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夕方もお客様が多く、簡単に時間は過ぎていった。
客足が一度途絶えたかと思うと、またすぐにドアが開く音がする。
今日は忙しいな、と思いながら振り向くと、それは香織だった。
もう、そんな時間なのだ。

雨は何時の間にか止んでいた。
濡れたアスファルトには、幾つもの街の灯りや車のライトがぼんやりと白く反射されていて、上がって間もないのだと分かる。

上空は風が強いのか、雲の流れは速い。
ところどころ薄くなった雲の垣間から、その奥の空が見えた。
この調子だと、明日は晴れてくれそうだ。



「香織ちゃん、久しぶりだよね。ずっと忙しかった?
今日来るって聞いてたから、会えるの楽しみだったんだ」


潤が調子良く香織を歓迎する。
ちらりと様子を窺うと、二人は楽しそうに喋り始めた。
香織も、ふふっと、笑みを零している。

潤は元々、他人には調子が良いけれど、これは気を遣っているのだと分かる。
あたしと香織が気まずくならないように、だ。
昨日、あたしの好きな人は敬太じゃないとは言ったけれど、それでも潤は敬太があたしを好きだという事も、香織とはそれが原因で別れた事も、最近あたし達が連絡を取っていなかった事も知っている。

潤なりの気遣い。

だけど――。


「潤」


閉店準備のためにシャッターを少しだけ下げてから、振り向いた。


「これからお店片付けてから買い物行くと遅くなっちゃうから、潤は先に買い物行っててくれる?」


「え」と。潤は眉を寄せた。
視線が、大丈夫なのか、と、言っている。


「コレ、買い物のリストね。
あとはお酒も。ビールと……あと、適当に買ってきて。
あ。あたし、瓶に入ってるりんごのお酒がいいなー」


笑顔を作りながら、「はい」と、メモとお札を手渡した。


「分かった」


潤は納得したような笑顔を見せて小さく頷くと、すぐに「じゃ、行ってくる」と店を後にした。
あたしが香織と話をしたいことを察してくれたんだろう。

潤がいなくなると途端に店内はシンとなって、重苦しい雰囲気の空気へと変わった。
大通りを走り去る車の音が静かに流れ込む。

香織は黙ったままだ。
何を話していいのか、言葉が見つからないのかもしれない。


「ごめんね、すぐ閉店の支度しちゃうから。
椅子に座って待ってて」


あたしはその空気を破るように、笑みを浮かべた。


「え、手伝うよ」


香織はそう答えながら笑顔を見せる。
だけどそれは無理していることが感じられるものだ。


「あたしが呼んだんだから。座ってて」

「いいの。手伝わせて」


香織はカウンターに自分の荷物を置くと、さっと入り口の方へと向かった。
店頭に出してある植物をしまうためだ。
今迄にも、何回かこうして閉店間際に来て手伝って貰ったことがあるせいか、やるべきことを分かっている。

