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ゆっくり、と、言われたけれど、そこそこにお風呂を後にする。
タオルで身体を拭いて、歯磨きをして。基礎化粧品で肌の手入れをして、ドライヤーでざっと髪を乾かす。
この一連の作業だけでも、女っていうものはそれなりの時間がかかる。
明日は休みだとはいえ、もうすっかり遅い時間だし、先に入らせてもらってやっぱり良かったかな、なんて思う。
三人順番だったら、それこそ潤は、明日の朝シャワーに入るからいいとか言いそうだし。
洗面所から廊下に出ると、そこからすぐにリビングのドアに嵌めこまれたガラスから、光が漏れているのが見える。
それなのに、二人の話し声は聞こえてこない。
あれ? と、不審に思いながらリビングのドアを開けると、部屋にはソファーに座る潤のみで、香織の姿は見えない。
潤は、あたしが部屋に入ってきたことに気が付いて、その場でこちらに振り向いた。
「出た? ゆっくり入った?」
「……うん。
ね、香織は?」
「あー……」
あたしの問いに、潤は言葉尻を濁しながら、ローテーブルの上にある紙のようなものをさっと取って立ち上がる。
「コレ」
そのままあたしに近づいて、困ったような顔でそう言いながら、メモのようなものを差し出す。
「何?」
訊きながら受け取り、目を落とすと、同時に潤が言った。
「洗い物が終わって、オレ、香織ちゃんの布団敷きに二階に行ったんだよ。
その間に……」
まるで、潤の言葉の続きをそのまま表したような、文字の羅列がそこにあった。
『やっぱり帰ります。
タクシーで帰るから心配しないでね。
今日はありがとう。
香織』
――何で……
そう喉まで出掛かった言葉は、吐き出されることはなかった。
瞬時に、香織の考えを理解したから。
明日、潤はきっといなくなると言ったからだ。
最後の夜くらい、二人きりで過ごせ、と。
香織はそう言いたいのだ。
あたしに直接帰ると言えば、そんな気を遣うなと言われることも分かっての行動だろう。
ごくりと、喉が動いた。
心臓も、急速に早鐘を打ち始める。
この空間に、急に潤と二人っきりになったと実感させられたから。
敬太に『無防備過ぎる』と言われたことも思い出した。
湿気を含んだ髪に、スッピン。湯上がりの上気した肌。
前開きのパジャマは、胸元が大きく開いている。
敬太の前では、全然平気だったのに。
潤の前だと思うと、急に意識して頬が紅潮するのも分かった。
いつも、お風呂の後はそのまま部屋に行って寝てしまうことが多いから、こんな格好で潤と一緒にいるなんて、最初の頃くらいだ。
……もう!
普通にしたいのに、何でこんなに緊張しちゃうんだろ……!
「そ、そっか」
取りあえず口から出た一言は、そんなものだった。
少し、声が上ずった気もする。
「あー……ゴメンな。
気が付いた時点で、外に出て少し見回ったんだけど。
香織ちゃん、もう近くにはいなかったんだよ」
申し訳なさそうにこちらを向いて言う潤の顔が、途中でまともに見られなくなる。
目を逸らして。
それでも努めて自然に見えるように、ソファーに手を掛けながら答える。
「……うん。
タクシーで帰るって書いてあるから大丈夫だよ。
後でメールしてみるね」
そう最後まで言い終わる前、転じた視線の中に、ローテーブルの上のマグカップが見えた。
潤の、水色のマグカップ。
そう言えば、微かにコーヒーの香りが漂っている。
「あれ……? 潤、コーヒー飲んでたの?」
「ん。何か飲みたくなって」
「こんな遅くにコーヒーなんて飲んだら、寝られなくなんない?」
「ここんとこ、夜あんま寝てないから。
眠いから平気」
「寝てない?」
それはやっぱり、元の場所に帰ることが原因……?
カップから結局潤へと顔を上げ、問いただすように見つめた。
あたしは、潤がいなくなることが怖くて、深く眠る事が出来なかったけど……。
潤は……?
