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「ホントに一人で平気?」
潤がスーパーで買ってきてくれた食材を、ビニール袋から取り出しているあたしの横で、香織が落ち着かなそうに言う。
考えてみれば、潤にだけじゃなくて、香織にもあたしが料理を作った例はない。
香織がウチに遊びに来ても、料理の得意な彼女が作るのは当たり前のようになっていたし、あたしが料理が苦手な事も知っているから、手伝いたい気持ちになるのは尤もだ。
「いいから。香織、今日はゆっくりしてて。
潤とテレビでも見ながら待ってて、ね?」
ほら、と、肩に手を添えて身体の向きを変えさせ、カウンターから追い出した。
今日はどうしても一人で作りたくて。
あたしの料理の実力じゃあ、一人で大そうなものは作れない。
だけど、あたしが作ったこと。覚えていて欲しいんだ。
「香織ちゃん、今日は葵に任せようよ?」
弾んだような声が割り込んできた。
カウンター越しに身を乗り出してきてニッと笑顔を見せる潤に、少しは楽しみにしてくれてるのかな、なんて、嬉しくなる。
「うん! だから二人とも座ってて!」
「葵の初料理、楽しみだなー」
「でしょっ?」
「胃薬飲んで準備しとくからさー」
「どーゆー意味よ……」
全く。見てなさいっ!
脱力したのも束の間、腕まくりをして気合いを入れ直しカウンターに向かうと、向こう側で潤と香織が楽しそうに会話をし始めたのが見えた。
潤はやっぱり会話上手で調子も良くて、香織に対してはフェミニストだ。
だけど、最初の頃のように、優等生ぶった態度はとっていない。あたしと二人でいるときと殆ど変わらないような感じだ。自然な笑顔はちゃんと心からのものに見える。
香織には心を開いてくれてるのかな。
それは、やっぱり嬉しい。
ずっと、本心を、感情を、閉じ込めていたという潤。
彼にとって、素でいられる自分を見せられる人が、一人でも増えるといい。
二人の様子に安堵しながら、料理の手を動かし始める。
自分でも思う、ぎこちない手つき。
まな板の上に包丁の音が立てられる度、不格好な形の人参がひとつずつ転がっていくさまを見ると、これこそまさに乱切りっていうものだな、なんて思う。
具材を大きめにカットするのは、我が家のカレーの特徴だ。
『じゃがいもは、面取りして水に晒しておくのよ。
玉葱は、半量はバターで飴色になるまで炒めるの。時間がかかるけど、コクと甘味が出るわ。炒める前に、塩を軽く振って水分を出しておくと、炒める時間が短縮できるのよ。
残りの半量は食感を出すために、他の野菜と一緒に軽く炒めてね。
お肉は先に塩こしょうを振って、下味をつけておいて。
灰汁は丁寧に取って。コンソメと、赤ワインを少し入れて煮込むの』
母の言葉を丁寧に思い出していく。
いつだか、珍しくご飯の支度を手伝ったんだっけ。
あの時は、ふうん、と、耳に流していただけだったのに。
こんな風に鮮明に思い出す事が出来るなんて。
あたしは母の作るカレーが一番好きだった。
市販のルーを使用したそれは、高級料理店のものとは程遠く、繊細さも上品さの欠片も無いかもしれないけれど。
家庭独特の味は、温かさも優しさも思いやりも、溢れる程詰まっている。
あれは――母の味。
ずっとずっと、忘れる事の、ない。
どんなに忙しい時でも、必ずいつも温かい料理を用意してくれた母。
今になって、その温かさを思い知らされる。
こうして今あたしが。
誰かの為に心を込めて母のカレーを作ること。
父と母が見ていたら、どんな風に思うかな。
「いただきます」
ビールの注がれたコップが置かれているのに乾杯をせず、潤も香織も目の前に並べられた料理に手を合わせてくれた。
そんな小さな心遣いが嬉しい。
何だかんだ言っても、あたしの初めての料理を立ててくれているのだ。
タコの三色マリネは、昨日のうちにインターネットでレシピをメモしておいたもの。
玉葱の白にきゅうりのグリーン、鮮色な赤のトマトは、タコを引き立たせるように彩りを添える。だけど切り口も盛り付けも、センスがないなと自分でも思わせられる程、形は定まっていない。やっぱりレシピの写真通りには上手くいかないらしい。
じゃがいもは煮崩れて、決して見栄えが良いとは言えないカレーは、本格的にスパイスを調合したわけでもない、極々一般的なもの。
ふんわり……の予定だったのに、塊になった卵が浮かぶコンソメのスープ。
あとは、誰にでも並べられる適当に買ってきたおつまみ類。
上手く出来たとは、普通の人ならば言い難いと思う。