香織は無言のまま、慣れたように手際良く片づけを進めていく。
こちらを見ようともせず、ただ淡々と。

ちらりと窺うと、それは固く、表情のないものだった。
やっぱりあたしと二人きりなのが辛いのかもしれない。
一線引かれているようにも感じた。


「香織」


声を掛けると、香織はハッと弾かれたように顔を上げて、あたしを見た。


「あ、何?」


表面に貼り付けたような笑顔だった。
胸が、軋む。


「あたし……香織に話が……」


ぴくり、と、香織の目尻が動いた。


「うん。そうかな、って思った」

「――うん、あのね……」

「敬太くん、葵ちゃんに言ったんだ?」


香織は今にも泣き出しそうな笑みを作ってあたしを見た。
思わず、身体が固まる。

言葉を探す。
だけど何も出ないまま、息を飲んだ。
こちらを真っ直ぐ見る香織の瞳は瞬きもせず、そこから大粒の涙を膨らまし始めたから。


「そっか、とうとう言ったんだね」

「……っ。あたし――」

「謝んないでよ」


釘を刺すように香織は言った。


「別に、葵ちゃんが悪いわけじゃないでしょう?」

「でも、香織はずっと――!」

「やめてよっ!!」


裂くような声が響く。


「あたしは、それでも良かったのっ」


涙をいっぱいに溜めた瞳が、斬り付けるようにあたしを見る。


「あたし、葵ちゃんが思ってる程いい子じゃない!
葵ちゃんを恨んだ事だってあった! 何でよ、って、声さえ聞きたくないことだって!
葵ちゃんがいなければもしかして、って、そんな風に思ったり……!」


香織は、早口で捲くし立てるように言うと、うっ、と、そこで唇を噛んで俯いた。

こんな風に感情を剥き出しにした香織を見るのは初めてだ。


どれだけ――我慢させていたのか――……


手に持っていた鉢を乱雑に床に置き、香織の元に駆け寄り、肩を抱いた。
香織の身体は物凄く華奢で、壊れてしまいそうな程細い。
触れた肩は小刻みに震えている。


「いっそのこと、嫌いになれたらいいのに、って……どれだけ思ったか……っ」


香織は次々と涙を落とす。
あたしは、ぎゅっと、身体に回す手に力をこめた。


「香織の気持ち、気付かないでごめん」


香織の唇が歪む。
けれど、あたしはそのまま続ける。


「ずっと、傷付けて……ごめんね。
だけど、二人ともずっと、普通に接してくれたでしょ?
あたしはそういう気持ち、嬉しかったし、大事にしたいと思った」


あたしは抱いていた肩を離し、代わりに手を握った。
香織の手は酷く温かい。

黙ったまま香織は顔を上げて、上目遣いにあたしを見た。


「香織……香織があたしのことを嫌いになっても、あたしは香織が大好きだよ。
その気持ちは変わらないよ。
綺麗ごとに聞こえるかもしれないけど、あたしの大事な友達だから。
香織は何かあるときいつもあたしの傍にいてくれて。辛いとき、香織がいてくれたから立ち直れたこともあった。
お父さんとお母さんが事故にあったときも……親戚も、彼氏もすぐ近くにいなくて。
あの時、ずっと傍にいてくれた香織と敬太の存在に、どれだけ救われたか分かんないよ」


