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瞼の裏が赤く色付いて、光を感じる。
目は固く閉じられているのに眩しくて、手の甲で咄嗟に光を避けた。
……もう、朝……?
身体……痛い……。
思考回路が徐々に復活し始めて、腰と首の痛さを認識した瞬間、ぼんやりとしていた頭をパッと覚まさせられる。
ヤバい!
あたし、潤に寄り掛かって寝ちゃったんだ!!
そう気付き、思い切り瞳を見開いた。
なのに、目に映ったのはリビングの天井で、潤が触れている感触もどこにもなくて、逆に驚く。
折り曲げていた筈の身体はいつの間にか仰向けになっていて、あたし一人でソファーを占領していた。
心地良さにほんの少しだけ目を閉じただけのつもりだったのに、気付かないうちにそのまま眠ってしまったらしい。
掃き出し窓の雨戸は閉まっているのに、出窓から降り注ぐ光で、部屋の中は随分と明るい。この様子だと、もう結構な時間だろう。
「……っ痛」
痺れたように張った首の線に、否応なしに声が漏れる。
そこに手を当てて部屋の中を見回しながら、ゆっくりと上半身を起こした。
……いない……?
掛かっていた布団が、柔らかな衣擦れの音を立てて身体からするりと滑り落ちた。
そこに視線を落とす。
潤が掛けてくれたの……?
のそのそと立ち上がって、布団を拾い上げた。
和室に置いてある、お客様用の物だとすぐに分かる。
潤……どこ行ったんだろ……?
そうは思ったけれど、部屋の中に微かに残る人のいた気配が、潤自身が消えていなくなったとは思えなくて、深い心配には陥らなかった。
だけど、徐々に頭の芯はしっかりし始めたせいか、あんな風に寄り添って寝てしまって変な風に思われたらどうしようと、急に気持ちが焦り始める。
確かに、告白しようとは決めたけど……。
今、下手に気持ちがバレて、普段通りに出来ないのも困るし。
これから打ち合わせもあるのに!
どうしよう! やっぱりあんなのって変かな!?
どんな顔すればいいのか分かんないよ!
でも、最初に膝枕してきたのも、寝ちゃったのも潤だし……!
落ち着かず、 闇雲に部屋のそこらじゅうを歩きまわり始める。
何か言われるかな……。
変、だよね? 変、かな……?
そわそわとしたあたしの足音が、自分のものとは違う音と重なった。
リビングに近づいてきたその音にハッと目を向けると、ドアが開いた。
「おっはよ。起きた?」
――潤。
何事も無かったような、さわやかな笑顔だ。
しかも、妙に明るいっていうか。テンションが高い感じ。
それが、何だかちょっと悔しいな、なんて思う。
だって、あんな風に寝てたんだよ?
しかも、あたし、パジャマだし……。
今だってドキドキしてるのに、潤は何も感じてないなんて……。
ちょっとくらい、意識して欲しい。
「おはよう……」
「何、ふくれっ面してんの?」
「別に……」
「今、飯作るよ。
何食う? パン?」
「……ん」
「オッケー」
潤は、答えながらカウンターに向かう。
見ると、髪がしっとりと濡れていて、いくつもの束を作っている。
それに、昨日とは違う服。
近づくと、ふわり、と。シャンプーの甘い匂いが鼻を掠めた。
自分と同じ香りなのに。
それなのに、やっぱりきゅっとする。
潤から香ると、それは別のモノのように感じて……。
「お風呂入ってたの?」
カウンターを挟んで訊くと、潤はこちらを向かないまま手を動かして答える。
「んー。昨日、入り損ねたじゃん?」
「だって……潤が寝ちゃったんじゃん」
「うん。でも、葵もかなりぐっすり寝てたけど?」
「え。だって……!」
あ。キタ。
何て答えよう!