や。見た目はアレだけど、味は……大丈夫だと思いたい。多分。
また何か言われるかな、なんて一応覚悟はしていたけれど、「美味い」という言葉が返ってきた。
「マジで美味い」
「うん。ホント。美味しい」
潤と香織の驚いた顔に、思わず頬が緩む。
「ホント?」
そう言って貰えることは、物凄く嬉しい。
出来上がった時に味見をしてみたけれど、母の味とはやっぱり少し違っていたから心配だった。
「何かさ、家庭の温かい味、つーのかな。
こーゆーカレーってオレ好き」
そう言いながら、潤はパクパクとカレーを口に運ぶ。
まるで、ご飯をずっとお預けくっていた犬みたいに。
潤のこういう豪快な食べ方って、珍しいかも。
いつもは自分で作っているせいもあるのか、普通に食べてるし。
「うん、ホント。家庭の温かい味。
そう言えば、葵ちゃんのお母さんって、料理上手だったよね。
お母さんに習ったの?」
香織がスプーンを持つ手を止めて、にっこりと訊く。
「うん。もう、ずっと前に。
だけどね、思い出してその通りに作ってみたんだけど、やっぱり味は違っちゃった」
苦笑いして見せると、潤も口へとスプーンを運ぶ手を止めて言った。
「じゃ、コレは葵の味だ」
ああ……もう……。
何でこういうとき、こんな言葉をくれちゃうんだろう。
あたしなりに一生懸命作ったから。
そうだね。母の味というより、コレはあたしの味だから。
そういうの、胸がジンとする。
「そうだよ。一生忘れられないでしょっ?
このあたしが、潤に初めて作ってあげた料理だもん!」
冗談交じりに答えたけれど、本気だった。
本当に忘れて欲しくない。
ずっと、覚えていてね。今日のこと。
どこかでカレーを食べる度に、思い出してね。
三人とも、アルコールが入ったせいもあって、かなり饒舌だった。
食べて。飲んで。くだらない話をして。笑って。
――楽しかった。
潤にひとつでも多く、忘れられない思い出を作って欲しくて。
あたし自身も。
「あっ……もう、こんな時間」
香織は、壁にかかる時計を見上げながら言った。
尽きない会話に、皆時間なんて気にしていなかったせいか、いつの間にか0時近くになっていた。
「香織ちゃん、泊まっていくんじゃないの?」
潤は当然そうなんだろうと思っていたように、空になったグラスをテーブルに置きながら言った。
食事の後には、潤が買ってきたアルコール類を殆ど空にしたくらい三人とも飲んでいる。
「ううん。急がないと終電なくなっちゃうな……」
「え。泊まっていきなよ。
あたしも潤もお酒飲んでるから、車で送っていけないし。
朝、送っていくよ。明日休みだって言ってたじゃん」
「でも……」
「遠慮することないよ」
香織は数秒考えたのち、「……うん、じゃあ、ごめんね」と、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「じゃ、コレ、そろそろ片付けちゃおうか」
テーブルのお皿を指差しながら、あたしも椅子から立ち上がる。
それに続いて「そうだね」と、香織も潤も立ち上がった。
空いたお皿を幾つか重ね合わせ、手に取ると、香織が言った。
「葵ちゃん。今日はご飯、葵ちゃんが作ってくれたんだから、片付けはあたし達がやるよ。
葵ちゃんは、先にお風呂入ってきて」
「は?」
疑問符を付けた声を上げた時には、手の中から香織によってお皿を奪われていた。
「えっ? ちょっ……」
「ほら、いいから! 慣れないことして疲れちゃったでしょ? ゆっくり入ってきて。
ご飯、美味しかったよ」
香織はさっとカウンターにお皿を置いて、あたしの背中をぐいぐいと押す。
いやいや。確かに、慣れないこと――だけど。
香織に強引とも言える程に、リビングの入り口の方まで追いやられ、肩越しに振り返る。
潤の方へと様子を窺うと、あたしに向かってにっこりと微笑み返される。
「そうすりゃ、いーじゃん。片付けやっとくよ。
風呂、順番に三人って時間もかかるし、葵、先に入ってこいよ。
マジで御馳走様」
潤はそう言うと、そのままカウンターの方へと入って行く。
あたしがそうするのは、もう当然というようだ。
それでも少し悩んでいると、すぐにキッチンからは水音とお皿が擦れるカチャカチャという音が聞こえてきた。
何だかこれ以上、いいよ、とも言い難い雰囲気にされて、少し戸惑う。
半分は諦めた気分で。だけど、香織と潤の好意がくすぐったい。
こういうの、ちょっといいよな、って。
「じゃ、ご厚意に甘えて……」
照れ臭くて、香織に向かって少しだけはにかんで、あたしはリビングを後にした。