濡れた黒い瞳を逸らさずに見る。


「あたしは――香織が大好き」


香織は見開いた目の端から、涙を次々と零れさせたままあたしを見つめた。
ズッと洟を啜ると「駄目なの……」と、掠れた声で呟くように言った。


「敬太くんのことも、葵ちゃんのことも、嫌いになれないの……」


額をとん、と。あたしの肩に乗せる。
香織の重みが、そこから沁み渡る。


「あたし……どうやって……忘れたらいいんだろ……。
忘れ方……分かんないよ……」


切れ切れに言葉を繋ぐように、消え去りそうな声で香織が言った。


――『好きになりかけてたとは思う』

そう言っていた、敬太。
あたしも、そう思う。


「敬太が――香織を大切にしていたのは、傍から見ていても分かったよ。
二人が仲良かったのも。楽しそうにしていたのも。そこに嘘は無いと思う」


香織は身体を離すと、驚いた瞳をあたしに向ける。


「無理に忘れることなんて、ないよ」


潤が急に現れたせいで、あたしへは――きっと薄れていた感情が吹き出したんだと思う。

落ち着いてみて、香織の存在が敬太にとってかけがいのないものだと、気付いてくれるといい。


「ねぇ、香織。分かってたとは思うけど、あたし、潤が好き」


真っ直ぐ香織の目を見て言うと、香織も同じようにただ黙ってあたしを見た。
そして、瞼を瞬かせ小さく頷いた。


「潤は、きっと明日元の場所に戻る。ココからいなくなる。
だからその前に、香織にも自分の気持ち、ちゃんと言っておきたかったの」


香織はずっと、あたしたちのこと、見守っていてくれたから。
だから、ちゃんと宣言しておきたかった。


「あたしは潤のこと、忘れるつもりなんてないよ」

「葵ちゃん……」

「潤はいなくなっても、貰った気持ちは忘れない。
沢山、沢山貰ったの。好きだから苦しいことも哀しいこともあった。
だけどね、それ以上に楽しいことも、優しくすることも、胸が温かくなることも、前向きになる気持ちも貰ったよ。そしてとても大切に想う気持ちも。
今、あたしが花の仕事が好きでずっと続けていきたいって意志も、潤がくれた。
あたしはそれを全部、未来に繋げていきたい。
いつか他の誰かを好きになっても。絶対に今のこの想いを忘れないよ」


香織は苦しげに眉を寄せてあたしを見つめる。
そして、そっと瞳を落としてから、もう一度あたしを見た。


「ホント……葵ちゃんには敵わないなぁ……」

「え?」

「ねぇ、葵ちゃん」


ほんの少しだけ笑みを含んだかと思われた顔は、また真剣なものに変わる。


「葵ちゃんは、ユウキくんに自分の本当の気持ち、言わない気?」


澄み切ったような瞳があたしを射すくめる。


――言わない気、って……


答えられずにいると、香織は落ち着いたような声でゆっくりと言った。


「本当にユウキくんがいなくなるなら、きちんと言って」

「――や。だって……」


思わず、曖昧に笑みを浮かべた。
どう答えていいか分からなかった。

あたしが自分の気持ちを言うことで、潤との関係が崩れたくないから。
最後まで、楽しく過ごしたいって。だから、やっぱり言えないって、そう思っていたのに。

香織は、そんな気持ちもまるで見透かしたような瞳であたしを見る。


「言って」

「だって……潤には彼女が――……」


言いながら苦しくなって、言葉が途切れた。

矢沢カンナは、潤の事務所公認の彼女。
彰くんはそう言って、彼女はそれを認めた。
それは紛れもない事実。


「このまま会えなくなるんだよ!
葵ちゃん、忘れないって言ったじゃない。それ程好きなら、後悔しないで!」


香織の言葉が、胸を貫く。

最後まで楽しく過ごしたい。潤に、余計な煩わしさを持たせたくない。
――それは、もしかしたら怖がっているだけなの?
自分の気持ちだけを貫き通せばいい、って。それは逃げていることになるの?


「ユウキくんは、葵ちゃんのこと大切に思ってる。それはあたしにだって分かる。
それを迷惑だなんて思う筈ないでしょ?
ユウキくんは、きちんと答えてくれるよ」

「―――」


涙が自然と零れ落ちた。
沢山の想いが溢れて。
香織の気持ちも。潤の気持ちも。敬太の気持ちも。全部。
それぞれに、誰かを想う、大切な、貫きたい気持ち。


……うん。

言おう。


明日――潤はきっと、全てを話してくれる。そう、信じてる。
だから、あたしの気持ちもきちんと言おう。包み隠さずに。
潤があたしの元からいなくなっても、他の人が好きでも、その想いは変わることはない。


「うん」


力強く、答えた。

そんなあたしを見て、香織はふっと微笑んだ。
もう、彼女の涙はとうに止んでいて。あたしを包み込むような優しい笑顔だった。

香織の柔らかい指の腹が、あたしの涙をそっと拭う。


「あたしも――葵ちゃんは大切な友達。
だから、負けないで欲しいの。
葵ちゃんの可能性に賭けて。
あたしも、負けないから。だから」


きゅっと、強く掌が握られる。


「うん。香織も――ね」


あたしも強く香織の手を握り返した。


苦しく淀んだ気持ちが、香織によって解される。
不思議――ホントに。


どちらともなく、そこに笑みが零れた。

 

 update : 2008.12.04