47
お尻から倒れ込むように硬いベンチに降りると、ぐらぐらと全体が揺れた。
それでも潤はすかさず、内側からドアを閉める。
係員が、こんな強引な客にも運転を止めずにいてくれたことが、救いだった。
小さな丸い箱が宙に浮いた感覚がすると、切れた息を整える事も忘れて窓の外を見下ろす。
少しずつ、上がっていくのがもどかしくて仕方がない。
怖くて握り拳に力を込めた。
社長が係員に何か言っているのが見える。
その少し後にマネージャーと矢沢カンナが到着し、周りの人垣はどんどん大きくなり始める。
あまりの反響の凄さに、ごくりと喉が鳴った。
あたしには未知数の、世界。
『ジュン』だと分かった途端、こんなに人が集まるなんて。
観覧車は上がり始めたばかりだけど、今運転を止められても、下りられない場所まではきている。
一気に身体の力が抜けて、大きく息を吐き出した。
潤も、向かい側で同じように大きな安堵の息を吐き、額の汗を甲で拭った。
多少の落ち着きを取り戻すと、観覧車内にアナウンスが流れていることに気が付く。
妙に明るい音楽と高い女の人の声が、機械的にそこに流れる。
――15分。
観覧車が一周する時間は、たったそれだけ。
その間に、話をしなくちゃならないのに。
潤は何から話していいのか分からないようだった。
あたしも――訊きたいことは沢山あるのに。
言葉が、出てこない。
宝石をちりばめたような街の灯りが、無数に浮き、輝いている。
ランドマーク、インターコンチネンタル、マリンタワー、氷川丸、ベイブリッジ……向こうに見えるのは、東京タワーだ。
街が眠らないことを主張するように、煌めく灯りたちが、黒い海もぼんやりと黄色く染め上げる。
悲しいくらい美しい夜景が、ただ目の中に入り込む。
真っ暗な窓ガラスにも反射して映り込んでいて。
言葉を出せないまま、見ているしか出来ない。
「葵、大丈夫か……?」
潤が、口火を切った。
あたしは、ガラスから潤の方へと視線を戻した。
そして、真っ直ぐに見る。
潤も、切なげに瞳が揺らしながら、あたしを見つめている。
「……うん。平気」
答えると、潤は少し視線を落とし、そしてまたあたしを見た。
「知って、たんだ……?」
「……え?」
「葵、オレのこと。知ってたんだな……」
詰問されているようで、胸が軋んだ。
「ゴメン……」
「いつから……?」
知らない振りをしていた罪悪感と、彰くんから聞いた事を言っていいのか悩んで、すぐには答えられず、一度固唾を飲み込む。
渇いた喉に、絡んだようにそれが通り過ぎたのを感じた。
「園長の、手術の日に……」
最後まで言う前に、潤が「そうか」と言葉を切った。
「やっぱり、彰か……」
あたしは頷くしかなかった。
「あの日、アイツが持ってきた花……葵のじゃないかな、って思ったんだ。
わざと……葵に会いに行ったんだな。
アイツと葵を、会わせたくなかった。
色々、嫌な思いさせて、ゴメン……。
オレ、結局、葵に迷惑しか掛けられなかった……」
「な、んで……」
何で、迷惑しかなんて、そんな事言うの?
「迷惑なんて、一度も思った事ない。
あたしは――……」
「あたしは……」と、繰り返して、言葉が絡まる。
急に内側か何かがせり上がって、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
潤は苦しそうに少し目を細め、あたしを見つめる。
そして、腰を上げるとふっと手を伸ばしてきて、あたしの涙を指先で拭った。
「分かってた。このままじゃいけないことも。
それでも、葵の傍にいたくて。少しでも長くいたくて。
ずるずると、先延ばしにしてたんだ……」
触れていた指先が離れた。
そこには濡れた冷たい感触が残る。
「芸能界には、樹さんの紹介で入った。
元々、やりたかったワケでもなくて。ただ、金のためだった。
それだけだったんだ。
最初はモデルをやってて……売れ始めて、俳優の仕事が来始めた。
本当は、やるつもりもなかったし、やりたいとも思わなかった。
だけど、莫大な契約金を払うからって、事務所移籍の話がきたんだ。
一緒に、その頃、園の経営が芳しくなかった事実を突き付けられた」
園長や鮫島さんから訊いて知っていたけれど、あたしは黙って頷いた。
「オレはそれを受けた。
移籍後は、事務所の言いなりだった。
普段も事務所のイメージに合わされた役を演じさせられて。
自分の自由になんてさせてもらえなかった。
とにかく忙しかった。自分が売れてるって、そういう自覚もあった。
睡眠時間なんてあってないようなモンだったし。金は与えられても、使う暇だってないくらいだった」
自嘲気味に口角がほんの少し上がった。
「そうしてさ、プライベートなんてあったもんじゃなくて。
事務所以外の誰かと一緒のときは、俳優の『ジュン』を演じて。仕事ではまた違った役を演じる。
オレ、施設で育ってんじゃん?
