。
広い胸に、顔を埋めた。
潤の、匂いがする。
触れた部分の熱も、髪にかかる息も、聞こえてくる鼓動も、抱き締めた身体の厚みも。
全部が潤のものだと無言で知らせてくれる。
嘘じゃない。
幻でもない。
今――潤がいる。
あたしのこの腕の中に。
「会いた――かった」
身体に回した腕に、ぎゅっと力をこめる。
「オレも。ずっと」
切なげな声を発した潤の唇が、その先の会話を閉じ込めるように落ちてきた。
合わされた温もり。
息を吐く事も忘れて、それを感じた。
お互いに。
言葉よりもずっと深く、潤の気持ちが伝わってくる。
あたしも伝えられるように、そして潤の気持ちを受け取るように、必死で唇を合わせた。
冷えた手が、熱を持った頬に触れてくる。
それさえも心地良くて、肌に吸いつくようだ。
「……んっ」
上手く息が出来なくて、甘い声が漏れる。
それを察したように少し浮いた潤の唇が、横に、と、ずれた。
滑らかな舌と唇が、頬に、鼻先に、瞼に、額に、落ちてくる。
優しい、優しい、キス。
ゆっくりと瞼を開いた。
目の前にはとろけるような笑顔がある。
「化粧、ボロボロ……」
そんな笑顔が、その言葉と一緒に破顔する。
「――!
だって――。
潤に会いたくなって、泣いてたんだよ!」
ああ、でも。
確かに、きっとスッゴイ顔だ!
間近でククッと笑う潤。
恥ずかしい。
せっかくの再会がこんな顔で。
だけど、笑うことないのに!
「もう! 見ないで!」
怒ってそっぽを向く。
だけどすぐに強引に顔を掴まれ元に戻される。
頬を持った手から、ふわり、と、甘い香りがした。
――甘い、甘い香り。
「カワイイ」
「――な……っ!」
反論の言葉も半分に、甘い香りの元が頭の上に載せられた。
ホワイトスターとジャスミンで出来た、花冠。
「このまま、ココ、予約とってある」
言葉が詰まったまま、潤を見上げる。
もう、からかった顔なんかじゃない。
真剣で真っ直ぐな瞳があたしを射貫いてくる。
潤の濃い茶色の瞳に、あたしが滲んだように映る。
「オレと、本当の家族になって」
黒のスーツ姿の潤から、手に持っていたもうひとつのモノが目の前に差し出される。
――ホワイトスターのラウンドブーケ
あの日と同じ。
潤が、最後に残していったブーケと。
信じ合う心
幸福な愛
身を切る想い
あたしが欲しいモノ、全部の意味が詰まってる。
「――馬鹿……」
「え?」
「あたしが、うん、って言わなかったらどーする気だったのよ……」
潤は、きょとんとした顔を見せる。
「yesの返事貰うことしか、考えてきてねーもん」
考える素振りも見せずに、潤はあっけらかんと答えた。
「超自意識過剰……」
ずっと黙って待ってたんだから。
ちょっとくらい意地悪言ってやる。
でも本当は、死ぬほど嬉しい!
「言うかな、それ……」
潤は拗ねたように、ほんの少し唇を尖らせた。
可愛い。
思わず、笑ってしまう。
「笑うな、っつの!」
きゅっと、頬を抓られる。
や。痛いんだけど!
だけど、痛いのがやっぱり嬉しい!
だって、夢なんかじゃないんだもん!
いつまでも笑いが止まらないあたしに、潤は不思議な顔をしてパッと手を離すと、同じように笑い出した。
「変なの!」
そう言った潤の顔は、とても楽しそうだった。
気取った笑顔よりも、この顔の方が好き。
あたしだけに見せてくれる、素顔の潤の顔。
これから先、ずっと。
あたしの横で笑っていてね。
眩しい午後の陽が、ステンドグラスから色を付けて差し込み、ガラスのクロスが煌めいて、光の粒が宙を舞う。
まるで、きらきらと瞬く小さな星が、あたしたちに降り注いでいるようだ。
その繊細な輝きを、目を細めて見上げた。
神様に、小さな星に、誓おう。
あたしたちの、未来を。
永遠に。
「yesだよ」
そう言って、ホワイトスターを抱きしめながら、もう一度あたしは潤の手を取った。
何よりも輝く、大きな星を。
――今、手に。
END