潤は苦笑いを見せ、その問いには答えないまま大きな掌が宙に舞ったかと思うと、あたしの髪をくしゃりと撫でた。
そして、そのままテーブルの方へと向き直し、マグカップを手に取った。
「葵も、酔い醒ましに飲む?」
すぐにまた潤はこちらに振り返ると、笑顔の横で空になったカップを揺らして見せた。
「……うん。飲む」
本当は、もう歯磨きしちゃったけど、ということは伏せておいた。
何でもいい。話が出来れば。それで。
このまま一人で寝たくない。
出来るだけ、一緒にいたい。長く。
「じゃ、今、淹れるな」
潤はそう言うとキッチンへ向かい、あたしは先にソファーに腰を下ろした。
軽快な鼻歌が聞こえだす。
あたしのこんな格好も、潤にとっては何も気にならないようだ。
気にしたのはあたしだけ。
ふーっと、長い息を吐き出して、柔らかな背凭れに身体をゆっくりと預けた。
何だか、気が抜けてしまった。
意識し過ぎてる……な。
明日、告白しようと決めたせいもあるけれど。
いつものように。普通でいたい、と願うのは自分なんだから。
程なくして、ケトルの先からドリッパーにお湯が注がれる音がリズミカルに立って、コーヒーの香ばしい香りが鼻腔を擽り始める。
楽しそうに作業をする潤を、首を伸ばし背凭れの上部に腕を凭せ掛けながら見つめた。
こんな姿ももう、これで見納めなのかもしれないと思いつつも、そんな変わらない潤の姿に、胸のうちの温かさを感じた。
「はい、どーぞ。女王様」
柔らかな白い湯気を上げる桜色のカップが、目の前のテーブルの上にそっと置かれる。
「せめてお嬢様にしない?」
ギロリ、と。上目遣いで抗議する。
だって、女王様って何だかいやらしい感じ。
「そんな年齢じゃないじゃな……ってぇ!」
あたしが指できゅっと手の甲を抓ると、潤は如何にもオーバーなアクションで、手首をぶらぶらとさせる。
「3つしか変わらないって言ったの、誰だっけ?」
「オレ?」
「そーだよ」
「うん。オレが27歳になったら、葵は30歳だもんな」
「………。
黙らっしゃい」
「やっぱ女王様だ」と。潤はけらけらと笑いながら、あたしの座るソファーの端に回り込み、そこに座った。
三人掛けのソファーの、真ん中の空間を空けて、隣に。
ぎしり、と。潤が身体を背凭れに凭せ掛けた音が響いて、それと同時にあたしの背中にもその振動を感じた。
潤がピタリと笑い声を止めてしまったためか、急に部屋の中が深閑とする。
息を吐き出す音さえ、目立ちそうな程。
また、緊張が走り出す。
みっともないくらい心臓が動き出した音が、潤に聞こえてしまいそうな気がして、あたしは今置かれたばかりのマグカップに手を伸ばそうとした。
その瞬間、それを阻むように、潤によってあたしの膝の上に重みが持たされた。
ドクン、と。大きく心臓が跳ねる。
「ちょ……っ! 潤!?」
「眠い」
「眠いって、ちょっと……!」
「暫く、こーしてて。気持ちイイ……」
気持ちイイって――……
何で膝枕!?
あたしの膝の上で、潤は本当に気持ち良さそうに瞼を閉じている。
「……酔ってるの?」
「そーかも」
「………」
これみよがしに、溜め息を吐き出してみせた。
仕方ないわね、と。
何も感じていないように、大人の余裕を持って。
でも、本当の心内は、全く違う。
信じられないくらい動悸は激しいし。
その上、胸をきゅっと甘く締め付ける。
嬉しいのに、苦しい。
「なんか、さ」
目を瞑ったまま潤が言った。
「葵が近くにいると、安心して寝られるんだよな」
「安心……?」
「……ん」と、僅かに頷くような仕草を見せた。
「オレ、ずっと不眠症っぽいっつーか、深く眠りにつくことが出来なくてさ。
眠りに入ると、嫌な夢見て、魘されたり……」
そう言えば……。
最初のとき、伊豆へ向かう途中に、車の中で居眠りして魘されてたっけ……。
「でも、ココに来てからなんだ。ちゃんと眠れるようになった。
なんつーか。安心する、の、かな……」
「安心……?」
「んー。それに、めっちゃ、健康的な生活してるからかな。
朝早く起きて、仕事して、飯はちゃんと三食食って。
当たり前のコトが、スゲー幸せに感じた」
「……そうだ、ね……」
「明日、仕事、上手くいくといいな。
楽しみだな、これから」
瞼を閉じたままの潤は、すうっと、静かに息を吸って、吐いた。
「新しい、一歩だよな」
胸が、きゅっとした。
打ち付けていた鼓動が急に失速したように。
――これから?