どうやったら人に気に入られて、どうやったら上手くやっていけるかって、そういう生きる術が身に沁み込んでたんだよ。
本当の自分じゃなくて、『誰にでも当たり障りなく気に入られるジュン』って仮面を被ったオレ。
色々悩み始めた。これまでも散々悩んだけど。
段々、自分でも分かんなくなってきた。自分がどんな性格でどんな人間なのか。
分かんなくなったんだ……」
潤は視線を少し泳がせてから、緊張を緩めるように固唾を飲んだ。
喉が動いて唇を一度きゅっと結んだのを、あたしは黙ったまま見ていた。
胸が詰まってしまった。
本当の自分が分からなくなるなんて。
普通の生活をしていれば、そんなこと到底考えられない。
生きていくために、強いられるように自然と身に付いた術。
抜け出せず、誰かの手によって作り上げられた顔。
ずっとそんな風に生きてきたなんて……。
考えると、心臓が押し潰されそうに苦しい。
「仕事も、辞めたいと思うようになった。
その件に関しては、何度も話し合った。
でもさ、訊き入れてくれねーんだよ。オレの人権なんて無いも同然。
仕事のスケジュールは、1年先までびっしり埋まってる。休む暇なんてない。ゆっくり考える時間も。
そんな時さ、映画の仕事で一緒になったカンナ――さっきいた、女の子。
今、売れてる『矢沢カンナ』っていう女優なんだけど……」
窺うような目をした潤に、あたしは、知ってる、という意味で「うん」と小さく頷いた。
「彼女とは、一緒に仕事をして話すようになった。
あれで結構しっかりしてて。女優は自分の小さな頃からの夢だって言ってた」
あたしもよく覚えている。
目の醒めるような意志の強い瞳で、彼女がそう言ったこと。
忘れられない。
「彼女との、ゴシップ記事が流れた。オレと付き合ってるってね。
別に、そんな事は気にしてなかった。ただ――まぁ、記者に色々言われて追っかけられるくらいで。
カンナも迷惑なんだろうなとは思ってた。だけど、それは違った」
「違った、って――?」
訊きながら、息を飲んだ。
矢沢カンナは、彼女じゃない……?
事務所公認っていうのは……?
「アイツは、否定しなかった。
それどころか、事務所も、映画関係者も、皆こぞって噂を否定しない。
映画の興行成績を上げるために、オレとカンナは付き合ってることにしといた方がいいって、さ。
本人――カンナ自身がほのめかして、事を余計に大きくした」
眉間に皺が作られ、厳しい表情になる。
だけど、さっきから苦しそうに見えるのは、変わらない。
「何もかも、信じられなかった。信じかけていたものも、簡単に崩れた。
だけど偽っているのは、自分も同じだった。
ずっと誰も信じないで、自分を作り上げて誰にでもいい顔をして。
自分自身がどこに立っているのかもあやふやで、吐き気がした」
息を大きく吸った。
あまりにも苦しくて。
重くてそれでいて鋭利なモノを、ぎゅうぎゅうに詰め込んだみたいに、胸が痛くて重たい。
零れ落ち続ける涙も拭う余裕すらなくて、ただ潤の話を聞いていた。
潤は「演技してるとさ」と、続ける。
「別の人格になった気がするんだ。
終わって、はっと自分が戻った瞬間、すっと、熱が冷めたみたいに冷静になるんだ。そんな感覚が怖かった。
じっと手を見つめて、静かに考え直す……オレって、本当はどんなヤツだっけ? って――……。
自分の中の、限界が近づいている気がして仕方なかった。
事務所は、何も訊き入れてはくれなかった。
それが、何でかようやく、一ヶ月の休暇をくれると言い出したんだ。
だけど、それで一人になれると思ったら大間違いだった。
休暇なんて仕事がないだけ。ずっと誰かが一緒にいて、プライベートなんてあったもんじゃない。
あの日も――葵と会った日も」
「あたしと会った日……?」
「とにかく、あそこから、逃げ出したかった。
前日の夜中から、マネージャーにドライブに行こうって言って……ぐるぐると連れ回した。
朝方、もう向こうも疲れて眠くなってさ。それで隙を見て、逃げたんだ」
潤は、瞼をぎゅっと閉じて天井を仰ぐようにして、ゆっくりと息を吐き出してから言った。