未だまとまっていなかった答えに言葉が詰まると、潤は何でもないようにあたしを背にし、冷蔵庫を開ける。
「すっげー格好と体勢で。口も開けてたし、ヨダレも垂れてるし」
「嘘っ!?」
「うっそー」
バタンと勢いよく冷蔵庫のドアを閉めたのと同時に、くるりと振り向いて悪戯な笑顔を見せる。
「〜〜〜〜〜!」
唖然とするあたしを、逆にくっくと笑って楽しんでる。
信じらんない……。
潤は鼻歌を歌い始め、朝食の準備を進めた。
ボウルに片手で卵を割り入れる。
そんな手さばきも、サマになってる。
しかも、嬉しそう。
もう! 変に考えすぎてソンした。
こーゆーヤツって分かってるけどさぁ……。
……うん。でも、ま、いっか。
こんがりと焼き色が付いたフレンチトーストの上には、豊かな香りと濃厚な甘みが溶け込んだメープルシロップ。
アスパラのベーコン巻きは、ピンクとグリーンの彩りが綺麗。
それに、歯触りの良いコールスロー。
コーンクリーム缶でさっと作ったというコーンスープは柔らかな湯気を上げる。
久しぶりに就寝時間が遅かったせいか、既にお昼近くなっていて、ブランチとなってしまった。
そのおかげか、いつもの朝食よりは手が込んでいる。
……と、言っても。潤曰く、簡単な料理らしい。
相変わらずあたし好みの美味しい料理を口にしながら思う。
昼近くまで寝ちゃって、時間が勿体無かったかな、なんて。
食べ終わった頃には、12時を回っていた。
だけど、打ち合わせの18時まではまだまだ時間がある。
後でみなとみらいに行くのだから、出掛けるまでは家でゆっくり二人でいてもいいな、と思った時だった。
後片付けも終わり、流しの蛇口を下げ、水音がピタリと止まると潤が言った。
「オレ、ちょっと出掛けて来ていい?」
「出掛ける?」
「園長のトコ」
それは、少し前までの明るい声のトーンではなく、何か気構えのあるような声色だった。
顔つきも、少し違う。
戻る前に、きちんと話をしたいのだろう。
園長の病気の事を知ったのは、彰くんと会ってからだ。
恐らく、元の場所に戻ればまた会えなくなるから。
「うん。
ゆっくりしてきなよ。打ち合わせまでは時間もあるし」
「……ん。サンキュ。
あ。花……持って行きたいんだけど、いい?」
「勿論。
自分で作っていくんでしょ?」
潤は声を出さずに頷いた。
「潤が作っていったら、喜ぶよ」
キャビネットの一番上の引き出しを開けると、中から店の鍵を取り出した。
そして、その小さな金属を潤に手渡した。
潤が出掛けると、何とも言えない気分になった。
落ち着かないような、そんな気持ちだ。
ふと、窓の方を見ると、青い空が見えた。
雲一つ無い快晴だ。
徐に掃き出し窓に近づき、それを開け放つと、ゆるりと風が頬を撫でていった。
気持ちがいい。
一緒に、緑の匂いも運ばれてくる。
ここで、一緒に日向ぼっこしたっけ……。
昨日みたいに、膝枕して。
そうして目を瞑っているだけで、気持ちが温かくなって満たされたんだ。
窓枠に掛けた手がするすると滑り落ちて、そこにそのまましゃがみ込む。
この際だからと縁側にペタンとお尻をつけ、足も放り出した。
大きく息を吸い込み、空を仰いだ。
梅雨の合間の晴れ――
透明感のある濃く青い空の中に、金色の太陽が光の筋を伸ばしてくる。