――新しい、一歩?
潤はいなくなるのに……。
無性に触れたくなって、あたしは潤の髪を撫でた。
目の前の存在を、確かめるように。
さらりと指をすり抜ける髪。
もう、こんな風に。触れることも見ることも、出来なくなるんだ……。
ゆっくりと指先を滑らせながら、ぎゅっと目を閉じた。
瞼の裏が痺れる。――熱い。
泣きたくなるなんて、あたしってば、弱いよ……。
黙ったまま、掌を往復させる。
ゆっくりと、何度も。
指先に、シルクのように滑らかな潤の髪の感触が、吸いついては通り過ぎる。
数秒が数分にも感じて。
数分が数秒にも感じる。
短いようで、長くて。
長いようで、短い時間の感覚。
暫くそうしていた。
潤も黙って、なされるがまま、髪を梳かされている。
「……潤?」
どのくらい、そうしていたのか。
動かない潤に気が付いて、声を掛ける。
返事がない。
潤、寝ちゃってる……?
顔を近づけて覗き込むと、僅かに開いた唇から規則的な寝息が漏れている。
固く閉じられた瞼は、開きそうな様子は見られない。
眠いって……言ってたもんね。
お酒も飲んでるし……。
手を止めて、潤の寝顔を見つめる。
睡魔に襲われてそのまま眠りに落ちた顔は、穢れを知らない無垢な子供のようで。
とても満ち足りた顔をしていた。
あまりにも心地良さそうに見えて、思わず零れた笑いを噛み殺す。
切ない気持ちは一転して、温かいものに変わる。
胸の奥の。ずっとずっと奥に。小さな炎を宿したみたいに、そこからぽうっと、優しく広がっていく。
あたしをこんな気持ちにさせてくれるのは、やっぱり潤なんだ。
長い睫だなぁ……。
触れてみようかと指を伸ばして、寸前で引っ込めた。
男のクセに瞼を縁取るように綺麗なアーチをかけて伸びる睫は、薄っすらと影を落としている。
すっと高い鼻に、形の良い唇。シャープな顎のライン。
潤の寝顔を眺めるのは二回目だ。
出逢った日――伊豆の旅館で泊まったとき以来。
だけどあのときは、布団は二組敷いてあって、こんなには間近じゃない。
今は――手を伸ばせば、すぐに届く。
触れた部分は、潤の体温を感じられる。
それが今だけだとしても。
……温かい、な。
このまま身を委ねたい気持ちが湧き上がって、引っ込めた筈の指を潤の肩先に回し、腰を屈めた。
額に、そっと口づける。
ほんの少し。軽く触れるだけの。
唇を離した瞬間、少し湿ったような息が、あたしの髪にかかった。
あたしはゆっくりと身体に腕を回して、額を潤の胸に押し当てた。
――潤の、匂いがする。
心臓の音も、聞こえる。
触れている部分も心の奥も、ひどく温かくて、全てが包み込まれたみたいだ。
柔らかな繭に包まれて、ふわふわと波の上に浮かんだみたいに心地良い。
こうしていると、潤がいなくなってしまう事が嘘のようで。
まるで現実味もない――そう思えてくる。
今、確かに潤はココにいる。
静まり返った部屋に、お互いの息遣いだけが重なった。
その音さえ、耳元を優しく奏でる。
あたしはその温かさに、自然と瞼を閉じた。