「幼稚――だろ? 逃げ出すなんて。
笑っちゃうだろ? 軽蔑――するよな?」
苦しみに紛れて自嘲する潤に、あたしは首を振った。
「そんなこと、ない」
「そーゆーの、葵が―― 一番嫌いな事だろうな。
仕事を放って逃げ出すなんて」
あたしはもう一度、首を振った。
「潤は、追い詰められてた――」
今度は、潤が首を振った。
「彰の言う通りなんだよ。オレは中途半端なんだ。
やりたいわけじゃない。それを理由にしてたんだ。
自分で選んだ道なのに」
自分で選んだ道――……
選ばなくちゃ、ならなかった道――。
「潤」
呼んだ名前は、微かに震えていた。
「あ――あたしは――……あたしだって、花屋の仕事、やりたかったわけじゃないの。
あたしじゃなくて、両親の夢で――二人が亡くなって、ただ、それを潰したくない、それだけだった。
やりたかったわけじゃないの。楽しかったわけでも――。
義務感で、そうしていただけ……」
潤は僅かに瞳を大きくさせて、あたしを見た。
「一人で何もかも背負う事は、とても重くて辛かった。
好きだって思える余裕なんてなくて。ただ、必死で。
心から仕事の楽しさを味わうことなんて、出来なかったし分からなかった。
楽しいって思えたのは――潤が来てからだよ。
今、頑張ろうって思う気持ちも、やりたいっていう気持ちも、きっと、潤に出逢わなければ感じなかった」
「………」
「でも、今は……
どんなに大変で、見通しがなくなっても、今は――やりたいと思う」
あたしは潤の目を見て、ハッキリと言った。
潤は。
まるで、懺悔するように、あたしに話した。
どれだけ辛くても、もう戻る道を決めている。
だから。
それを迷わせるようなことを、あたしは言ってはいけない。
背中を押してあげなきゃ。
振り向かず、前だけを向けるように。
膝の上の掌をぎゅっと握った。
「潤は――それでも、もう決めてるんでしょう……?」
潤の目が、再び見開かれる。
あたしは微かに笑ってみせた。
「あたし、観たよ」
「え?」
「映画の試写会に、行ったの」
「………」
「あんまり凄くて、驚いちゃった」
潤は黙ったままだ。
「誰よりも、惹き込まれて。
誰よりも、光ってた。
素人で、何も知らないあたしだって感じたよ。
努力だけじゃ培えない、天性のものなんだなって。潤の、才能。
沢山の人に見てもらいたい――その道を進んで欲しいと思った。
もっともっと、前に」
どうにも止められない程、苦しさは加速していたけれど、それでもあたしはもう一度唇の端を引き上げた。
「じゃあ、何で……」
潤が呟くように言った。
「何で、そんな風に泣くんだよ……」
その言葉に、ハッとして頬に手を当てた。
懸命に堪えていたものは、ゆるゆると溢れ出し始めていて、慌ててそれを拭った。
空間を置いて向かいに座っていた潤が、身を乗り出した。
濃い影に覆われたと思うと、それはもう、彼の腕の中で。
勢い余って倒れ込むように、あたしはゴンドラのガラスの壁に身体と頭が着き、小さな箱がぐらりと大きく揺れた。
揺れたのと唇が重なったのは、同時だった。
その瞬間には――どこかが、弾け飛んだ。
それに応えないなんて、あたしには出来なかった。
不自然な体勢のまま、目の前に突き付けられた温かさを弄って、ただ貪欲に唇を求めた。
熱くなった身体の熱を確かめ合うように、唇と吐息でお互いを感じる。
何度も、何度も、深く。
身体の奥からとめどなく大きなモノが押し上げてきた。
自分ではどうしようもないくらい大きく、熱く、甘い熱が。
強引で乱暴で。だけど優しい腕。
あたしはそこに、しがみついた。
離れたく、ない。
離れたく――ない。
好きなのに。
好きなのに。
こんなにも、好きなのに――。
ゆっくりと、唇が、離れた。
痺れる瞼を、そっと押し上げた。
「……葵」
熱がこもった声。
真っ直ぐに射貫く瞳。
「好きだからな」
「あたしもだよ……」
「だからオレはケジメをつけたい」
「……うん」
「ちゃんと、ケジメをつけたら、葵のところに戻ってきたい」
「……え?」
戻って……きたい?
