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打ち合わせは、思っていたよりも時間がかかった。
店内を隅々回り、どこに花をどう置くか、幾つ必要か、予算は……と、希望を訊き、意見を出し合う。
他のハウスウエディングやレストランウエディングで装花の下調べはしてあったし、イメージが湧くようにと花の写真をプリントアウトして提示もした。
けれど、それでも全員が未経験なのだ。
単純に、上手く、は進まない。当然のこと。
月末の式までには、あまり時間はない。
それでも、絶対に二人の気に入った装花にしたい。
電話でもメールでも、納得出来るよう、何度も打ち合わせを繰り返そう。
「亜美さん、バラが好きだって言ってたから、色んな品種のバラを織り交ぜたいな。
白いバラだったら……カルトブラッシュとか亜美さんに合いそうじゃない?
潤、知ってる? 花びらが薄くて、縁が波打ってるの。だから柔らかくて優しい感じがするんだ。
あー……それにティネケとか合わせたいかな。あ、ローズユミはやっぱり外せないよねぇ。
レストルームは黒いタイルだったから、台の上に花びらを散らすと可愛くない? ピンク系の濃淡をつけて。何のバラがいいかなぁ。
バラってねー、物凄く品種が多いの。もっと勉強しなきゃな」
頭の中は、色々な案やイメージが、次々に思い浮かんでいた。
興奮気味に話すあたしを、潤は穏やかな顔で微笑みながら聞いていた。
「楽しそうだな」
「うん。楽しい」
「店も、スゲーイイ感じだったし」
「ね。ホント、素敵なお店。
庭のバラもまだ開花時期だから、当日、綺麗に咲いてくれてるといいな」
お店の庭の壁面には、早咲きの白のモッコウバラがツルを成して、この時期でも沢山の花を咲き誇らせていた。
自然の装花は、何よりエネルギッシュで美しい。
「頑張れそう?」
覗き込むように訊かれる。
あたしは間近の潤を真っ直ぐ見た。
「勿論!」
頷きながら強く言い切る。
それは半分は、自分に言い聞かせたみたいだった。
飲み込まれそうな黒い波から逃れて、自分を奮い立たせるために。
――楽しい。
それは本当だし、やる気だってある。
あたしがやりたい、と。そう思う。
新しい大きな仕事と、誰かが幸せになる瞬間の一部。
胸が躍らないわけがない。
それでも、これからの不安が無いと言ったら嘘になるのだ。
潤はいなくなって。
全て自分一人でやらなければならないし、そのリスクの大きさは計り知れない。
それに、この仕事だけじゃない。
安定してきた売り上げも、これからどうなるか分からない。
ライフスターとの契約だって、切れるのは間近だ。
これから先、また一人で背負っていくものは大きい。
だけど今は、そんな不安を潤に見せたくない。
あたしは一人でも大丈夫だって。
笑って、送り出したい。
「あー。腹減った」
まるで、これ以上堪え切れないような言い方で、潤は口を開けながら空を仰いだ。
あたしも釣られて顎をぐっと上げ、夜空を見た。
黒く掠れた雲がゆっくりと流れていく。
束の間の晴れ間は今日で終わりだと告げるような、梅雨空に舞い戻る事を彷彿とさせる色だ。
「ホント、お腹空いたね。何か食べに行く?
クイーンズスクエア行こうか?」
「や。コスモワールドって21時で閉まっちゃうじゃん!
ちょっと遊んでからでいいよ。
それにほら、もう着くし」
コスモワールドへの入り口もすぐそこで、閉園が近いせいもあるのか、そこからちらほらとカップルが出てくる。皆、充実した顔つきで、あたし達とすれ違う。
世界一の大きさと謳われる大観覧車のコスモクロックは、顔を真上に上げないと、大きな輪の天辺までは見えないくらい迫力がある。
「すっげ。でっけー」
「何か……潤ってば、観覧車って柄じゃないんですけど」
だって、そういうロマンチックなものよりも、どっちかって言うと絶叫系って感じ。
含み笑いをしていると、潤は少しムッとした顔つきをしてみせた。
だけどそれは何か悪い事を企んだ時のように、すぐに楽しそうなものに変わった。
「女の子と一緒のときは、こーゆーの乗るモンじゃね?」
手を、取られた。
すぐ隣にあった手が。
あたしの掌を、ぎゅっと握る。
「じゅ……」
「観覧車、乗ろう!」
ぐっと、強く手が引かれる。
子供がおもちゃに興奮して、待ち切れないといった感じだ。
――全く。
こんなのって、ホントの恋人同士みたいじゃん。
楽しい。
「あ、ほら! チケットそこで売ってる!」
潤は今まで握っていた手をパッと手を離し、一人でチケット売り場に駆け込む。
カウンターに身を乗り出している後姿を眺めていると、思わず頬が緩んだ。
何か。潤のこういうトコ、可愛い。
ただただ、幸せな気分になった。
あとひとときでも、こんな時間が過ごせればいい。
そんな空気を切るように、忙しなく携帯電話の着信音が鳴り出した。
肩に掛けたバックを開くと、真っ暗な中でそれはオレンジ色に小さな光を点滅させながら在りかを主張している。
何の気なしに手に取って、サブディスプレイで相手を確認すると、090から始まる知らない携帯電話の番号だった。
亜美さんか鈴原さん?
もしかしたら、オーナーの長谷川さん?
「はい、お待たせしました。pure greenの穂積です」
仕事の件かと思い、そのつもりの丁寧な口調で応対した。
だけどすぐに返答はなく、少しの間が空く。
あれ? 誰だろ?
仕事の電話じゃない?