眩しくて目を細めると、風が通り抜けていき、肩に掛かっていた髪が後ろへとなびいた。
葉擦れの音さえも、まるで楽器を奏でるように優しく耳に届く。
静かな午後だった。
あたしの中の覚悟は、もう、出来ていた。
3時からの面会時間に合わせて行った潤が、家に戻ってきたのは4時半くらいだった。
出掛ける支度をして家を出るのには、頃合いが良い。
車ではなく、電車を利用して目的地へと向かう。
――潤は。
出逢った時に持っていたバッグを持っていた。
今迄一緒に出掛けた時は、いつも手ぶらでバッグを持って行く事はなかったのに。
きっと、潤の部屋は、綺麗に片付けられている。
いつもは敷きっ放しの布団だって、きちんとたたまれているに違いない。
家に潤の『モノ』だと主張するような物は、殆どないだろう。
「贅沢しなくていいよ。あるモンで、全然」そう言って、服だって、物だって必要最小限しか買わなかった。
元々、短期間しかいるつもりはなかったんじゃないかと、今ならそう思える。
暮れなずむオレンジの陽が、向こう側に弱い光を放って、それもまた温かみがあり綺麗だ。
紫紺に染まり始めた街は、点々と様々な色の灯りをともし始めている。
亜美さん達の結婚式会場のレストランは、石川町と関内の中間くらいの場所だ。
この辺に来ることは随分と久しぶりで、酷く懐かしい気がした。
昔はよく来ていたのにな、と思う。
どこがどう変わったとかは分からない。
だけど来る度、確実に少しずつ違っている街。
次々と新しい建造物が建てられ、昔の記憶は曖昧になり、見ていると、本当は変わっていないのではとも感じさせられてしまう。
歩きながら、海の方を眺める。
横浜を象徴するモノが、ここからも十分に感じられる。
元町商店街に中華街、山下公園にマリンタワー。
みなとみらいだけじゃなくて、一緒に行きたい場所は近くに沢山あったのに。
ここから見える全ての景色に、そう思わせられる。
「この辺だよね」
隣に尋ねると、潤は手に持った紙に目を落とした。
亜美さんから、ファックスで送ってもらった手書きの地図だ。
「うん。多分この辺り」
「海……見えていいね。綺麗」
あたしは海の方へと視線を戻した。
生温かい潮風が、通り過ぎていく。
「ね、園長先生、どうだった?」
顔を反対へと戻し、潤を見上げた。
「うん、まぁ……相変わらず。
調子は変わんないみてぇ」
「そっか……。
良くなると、いいね」
あたしがそう言うと、潤は言葉の代わりか、こちらを向いて薄く微笑んだだけだった。
「お花、喜んでくれた?
何持って行ったの?」
「ピンクのバラ」
「えっ、ピンク?」
驚いて声を上げる。
一瞬、聞き違いや言い間違いかと思った。
だって、普通は年配の男性に送るような花じゃない。
だけど、潤はとてもそんな様子もなく答えた。
「んー。ピンクのバラの花言葉って、病気の回復って意味なんだよ」
病気の回復……?
「知らなかった……。
潤、よくそんな事まで知ってるね……」
「これでも結構勉強してんだよ。
葵に少しでも近づいて、役に立てればとか思ってさ。
一朝一夕に出来るモンじゃねーじゃん?」
自慢げに口元を緩める。
あたしはそんな潤を、足を止めて見上げた。
「じゃあ……」
あの――花は?
やっぱり、意味を知ってるってこと?
分かってて、なの?
潤がくれた花も。
あたしのあげた花も。
どちらも……?