思いもよらぬ言葉に、一瞬、思考が止まる。
「葵と会って、オレ、初めて自分って存在を認められた。
オレ自身がそこにいて、自分を感じられたんだ」
「潤……」
「葵が――『ルール違反』って言ったろ?
オレがそういう感情持ってるのが迷惑で、一緒にいられなくなるなら、家族でいい。見守ろうって、それでもいいって――。
でも、今。葵も、オレと同じ気持ちだろ?」
「――っ」
「才能? そんなモノいらない。
オレが今、この手に欲しいのは――違うモノだって。もう分かってんだろ?
オレが欲しいのは、守りたいのは、たったひとつ、葵だけだよ」
見つめた潤の瞳には、青い光が映り込んでいた。
観覧車から放つイルミネーションが、青い星のように。
潤の瞳に。強く。
……いいの?
帰ってきて、って。
あたしのところに、帰ってきて、って言っていいの……?
「ちゃんとしたいから――ケジメをつけたいから。
だからその間は、葵には会わない。
ちゃんとしてからじゃないと、会えない」
「―――」
「オレは、ずっと、変わんねーから」
「………」
「葵が好きで、一番大切だって気持ち」
胸を、甘く締め付ける。
「あたしも、変わらない」
――どうして自分よりも大切だと想える誰かに出逢うのだろう。
一緒にいて、支え合うだけが、愛じゃない。
お互いが立つ場所を見守ることも――それも愛なんだ。
それは、潤が教えてくれた。
だから、あたしは大丈夫。
「待ってる」
強い気持ちで、そう言った。
小さく頷いた潤は、ゆっくりと、あたしから身体を離していく。
背中に回されていた腕も、するすると解かれる。
中腰だった潤の身体は、狭いベンチのあたしの横へと腰を下ろした。
黙ったまま指を絡め、身体を寄せた。
そして、お互いに目の前に広がる横浜の光の粒を見つめた。
そうしている間にも、どんどんと高度は下がっていく。
それなのに、激しく胸を上下していた心臓は、嘘のように落ち着きを取り戻し始めていた。
プラットフォームは、今や収拾がつかない程の人が集まり、騒然としている。
あの人の波の中に、潤は消えるのだ。
だけど、この二ヶ月が、泡のように消えるわけではない。
全てが、強く刻み込まれている。
今、繋がる掌の熱も。
「葵」
潤は、触れている反対の手で、自分のデニムのポケットをまさぐった。
そしてあたしの手の中に、それを両手で包み込むように握らせた。
「宿題」
「え?」
そう言う潤の笑顔から、掌へと視線を移し、開く。
――店の、鍵……?
――宿題?
「何、それ……?」
「ちゃんと、意味調べといて」
――意味?
「潤!」と、叫ぶような声が聞こえた。
ハッ、と、下を見ると、人だかりはすぐだった。
もうあと数秒でプラットフォームに着いてしまう。
逸らした視線を引き戻すように、潤はあたしの額にキスをしてきた。
そして、鍵を乗せた掌をもう一度握らせて言った。
「ありがとう」
優しい、そして吹っ切れたような柔らかな微笑みだった。
あたしも。
最後はきちんと笑って別れたい。
思い出す顔が、いつも笑顔であって欲しい。
潤のポケットの中で温まった鍵を、きゅっと力強く握った。
そして、笑顔を向けた。
「あたしも――。
ありがとう」
ガタン、と。音と共に、二人の乗った箱が大きく揺れて、プラットフォームに到着した。
待っていたと言わんばかりに係員を押し退けて、社長とマネージャーがドアを開ける。
けれど潤は、腕を取られる前に、自ら目の前の小さなドアを潜った。
あたしが降りる前には、潤は周りにわっと取り囲まれ、係員の誘導でどうにか先に進むのが見えた。
もう、後ろは振り向かない。
人ごみに紛れて、見え隠れしていたその姿は見えなくなる。
これで、いい。
これで、いいの。
どこにいても。
あたしは潤のこと、想ってるよ。