『潤、いる?』
名前を伺おうとしたところで聞こえた声に、一瞬にして身体を硬直させられた。
足元から、急速に冷たいものが上がってくる。
――彰、くん……。
携帯の番号を訊かれてから、初めての電話だ。
番号を訊いてきた時点で、嫌な予感はしていた。
だけど、彼が何かをするなんて、確証はない。
現に、潤を恨んでいても、事務所や矢沢カンナに居場所は教えなかった。この数日間だって、何事もなかった。
それなのに、物凄く嫌な予感がして仕方ない。
「な、に……?」
警戒を深めながら答える。
『いーから。潤はいるかっつってんの。早く出せよ。
つか、今、どの辺?』
――どの辺、って……何?
せっつくような物言いに、答えて良いのか迷い、言葉を詰まらせた。
彰くんはあたしの返答を待っているのか、電話を通して沈黙が流れる。
受話器からは、小さな音楽が流れてくる。
園内にかかっている曲と、同じ曲……。
――同じ曲……?
子供が遊ぶキャラクターの小さな電動カーが並ぶ、向こう。
ロゴの入った白いTシャツに、少しゆるめのデニム。何てことない格好なのに。
際立って彼の姿があたしの目に映り込んだ。
何で、ココにいるの……?
何で、知ってるの……?
沈黙が続く。
心臓の音だけが突き立てて響く。
どうしよう、とか。
そんな事を考える余裕がない。
ただ、オカシイと。
何かあるという危機感だけは鋭く察知していた。
顔がこちらを向いた。
蛇のような色を感じない目に捉えられる。
その横でジェットコースターが、赤い照明で染めた噴水を高く舞い上げた池の中へと突入し、絶叫する高い声が、押し当てた携帯からも当てていない耳からも響いた。
『見ぃつけた』
少し機械かかった彰くんの声が通り抜ける。
ずっと向こう側にいる彰くんは、口元を弛めながら耳から携帯を外した。
耳元で鳴っていたテンポの良い音楽は、電子音の連なりに変わった。
「葵!」
弾んだ声が背中から聞こえ、頭を巡らせる余裕も無く振り向いた。
潤はコスモクロックの写真が入ったチケットを二枚、あたしに向かってペラペラと掲げてみせる。
「どーした?」
明らかに当惑した表情のあたしに、潤は驚いたように尋ねると、視線が後ろへと移動した。
彰くんを捉えたのか、瞳はそこで止まったまま表情は硬くなる。
「彰……」
「よー。潤」
まるで待ち合わせをした相手が来た時のような、軽い調子で彰くんが言った。
あたしもゆっくりと、その声の主の方へと振り向く。
にんまりとほくそ笑む彰くんは、あたし達のすぐ傍まで近づいてきていた。
「何でオマエがココにいんだよ……?」
大きく見開いた目で、潤は低く疑問を投げ掛けた。
「何で?」
クッと笑って彰くんは続ける。
「病院行って来たから、園長に訊いた。
仕事の後、葵チャンとコスモワールドに行くって言ってたって。
何? デート?」
「……だから、何で来たんだって、訊いてんだよ」
主旨の見えない答えに、苛ついたように潤が言った。
彰くんは、ニヤついていた顔から眉間に皺を寄せ、不機嫌さを漂わせた。
そして、潤に顔を寄せる。
「つーか。いつまでこんなの着けてんだよ、潤!」
荒げた声が上がったかと思うと、彰くんは潤の顔の方へと手を振り上げた。
一瞬殴るのかと驚く。
だけど殴ったのではなく、潤が掛けている眼鏡を勢いよく振り払って落とした。
「っつ!」
瞬間、潤は彰くんの指が目の辺りに当たったのか、片目を瞑って声を漏らした。
緊迫した異様な雰囲気に、何事かと、園内の客からちらほらと視線が寄せられる。
注目を集める事を意図としているのか、彰くんは声のトーンを下げて強く言い放つ。
「いい加減にしろよ、潤」
バクバクと、心臓が大きな音を立てる。
彰くんは何を考えてるの!?
「中途半端なコトばっか、してんじゃねーよ」
「……言いたいのは、そんなことかよ」
潤は怯むことなく、ただ呆れたように大きく息を吐き出してから冷たく返し、あたしの手を取ると「行こう」と、引っ張った。
「待てよ!」
彰くんの憤慨したような声と共に、潤に取られた反対の腕が勢いよく掴まれた。
反射的に見た彼の顔は非情で、嫌悪や憎しみが刻まれているのがありありと分かるものだった。
「放し――て」
「潤がいてくんなきゃ、困るんだよ」
「――何……?」
「園長から聞いた。
オマエ、戻るんだろ?」
あたしの腕を捻じり上げるように強く握り締めた彰くんは、そこを通り越して、潤だけを見ていた。
「おねーさんには、ちゃんと話した?
カンナが彼女だってことも」
「オイっ!」
声を上げた瞬間、潤は繋いでいた手をパッと離し、あたしの腕を掴んでいる彰くんの腕を取った。
「ああー」
彰くんは冷笑した。
「やっぱ、言ってないのか」
「―――」
「葵の手、放せよ……」
「潤が、自分で戻ると困るんだよ」
彰くんは呟くように言った後、数秒黙り込んだ。
一発触発しそうな程緊迫した空気にそぐわない、遊園地特有の楽しそうな音楽が流れ込む。
「売ったんだ」
今度はハッキリとした言葉だった。
だけど何を意味しているのか瞬時には分からず、あたしも潤も、彰くんの次の言葉を待つように彼を見つめた。
「潤の居場所を教えるかわりにって。オマエの事務所と」
傲岸不遜な態度で、彰くんはあたし達に言った。