言葉がそこで宙に浮いたまま、潤を見つめた。
潤も黙って足を止め、あたしを見る。
薄暗くなり始めた背景に、濃いブラウンの瞳が何かを訴えるように光った。
「穂積さーん!」
潤が、あたしの名前を唇で形作った時だった。
大きな声で後ろから呼ぶ声が聞こえて、どきりとしてそちらへと引き寄せられたように振り向いた。
亜美さんと鈴原さんが、向こう側で手を振っている。
夕闇の中でも、すぐに彼女達だと分かった。
小走りにこちらに向かって走ってくる亜美さんを、鈴原さんは急いで追いかけ、途中で咎める。
「オマエ、走んなよ!」
「ごめーん、何か興奮してて」
亜美さんは、えへへ、と鈴原さんに向かって屈託無い顔で笑い、こちらに向き直る。
可愛い人だな、なんて思う。
あたしも潤も、二人に軽く頭を下げた。
「こんばんは。
身体、大丈夫ですか?」
「つわりも軽くて元気なんですよー。
この調子だと、仕事も続けられたかもーなんて思っちゃう。
あ。お店、すぐそこなんです。案内しますね」
「お願いします」
「行きましょう」
亜美さんは、鈴原さんの腕をぐいっと引っ張り、大手を振ったようにあたし達に先だって歩き出す。
楽しそうに会話をしながら前を歩く二人は、絡んでいた腕から、今度はするりと手を取り合った。
なんて自然なのだろうと思った。
傍から見ていても、仲の良さが窺える。
如何にもこれから将来を共に過ごす恋人同士だ、と。
そんな二人が羨ましくも眩しくて、目を伏せた。
永遠の愛を誓い合い、同じ姓を名乗り、死ぬまで一緒なのだ。ずっと。
きゅっと、胸が締め付けられた。
それがどれだけ幸福なことなのか。
あたしがどんなに望んでも、手を伸ばしても、そこには到底届かない。
お店は、横浜の歴史を感じさせる、瀟洒で大きな一軒家のような静かな佇まいだった。
見上げる程高い石積みの門構えに、広々とした芝生が広がる庭には沢山のバラが咲き誇っている。
オレンジ色の温かみのあるランプが幾つも連なり、レンガ張りの洋風の大きな建物をエキゾチックに浮かび上がらせる。
無垢のチーク材で出来た重厚なドアを開けると、すぐ目の前には、繊細な模様を施した細い金属のらせん階段があり、吹き抜けになった高い天井のロビーが優雅な雰囲気を醸し出す。
凝った細工の大きなシャンデリアに、高級そうなアンティーク家具、えんじ色の絨毯。たっぷりとドレープをあしらった白いカーテンは流れるような曲線を描き、窓を贅沢に装飾している。
思わず、感嘆の声が漏れそうになるのを抑えた。
不躾にならないように、控え目に店内を見回す。
――素敵なお店……。
鈴原さんが名前を告げると、タキシードを着た男性店員が、すぐに奥へと案内してくれた。
広いフロアーには、沢山のお客様がテーブルを囲って楽しそうに食事をしている。
そのままそこを通り過ぎ、個室へと通された。
タキシードの店員がドアをノックして「お見えになりました」と告げると、中から「どうぞ」と落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
先に部屋の中へ入った鈴原さん達に続いて、潤と足を踏み入れる。
「悪いな、忙しいのに」
鈴原さんが、窓側に立っていたスーツ姿の男性に近づいて言った。
30代前半といった感じの、スマートな大人の男の人だ。
どうやら、この人が鈴原さんの友人で、オーナーみたいだ。
「いや。お前達の頼みだからな。是非、成功させたいし。
こういうのは初めてだから、どこまで出来るか分からないけど」
男性は、鈴原さんと亜美さんにそう答えると、あたし達の方を見て「こちらが花をプロデュースしてくれる方?」と、にっこり笑顔を見せて言った。
「オーナーの長谷川です。
よろしくお願いします」
挨拶と共にさっと名刺が手渡される。
あたしも、つい先日作ったばかりの名刺を差し出した。
「pure greenの穂積です。彼はスタッフの結城です。
よろしくお願いします」
頭をぺこりと下げると、長谷川さんは、名刺を差し出したままのあたしの手を両手で握って力強く振った。
「ウエディングをやるのは初めてで、分からないことだらけなんです。
でも、凄く楽しみなんですよ。
友人のだから、っていうのもあるけれど、ワクワクします。こういうの」
瞳をキラキラさせて、まるで子供が夢をみるみたいな期待に満ちた顔だと思った。
――あたしも。
彼と同じ事を思った。
初めてで分からない事が多い。
でも、ワクワクする。
言い表せない高揚感が湧き上がり、身体中を占領していく。
広いガーデンと、高級感のあるお洒落な店内、美味しい料理に、美しい横浜の景色。
ここならば、レストランウエディングをするのには申し分ない。
こんな素敵なお店を、あたしの作った花で飾りたい。
鈴原さんと亜美さんの、一生思い出になる結婚式のお手伝いをしたい。
たった一日限りの花。
沢山のお金をかけても、形には残らない。
だけど、朽ちてもなお、忘れられない花。
心から消えない花を。
笑顔が溢れる幸せの道へ届けたい。
そんな想いでいっぱいだった。